第1話 トルネ村のリリー
森の奥に行ってはいけない。
それがこの村での古い約束だった。
「行ってきまーす!」
丘の上に建つ家から少女が勢いよく飛び出す。
青空色の髪が風にさらりと靡く。
「これこれ、リリー。待ちなさい」
草原を駆け出そうとしたリリーを、家から出てきた祖父が呼び止めた。
「いつもの約束がまだだよ」
「あっ、ごめんなさいお爺ちゃん。えーっと……、日が暮れる前に帰ること。それと──、森の奥に行かないこと、ですね!」
祖父は白い髭をゆっくりと撫でながら頷いた。
「そうそう。約束、ちゃーんと守るんだよ? それじゃあ、行ってらっしゃい」
「はーい!」
リリーは指を丸めて口に当てると、大きく息を吹き込む。
ピィー、と甲高い音が丘に鳴り響く。
それを合図に遠くから茶色い影が走り寄ってきた。
狼のモンスター【バンディウルフ】だった。
「わははっ! 今日も遊ぼうね、バンディちゃん!」
バンディと呼ばれた狼はリリーに近づいて大きな体を擦り付けてくる。
彼女は両手で全身をわしゃわしゃと撫でた後に、背中を軽く叩く。
バンディがしゃがみ込むと、リリーはその背中に飛び乗った。
「行こう!」
リリーの言葉に反応し、バンディは丘を駆け出す。
振り落とされないよう、首筋の毛をしっかりと掴む。
道中、自分の家に向かう村の男たちとすれ違った。
「こんにちは!」
「やぁリリー嬢ちゃん、こんにちは。遊びに行くのかい?」
「はい!」
「あんまり遅くならないようにね」
「はーい!」
村人たちと挨拶を交わすと、リリーはバンディと共に先へ進んだ。
ふと振り返ると、丘を背にした位置から村全体を一望した。
庭を掃く人や家畜の世話をする人など、穏やかな日常が広がっていた。
自分の背後には山脈が悠然と聳えている。
青空の下、いつも通りの光景に自然と笑みが零れた。
「さぁ、今日もやりましょう! 森の探検!」
森に到着したリリーはバンディと一緒に入っていく。
丘とは違う光景。鬱蒼とした木々が並び、葉が太陽の光を遮って暗い。
バンディが歩くところは獣道だがリリーが茂みに引っかからないよう、こまめに体を傾けて道を選んでいる。
村を囲っている森を見回るのがリリーの日課だった。
彼女たちの背後、木々の合間からふいに青白い何かがゆらりと浮かぶ。
ベールを被ったような存在。音を立てず、ゆっくりと真上から近づく。
細い指がすぅっと伸び、リリーの首筋にそっと触れた。
「ひゃっ!?」
冷たい感触に全身がびくりと震えて跳ねた。
リリーはすぐに振り向くと、そこには青白い何かがこちらを見下ろして、くすくすと笑っていた。
「もーっ、ゴーストちゃん。びっくりさせないでよ~」
幽霊のモンスター【ゴースト】のイタズラに頬が膨らむ。
彼女の反応にイタズラ好きのゴーストも満足な様子。
一匹のゴーストがリリーの耳元まで寄って囁いた。
「……え? 珍しいことが起きてる?」
頷くゴースト。
それを聞いたリリーの胸が躍る。
村での遊びは楽しい。でも、そろそろ飽きてきたのも正直なところだった。
何かちょっとした刺激がほしかった。
「そこに案内して、ゴーストちゃん」
リリーはゴーストに案内されて森の中、奥側へと進んでいく。
しばらくすると、彼女を乗せるバンディの足が止まった。
「ここって……」
視線の先、森が広がる光景。
だが、リリーたちの目には僅かに空間が揺れている。
唾を飲み、バンディの毛をぎゅっと掴む。
古い記憶が蘇る。
幼い頃、リリーはこの先に行ってしまったことがある。
どうしてそんなことをしたのか、本人もよくわからない。
微かに残るのはぐるぐると森の中を彷徨い続け、村の大人たちに助け出されたことだ。
だが、それだけではなかった。
合流した祖父にこっぴどく怒られたのだ。
優しい祖父から怒られた記憶は、どれだけ遡ってもこれだけだった。
我に返ると自分の体が震えていた。
「この先に行かなきゃダメなの……?」
ゴーストたちはリリーの前に浮かんで首を縦に振る。
「でも……この先はダメって、お爺ちゃんが……」
声を震わせる彼女にゴーストたちが耳元で囁いた。
──大丈夫。一瞬だよ。ほんのちょっと、それを見るだけ……。
──この先にあるものに森の皆は興味があるよ。
──だから、森の皆はそこに行ってここにはいないの。
──それを見てすぐ帰れば大丈夫。今なら皆そっちにいるから大丈夫……。
その言葉は、胸の中で恐怖が好奇心に塗り替えられていく。
退屈な日常にちょうど刺激が欲しかったところだったのだ。
気が付けば、胸の鼓動が弾んでいた。
「……すぐ戻れば大丈夫、だよね?」
視線を下に向けると、バンディが心配そうにじっとこちらを見上げていた。
だがリリーは先に進むよう指示した。
膨らんだ好奇心はもう止められない。
ゴーストたちの案内でリリーたちは進んでいく。
途中、妖精のモンスター【フェアリー】たちが羽から鱗粉をはらはらと撒きながら飛んでいる。
普段は臆病なフェアリーたちも、この先にあるものが気になるようだった。
やがて森の中にぽっかりと開けた場所に出る。
土が小高く盛り上がり、そこから植物が芽吹いていた。
周囲を様々なモンスターたちがその場を囲っている。
リリーたちが着いたことに気が付くと、モンスターたちは後ずさりをした。
開かれた道の先、一人の少年が静かに横たわっていた。
◇ ◆ ◇
リリーが森に入る少し前、祖父の元に先ほどすれ違った村の男たちが訪ねてきた。
「どうもどうも長老。ただいま戻りました」
「おお、ご苦労だったな。で、周りの様子はどうだ?」
「それがですね……」
帽子を脱いで挨拶をした者が、ふと視線を逸らした。
言いにくそうな様子を見て、祖父が彼の肩を叩いて落ち着かせた。
「長老に言われた通り調査しましたが、やはり森の中に住むモンスターの様子がおかしかったです。妙にそわそわして落ち着きがなくて、大人しい方のモンスターは何かに怯えているようでした。聞けば山に生息していたはずのグリフォンがこっち付近まで近づいてきているって……」
グリフォン──。その名を耳にした瞬間、祖父の表情が険しく引き締まる。
猛禽類の頭と羽、猛獣の胴体を持つグリフォンは上位種と認知され、強さも並大抵ではない。
「なんと……。プライドの高いあのグリフォンが……?」
「そうなんです。初めは縄張り争いに負けた──そうだと思ったのですが、別のグリフォンが来た痕跡はありませんでした」
祖父と村人は丘の向こうに広がる山に目をやった。
グリフォンは強さを誇示する為に高い場所に生息している。
それがわざわざ下に降りてきた事に嫌な予感が拭えない。
「長老、“外”で何かあったんじゃ……」
沈黙が広がり、村人は顔を見合わせていく。
祖父は山に向けた視線を森に変えて口を開いた。
「ワシらにとって“外”で何があっても関係ないが……まぁ、妙な事態になったことは間違いないのう。実際、最近だとここを守る結界も不安定になってきている。一度、強める必要があるな。構わんか?」
「問題ないと思います。ここの皆の安全が一番大事ですから……。事情を言えば全員納得してくれるはずです」
「グリフォンの件は明日に回そう。今日のうちに狩人を集めておいてくれ」
「わかりました」
「さぁて……今年の冬は少し堪えるかもしれんな。皆、すまんのう……」
「大丈夫です。それじゃあ、俺たちはこれで……」
村人と別れの挨拶を済ませた祖父は森のほうに目を向けてため息を吐く。
遊びに行ったリリーは、今頃どこにいるのだろう。
しばらくは森に行かせられないことに、心苦しさを覚えながら祖父は家に戻っていった。




