第1話 『少年の終わり』 4
少年の住むのは、酒場の二階。
以前は従業員の仮眠や休憩に使われていた部屋で、六畳一間だが台所と、ちょっとした床の間もあり、押し入れもあった。
つまり少年と妹が二人で住む分には、申し分ない広さと言える。
もちろん兄妹とは言え男女のこと。時に気まずい場面もあったが、工夫と気使いでどうにでもなった。 そんな部屋で、今夜から少年は妹を写し取った謎のニンギョウと共に暮らしていかねばならない。
今、妹が本当に大変な時だというのに、少年はニンギョウと向かい合って座っている。
丸いちゃぶ台。お揃いの皿に匙。湯気をたてたカレーライス。だが一向に、少年は喋る気配がなかった。
この状況は、少年が冷たいのではない。
――そうするより、このおかしな時間を消化するすべがないのだ。
少年は、スプーンも取らずに水をひとのみ、ニンギョウの手元を黙って見ていた。
聞きたいことは山ほどあるのだろう。しかし、少年は決して口を開かなかった。だからカレーも口には入らない。そんな少年を見つめながら、ニンギョウは「いただきます――」とひとこと言った。
さて、夕餉は開幕したというのに、いまだ二人はだんまり。
もう五分は経ったろう。カレーの湯気も落ち着いてきた。静寂の理由はもちろん、少年の態度にあった。少年は頑として、口を開こうとしない。きっとかなりの決意と覚悟を秘めているだろう事は、ニンギョウにも分かるはずである。
ところがここで、ニンギョウが不可思議な行動を開始する。
まず少年のスプーンを取り上げると、カレー皿からひとさじすくった。ちゃぶ台は小さかったから、腕だけ伸ばしても届くというのに、ニンギョウは膝立ちになって匙を少年の口へと近づけた。その表情は妹そのままに朗らかで、たおやかで、少年は思わず見とれてしまいそうな自分を戒めるようにそっぽを向く。
「もう! 子供みたいだヨ?」
ニンギョウの、ツインテールが顔の傾きにあわせて揺れた。そして少年の口を追って匙を動かす。少年の唇にカレーが少しついた。熱くもあったのだろう。少年は匙をパクリとくわえると、そのまま口で匙を奪い取った。
「わっ! お行儀わるいノ!」
ニンギョウは口を尖らせたけれど、少年がそのままカレーを食べ始めたので満足したのだろう。自身もカレーをぱくつき始めた。
それにしても、たかがカレーライスを食べるだけで、この調子である。
――二人の生活はきっともたない。
これが新婚生活だったなら、たくさんの祝福者たちは頭を抱えた事だろう。
だが二人は誰からも祝福されるはずのない、運命のみに結ばれた間柄である。
やがて、カレー皿は空になった。いつも通りの『おかわり』もせず、少年は食器を流しに運ぼうとする。
それをニンギョウが引き留めた。「少し話そうヨ?」と言うのである。
少年は、満腹で多少は心が緩んだのか、それを受け入れて座った。
しかし心のはけ口たる口元は、相変わらずチャック状態――。
「ワタシの事、やっぱりダメ? 嫌い? 教えてヨぉ……」
甘えた声は妹そのもので、そうされればされる程、少年はニンギョウが嫌いになる。
少年はついに、瞳も閉じた。
「嫌われて、あたりまえだヨね……」
少年はニンギョウが立ったのが、音で分かった。やっと、出て行く気になったのかと、少年は複雑ながらもホッとした。
破壊できないが守る気もない。端的に言うと、関わりたくない。少年にとってニンギョウは、その程度の存在なのである。だから、自分から出て行ってもらうのが最も望ましい。後はドアが開き、閉じる音を待つのみである。
「パサ――、パサ――」
「……………………?」
しかし、聞こえてくるのは妖しい衣ずれの音。少年は薄目を開けて絶句した。
――ニンギョウが、洋服を脱いでいる!?
畳の上にはもう、シャツとスカートが脱ぎ捨ててあった。その服の上に、下着が落ちてくるのは時間の問題だろうか。
(「こいつ……誘惑する気か!? 俺は妹のなんか見慣れて……る……」)
だがそれは強がりで、ニンギョウが妹でない事を承知の少年の脳髄は、無関心を許さない。
「おっ、おまえ!? 一体何をっ!? 美亜と俺はそんなことしない――」
少年はうつむいた姿勢で、必死の言葉を絞り出した。
「あー! やっと話してくれた! これでも寂しかったんだヨ?」
「えっ――?」
ニンギョウは思わず少年に飛びついている。
そして少年は、ニンギョウが裸ではなく、パジャマに着替えたのだと知り、少しがっかりした。
「なあ……お前、何なんだよ? ゴミ捨て場で見た時は、黄色い髪で目も緑だった。顔も違っただろう? それがなんで美亜そっくりに化けちまって……。背丈まで変わったんじゃないか……? ありえない――」
一度言葉が出ると、無言の行の反動なのか少年は饒舌である。
「からだも同じだヨ。すみずみまで――」
「ぐむ……」
もし本当にそうだとしたら、さっき抱きついてきたニンギョウの胸が、現在の妹のサイズ。
少年は慌てて頭を振った。
ところで、ニンギョウはあの鬼朽真清いわく《性愛処理型》。その仕様が、どういかがわしいかくらい、少年にだって分かる。更にニンギョウは欠陥品。だから処分対象というわけだが、詳しいことは何一つ教えられていない。
分かっているのは、少年がこのニンギョウを守らなければ、あの美人連れの不良中年に処分されてしまうという事のみ。
「とにかく――お前がなんなのか教えてくれ。でなきゃ、俺だってどうしようないだろ?」
正直なところを問う少年に、答えはすぐ帰ってきた。
「ワタシはエンゲージ・スタイル・ノヴァ。ワタシはどんな姿にも変われる。主の望みのままに、何度も姿を変えるのが、ワタシたちエンゲージ・スタイルのさだめ」
その言に、少年は社会のゆがみなど感じない。ただ「可哀想だな」と思った。
「――自分が無いって事か? ニンギョウだから? あと、マスターって……?」
知らぬ間に、少年はニンギョウの目を見ている。ニンギョウもまた、見つめ返していた。
「エンゲージ・スタイルに個を認められた者などいません。求める者も。……マスターとは、ワタシたちの所有者。これもワタシ達に選ぶ権利はありません――」
「でも、お前は……」
少年はニンギョウに『マスター』と呼ばれたことを思い出した。
「だからワタシは、欠陥品――」
ニンギョウは立ちあがると少年に背を向け、またしても脱ぎ始める。背中は薄く白く、腰も尻も、少年が知っていた妹とは違っている。
「欠陥なもんか――」
少年はニンギョウの背中にパジャマを羽織らせると、自分も後ろを向いて背中合わせになった。そしてそのまま、両手を握る――。
「お前の事、なんて呼べばいいんだ……?」
ほんの少し尻が触れて、少年は体を固くする。
「何でもいいヨ。ワタシもマスターをなんて呼べば――?」
ニンギョウの指に力がこもった。
「俺もなんでもいい……じゃ終わらないな、この話。貴士でいいよ。おまえはノヴァでいいか?」
「――イエス、マスター。っじゃなくて、たかし……貴士!」
「よろしくな。ノヴァ」
* * *
「マスター。エンゲージ・ノヴァが完全起動しました。本当にあの少年で良かったのですか? まだ適任者はいたはずですが――」
そう呟くのはトラヴァース・アマンダ。
マスターとはもちろん、鬼朽真清である。
二人は今、少年の妹――美亜――を療養させるべく、しかしどうしてか空の上。旅客機に擬した飛行機に乗り、遥か上空を航行中であった。
「ふーん。彼以上の適任者ね……。アマンダ、キミはあの少年が嫌いかい?」
鬼朽真清は機内だろうと構わず煙草を吸う。
「私はマスター以外に好悪の感情を持ち合わせておりません」
アマンダの答えは無機質だったが、鬼朽真清だけにはそうは聞こえない。
「好悪……ねぇ。じゃあボクを嫌う事もあるわけだ。アマンダ?」
「マスター、意地悪です」
鬼朽は煙草をもみ消してアマンダを抱き寄せる。
「当分、あの二人に任せようじゃないの。ボクはシンクロニシティ(※)を信じるタチでね――」
ところで、今この瞬間飛行中の航空機は千を超える。
鬼朽真清は身を隠す為に、空の千分の一になる事を選ぶ、そんな男である――。