一話【終わりの予兆】
「ほらほら、神木君。ボーっとしちゃだめだぞー」
「は、はいっ。すみません」
皿洗いの手を止めている俺の背中に、先輩からの注意が飛んだ。先輩が両手を上げ、呆れたような表情を浮かべる。情けない。これで何度目だろうか。
ホールに目を向ければ、スタッフたちが慌ただしく料理を運んでいる。俺はこんな調子だからホールにも出られない。ジョンさんも母国のアメリカでごたごたしているのか、未だに店には戻ってきていなかった。最近新たなアルバイトスタッフが入ってきたが、まだまだ戦力とは言い辛い。俺が言うのどうかと思うが。
アキトに助けられて二週間近く経った。数日は体のだるさと筋肉痛が抜けなかったが、今は快調そのものだ。
あの日から四回魔物退治に向かった。無理はしないようにと簡単そうな依頼を選んだのだが、それを考慮しても楽勝だった。一回目の戦いなどはまだ本調子ではなかったはずなのに、体は羽を通り越して空気のような軽さを感じた。もはや重さを感じないレベルだ。それなのに、力を込めれば自分の何倍もの巨体を軽々吹き飛ばした。戦い終わっても高揚感が収まらず、がむしゃらに走り回ることもあった。
もはや、名枕やアイテムに頼る気にもならなかった。それよりも、自分の拳を敵に叩きこむことに充実感を覚えたから――。
「オイッ! 叶銘ェ!」
マスターの怒号が飛んだ。持っていた洗いかけの皿を落とし、床で甲高い不吉な音が響いた。
「すみません!」と謝罪しようとして、その言葉を発する前に店の外へつまみ出された。
俺はエプロンを畳み、地面を眺めながら帰路に着いた。
母さんは、ちょっと痩せた気がする。作り置きされていた晩御飯を食べながら、母さんの顔を盗み見る。彩音と一緒に音楽番組を見ながら、洗濯物を畳んでいる。
神木家の昔の話は、正直どうでもよかった。昔から日本史や世界史は苦手科目だったが、家系に関しても俺は興味を持てない人間らしい。
しかし、今の生活が崩されるのだけは我慢ならない。そして、母さんが危険な状況にあることも感じ取っていた。息子の勘だが。
そして、もしもそれが本当なら、苦しめている原因は俺だ。正確には、俺の中に眠る、黒い獣とやらだ。そんなものどうすればいいんだ。自分の首を絞めろっていうのか?
気が付くと、彩音がどんぐり眼で俺を見ていた。またボーっとしていたようだ。俺は箸を振って「なんでもないよ」と応えると、一気にご飯を掻きこんだ。視界の端で、彩音は首をかしげていた。
寝支度を整え、ベッドに寝そべった。タオルケットを体に掛けると、枕元に置いてあった紙に目をやった。母さんからもらった紙だ。
こうして紙を睨みつけるのは何度目だろうか。しかし何度見ても、その電話番号に掛ける気にはならなかった。いっそ捨ててしまいたい心情なのだが、これは俺の人生に深くかかわってくるものだ。あの時の母さんの表情からも、それは確かだ。
電気を消してまぶたを閉じる。俺は頭の中で、電話を掛けた場合のシミュレーションをしてみた。しかし、何度考えても楽観的な展開を迎えることはできなかった。そうしているうちに、意識は暗い夢の底に沈んでいった。
「――で、どういうことだ。これは?」
翌朝、俺は彩音の眼前に自分のスマートフォンを突き出した。そこからは目覚ましのアラーム音が流れているが、それが問題だったのだ。
「いいでしょ。可愛い妹の爽やかな歌声で目覚められるんだから。幸せ者だねぇ」
「お前なぁ……」
手元から彩音の歌声が流れていた。おそらく、友達の家で練習していたという、例の曲だ。音楽には門外漢の自分だが、やはり素人高校生の演奏だ。演奏にまとまりがないし、どこかで聞いたようなメロディ。彩音がボーカルまで務めているのは驚きだったが、その歌詞も若者人気の高いバンドから摘まんできたものを、いくつも継ぎはぎしたようなありきたりなものだ。
「……まあ、悪くないとは思うけど」
俺の口を突いて出てきた感想は、結局それだった。確かに、技術的には穴だらけだ。せいぜい、ちょっと上手い素人レベルと言える。
しかし、経験も何もかも足りないからこそ、頭を捻り、試行錯誤して作り上げた必死さを感じる。妹びいきと言われたらそうなのかもしれないが、嫌いな曲ではなかった。大体、何も成し遂げていない俺が文句を言う筋合いも無さそうに感じる。
そっけない感想だったかなと少々後悔したが、彩音はにい~っと口を横に広げ、満足そうだ。心の中では「してやったり!」とでも思っているのかもしれない。
それがきっかけになったのかもしれない。俺は「今日中に電話をかけてみよう」と思い始めていた。彩音は、しっかり自分を持って前に進んでいる。こうして、拙いながらもオリジナルの一曲作り上げた。俺が魔物退治なんて非現実なことに没頭している間に、しっかり地に足のついたことをしている。
そういえば、彩音は神木家の過去のことを知っているのだろうか。彩音にも、何か不思議な力が宿っているのではないか。
「どうしたの、兄ちゃん?」
「いや、なんでもないよ。それより、今日も友達の家に行くんだろ? まだまだ上手いとは言えないんだからさ、しっかり練習してこいよ」
「うわー、辛辣―」
不承不承と言った感じで、彩音は身支度を始めた。「あたしの曲、消したらぶん殴るからね!」と、釘を刺すことも忘れない。苦笑しながら、俺もようやく朝食の準備に取り掛かった。
思えば、今日はチャンスかもしれない。彩音は午前中に演奏の練習に行くらしいし、母さんは友達と旅行中だ。母さんに関しては、実際は別の用事なんだろうが。あまり察して欲しくは無いらしく、それが少し苛立たしい。母さんにではなく、その原因となっている自分に、だ。
「俺も、そろそろ決着を付けないとな」
テレビの中では、胡散臭いコメンテーターが唾を飛ばしていた。この数日魔物の姿が見られないのは、何らかの良くない予兆だと熱弁している。
この人が俺の代わりに世界を守ってくれたらいいのにな。そんなことを考えながら、フライパンに卵を割り入れた。




