八話【グラウンド・ゼロⅡ】
「たっだいまー!」
バケツに虫取り網、麦わら帽子にタンクトップに短パン。「夏休みの小学生男児フル装備」を地でいく乾颯太。ちょうど友達との午前の遊びを終えて、家に帰ってきたところだった。
「おかえりー。素麺茹でるから、はよ着替えてきんさい」
「ゲッ! またソーメンかよ。母ちゃん勘弁してよ!」
「うっさいわねー! 文句あるなら自分で作りんさい!」
チェッと唇を尖らせて、颯太は遊び道具を庭の倉庫に放り込んだ。バケツの中にいたザリガニは、庭の池に放してやった。狭い場所から解放されたものの、元いた場所と違う環境に戸惑い、ザリガニたちは右往左往している。
「ほっほ。今日は随分大漁じゃのう」
「じーちゃん!」
いつの間にか、颯太の背後には笑顔のおじいちゃん。
孫の颯太が可愛くて仕方ないおじいちゃんは、いつも颯太の味方だ。颯太は、自分がおじいちゃんに怒られた記憶など一度も無い。
しかし、今日のおじいちゃんはちょっと困り顔だ。そもそもザリガニやらタニシやらを捕ってくるのは、母親に禁止されている。おじいちゃんの説得により「少しならいいよ」ということになっているが、今日の収穫量はその上限を大幅に超している。こうなると、如何におじいちゃんだろうと説き伏せるのは難しい。
「そもそも、颯太は虫やら魚やら捕るのは苦手じゃろう。今日は突然どうしたんじゃ?」
振り向いた颯太は笑顔で話した。
「なんか、よく知らない兄ちゃんたちが手伝ってくれたんだよ。二人いたんだけどさ、どっちもすっげえ釣り上げるの!」
「へぇ、いい兄ちゃんたちがおったんやなぁ」
今時、知らない子供と遊んでやろうなんて大人も滅多にいないだろうにと、おじいちゃんは知らず知らず目じりが下がっていた。
「颯太―! もう茹で上がるわよー!」
いっけねぇ! と、颯太は適当にザリガニたちに餌をやり、草履を放り出して台所に向かった。散らかった草履はおじいちゃんが丁寧に揃えた。
台所に駆け込む颯太の首元には、春の無動山で拾った青い勾玉が輝いていた。
素麺をすすり、夏休みの宿題をし、昼寝をし……颯太は小学生らしい夏休みを満喫していた。去年までは基本的にこの流れで午後を過ごしていたのだが、今年の夏休みから加わったことがある。
それは、もはや日課となったランニングだった。特訓の甲斐あり、ゴールデンウィーク前のマラソン大会では、六年生をも圧倒する走りを見せつけた。その結果堂々の全校生徒中五位であり、颯太はちょっとしたクラスのヒーローになっていた。自信を付けた颯太は、意中の女の子に気軽に話しかけられるようになった。乾颯太が、一つ上の男になった瞬間だった。
しかし颯太には、まだ心残りがあった。一つは、表彰台を逃したこと。三位以内なら、全校生徒の前でちょっとした表彰を受けられるのだ。
もう一つは、無動山の謎だった。何かが暴れ回った跡、大きな猿の形をした炭、落ちていた勾玉のペンダント。ランニングの継続と共にその探究心を大きく成長させた颯太は、「あの山には、きっと何かある!」と確信していたのだ。
結局それ以降は何も起きてはいないのだが、秋のマラソン大会に向けた特訓も兼ねて、未だ頻繁に無動山へと走っていたのだった。
「――よっし。それじゃあ今日も行こうかなぁ」
昼寝後の宿題タイムを終え、颯太はランニングウェアに着替えた。春のマラソン大会の好成績から、おじいちゃんが買ってくれたのだ。
そして忘れないように、首に勾玉のペンダントをぶら下げた。無動山に向かうとき、颯太はそれをお守りのようにしていた。そのご利益なのか、今まで事故に遭ったこともないし、怪我をしたことも無い。
念入りにストレッチを終えたところで家を出ようとすると、池の前で母親とおじいちゃんが揉めていた。その火種は、まず間違いなく池のザリガニのことだ。
「やっべぇ……」居づらくなった颯太は、知らんぷりして廊下を進み、できるだけ音を立てずに玄関を出た。そして逃げるように、その場を離れた。
「ザリガニ……食っちゃえば減るんじゃないかな」
後ろ髪を惹かれながらも、颯太の足は軽快に回っていた。
ほっほっほっほ――。
心地よい疲労感が溜まってくる。もともと体を動かすのが得意な颯太だが、ランニングでスタミナをつけてからはより洗練されてきた。後ろに流れていく田畑を横目に、颯太は一定のリズムで走り続けていた。走り続けているうちに無心になり、真夏の日差しすら意に介さない。
「――おっと」
気が付いたら、無動山の麓にまでやって来ていた。既に道路の整備が終わっており、今回は躓かなかった。しかし、ボロボロになった木々は変わらない。燃えるように照らされた木々は、なんだか儚く寂しげに感じた。
「なんだか、人の気配がするよな」
上手くは言えないが、いつもとどこか違う。夏休みに入ってほぼ毎日来ているためか、その微細な変化に颯太は気づいた。今日、誰かがこの山道を通った……そんな気がしてならない。
実の所、その勾玉以外には何も収穫は無かった。それだけに、颯太の胸は弾んでいた。「今日は、何か見つかりそうな気がする!」そんな期待に上気し、颯太は弾むように山道に飛び込んだ。
既に自分の庭のように熟知した無動山。颯太は山道を何度か逸れながら、とにかく念入りに山の観察を始めた。
そして、山に入る前の違和感が確信に変わった。明らかに、枯れ枝の数が減っている。動物が持って行ったとも考えにくく、人が持って行ったと見て間違いなかった。
そして決定的だったのは、河原にテントが張ってあったことだ。周囲を警戒しながら近づいて見ると、ほのかに焦げ臭い。きちんと片づけられているが、ここで薪を燃やしたのは間違いなさそうだった。
しかし不思議なことに、そこには誰もいなかった。テントで寝ているのかと思って覗いてみると、そこにはキャンプ用具が置かれているだけだった。いくら山の中とはいえ、不用心すぎる。それぐらいは颯太にもわかった。
何か不思議なことが起ころうとしている! 颯太の興奮が頂点に達しようとしたとき、頬に熱風を感じた。同時に、植物や肉の焦げる臭いが鼻を突く。
川のせせらぎで気が付かなかったが、耳を澄ますと、何かがぶつかり合うような音がする。時々、ピリピリと地面が細かく振動している。
「工事……にしては、なんだかおかしいよな?」
音の方角に首を伸ばすが、山の中では遠くまで見渡せはしない。
「行ってみるしかないか?」普段から能天気な颯太だったが、この時ばかりは緊張感が体を支配し始めた。しかし、ここまで来て諦めきれない。なに、ちょっと確かめて、危なそうだったらすぐ帰ればいい。
ちゃんと、「行ってきます」を言ってくればよかったかな。颯太は首の勾玉を握りながら、違和感の源へ足を向けた。
カシャカシャと落ち葉を踏みしめながら、颯太は腰をかがめて用心深く進んだ。音と振動の発生源は細かく移動しているが、大きくは変わらない。それに、火の玉でも転がってきたかのように、草木が燃えた跡が一直線に伸びている。それを辿っていけば辿り着きそうだ。
歩みを進めるにつれて、だんだん音が大きくなっていく。ズドン、カキンと、痛々しい音の衝撃が体に響いてくる。それに共鳴するように、颯太の心臓も激しく脈打ち始めた。このままでは心臓が飛び出してしまうのではないかと、ぎゅっと胸のあたりを押さえつける。
そうしてたどり着いた。少し傾斜が急になっており、その下の方で何かが動いている音が聞こえてくる。
少し見回すと、ちょうど崖になっているところに大きな茂みがあった。そこに体を滑り込ませ、膝立ちになって上から顔を出す。そうして、やっとお目当てのモノを見つけた。いや、見てしまった。
それは、ゲームに出てくる騎士のような鎧だった。元は黄金の煌びやかな鎧だったのだろうが、あちこちがひび割れ、泥に汚れている。右手の槍は先端が砕け、左手には半壊した大盾が握られている。それにしても不思議なことに、ひび割れた鎧の中は、空洞のように真っ暗になっていた。
その中身が空っぽに見える鎧は、片膝を突きながら、前方を睨んでいた。その視線に促されるように、颯太もその先へと視線を動かす。
そこには、真っ黒な、獣と人間の中間のようなモノがいた。一見すると巨大な狼のようだが、その手足の指は人間のそれだ。
その体の表面には黒い煙のようなものが漂い、微細な毛並みが揺れているかのように見える。夕日に照らされている部分など、まるで黒い炎が燃えているかのようだ。
その獣の薄く開いた口から、細い息が漏れる。その吐息に揺られた草花は、生気を奪われたように萎れ、朽ち果てていく。よく見れば、獣の足元を中心に下草が黒く変色し、カビのようなものがびっしりと生えていた。
颯太は固まっていた。子供の颯太にも、これが“この世にありえないモノ”だということを直感していた。体中に、冷たい汗が噴き出している。
逃げないと――!
そう頭では分かっているのに、金縛りにあったように動けない。少しでも動けば、その瞬間に気づかれて、取り返しのつかないことになるのではないか。その恐怖が、颯太の体をがんじがらめに固めていた。
すると、クンクンと獣が鼻を鳴らし始めた。まっすぐに鎧を睨んでいた獣は、妖しく光る眼をゆっくり動かし始めた。
何かを探している。何を? 僕を?
ああ、もうだめだ……頭を引っ込めることもできないまま、颯太は自分の人生の終わりを感じていた。
こんなことなら、真面目に宿題なんてやらずに遊んでいればよかった。新発売のゲームも買っておけばよかった。一度ぐらい旅に出て見たかった。あの子に告白していればよかった――その短い人生の悔いが、とめどなく溢れてきた。
「バカ。早く引っ込めよ。見つかるぞ」
へっ? と思ったと同時に、服を引っ張られて茂みの中に沈んだ。ガリガリと乱暴に枝葉に引っ掻かれて顔中が痛い。
茂みの隙間からは、わずかながら鎧と獣の二体が見える。獣の方はまだ周囲を警戒しているようだが、姿が隠れたことで颯太の恐怖心は若干和らいでいた。
そして颯太は、自分を茂みに引っ張り込んだ犯人――いや、恩人の顔を見た。
「……ザリガニの兄ちゃん、なんでこんなとこにいるの?」
その毬栗頭の青年は、ぶすっとした顔で言った。
「おい、ガキ。その口のきき方は何だ。アキト兄ちゃんと呼びなさい」
不機嫌になったアキトは、ベシッと颯太の額にデコピンした。




