二話【二回目の講義】
四月十五日月曜日。
眠い目をこすりながら、久しぶりに一人で登校した。本当ならアキトや美津姫と一緒に登校したいのだが、いつもより三十分は早く出たので、それに付き合わせるわけにもいかなかった。
隣に“誰か”がいないというだけで、単純な気温以上に肌寒く感じる。とっくに慣れたと思っていた、この寒さ。知らないうちに、僕は温かい場所に慣れ始めていたようだ。
ジャケットのポケットに両手を突っ込みながら、僕は“勇者冒険学”が開かれる「六号館」の戸口に仁王立ちしている。この「六号館」は魔王の登場と同時に現れた校舎で、トイレと一つの教室が入っているのみだ。着いてすぐ教室とトイレ――こっそり女子トイレも――覗いてみたのだが、まだ誰も来ていないようだ。早く来た甲斐はあったようだ。
細かいいきさつは省くが、魔王となった父さんと、行商人と自称するチャップマンとは、何かしらのつながりが示唆されている。そしてチャップマン・“勇者冒険学”講師の藤間富男先生・居酒屋“戯流堵”のマスターの間にも、またつながりがあると思われる。この三人から話を聞けば、父さんへとつながる手がかりが得られる可能性は高い。
一度はマスターに訊ねようとしたが、思いがけない笑顔に動揺してタイミングを失ってしまった。というわけで、今度は藤間先生に訊いてみようということだ。
ポカポカと心地よい朝日の中、僕はただただ待った。ふわぁと、大きなあくびが出た。
五分後――誰も来ない。
十分後――誰も来ない。
十五分後――誰も来ない。スマートフォンのアプリで遊び始める。
二十分後――来た! と思ったら、鳩だった。黒い真ん丸な瞳が、不思議そうに僕の顔を覗いている。
二十五分後――アプリを終了する。誰も来ないが、鳩は五羽に増えていた。
三十分後――キーンコーンと、講義開始のチャイムが鳴る。時計を見ると、既に九時だ。周りを見渡せば、キャンバスを出歩く学生の数もグッと減っている。
先生どころか、学生も六号館に来なかった。今日は休講だったかな?
訝しみながら六号館を立ち去る前に、最後にもう一度中を確認した。
なんということだろう。学生たちはきっちり席に座り、その視線の先では藤間先生が「待ちかねていたぞ!」と言うように居丈高に腕を組んでいた。
――なんでだ? 誰も出入り何てしていなかったぞ!
動揺する僕の前で、藤間先生は空席になっている中央の席を指差す。前回僕が座った席、そこに「早く座りなさい!」と促している。諦めて、僕はしずしずとその席に座った。
この“勇者冒険学”という講義は、前半は語り部となった藤間先生が勇者たちの冒険譚を読み聞かせ、後半は実技という構成になっている。
まず前半の冒険譚だ。
前回は最初の講義ということもあってか、「勇者が己を鍛え、仲間を集め、ゆくゆくは魔王を倒す」というオーソドックスな内容の物をいくつか聞かされた。
しかし今回は少し趣が違うようだ。
旅の途中で、勇者は悪に染まってしまうのだ。ある者は力を求めて、ある者は使命感に押しつぶされ、ある者は敵に唆されて……きっかけこそ異なるが、「悪に染まった勇者」が与える絶望感は、それこそ魔王の放つそれより大きなものだった。
善が悪に、プラスがマイナスに、希望が絶望に変わる瞬間のインパクトは計り知れない。僕がその勇者の仲間だったら、己の無力さにやるせなくなり、自分の喉元に剣を突き立ててしまうかもしれない。そんな彼らの葛藤が、藤間先生の風船のような体から生気を伴って吐き出される。
「一度は闇に落ちた勇者! しかしその一件が、何度も焼き入れを行った鋼のように、勇者のハートをより強固にしたのだッ!」
「おお、美しき愛よ……仲間たちの愛が無ければ、勇者は漆黒の闇の中に取り残され、彼もまたその一部に成り果てていたことであろうッ!」
藤間先生の語りも、前回以上に熱がこもっているようだった。これが漫画の世界だったら、背景に滾る炎が描かれていることだろう。
どの話も最終的に勇者は善の心を取り戻し、より強靭な心を持った彼らは魔王を打ち倒す。ハッピーエンドに終わってくれたことに、僕は親の姿を見つけた迷子のようにホッと一息ついた。長く暗いトンネルを抜けたような気分だ。
「――ほふぅ! よし、今から十分間の休憩を取る。各自、今の話をしっかり反芻しておくように!」
前回とほぼ同じセリフを残し、資材を片づけて藤間先生は教室を出て行った。足元には、先生が流した汗がいくつも染みを作っている。
僕はカラカラになった喉をお茶で潤しながら、今の語りを振り返っていた。
なんで今回は紙芝居だったんだろうか?
話の内容もそうだが、とにかくそのことが気になった。あの先生、絶対楽しんでるぞ。
後半は全員教室の後方に移り、ビニールシートの上での実技。これもまた前回と同じだ。
使い古されてところどころ破れたボストンバッグ。そこに慎重に手を突っ込んだ藤間先生は、何やら丸い球を取り出した。大きさは野球ボールくらいか。緑色の真ん丸な球だが、一部だけ角ばったものが無骨に飛び出している。そう、それはまるで……手榴弾?
息をのむ。教室の中に冷たい空気がピンと張り詰めた。
「ん? ああ、すまんすまん。驚かせてしまったな。大丈夫じゃ。暴発したところで、殺傷能力などありゃせん! ワッハッハ!」
だから、そもそも暴発なんてさせないでくれよ! そんな心の叫びなど知らず、藤間先生はピッと、ピンのようなものを外した。
ざわめく教室。生徒たちの悲鳴などどこふく風と、流れるような手つきでレバーまで外した。それをあろうことか、
ストン――コンッ――
藤間先生はその場に落とした。サーッと、血の気が引く音が聞こえた。
「キャーッ!」「やべぇ、爆発するぞ!」「逃げろ! 早く逃げろ!」阿鼻叫喚の学生たちを見下ろしながら、先生はニコニコ顔。明らかにその反応を楽しんでいる――!
ほんの数秒後、生徒たちの悲鳴をかき消すように、大量の煙がその手榴弾から放たれた。その小さなボディからは信じられないほど勢いよく吹き出す白煙は、瞬く間に教室を埋め尽くしていく。軽く百人は講義を受けられる、この教室をだ。
「こいつは“発煙弾”じゃ! 見ての通り、小型ながら大量の煙を発生させ、相手の目をくらませることができる――しかし、一つ問題がある!」
いまだ吹き出し続ける煙の向こうから先生の大声が聞こえる。一メートルほどしか離れていないのに、その影すら判別できない。
「こいつを最初に紹介してしまったから、この後の講義ができそうにないことじゃ! よって、ちょっと早いが今日はここで終了じゃ! ワッハッハ!」
ハッとした。やられた!
「待ってください、先生! 先生に訊きたいことがあるんです!」
立ち上がって先生に歩み寄った。生クリームのように真っ白な視界が方向感覚を狂わせ、幼児みたいにおぼつかない足取りになる。
それでも探した。腕を伸ばし、壁に激突し、ビニールシートに足を引っ掛け、ただただやみくもに探した。
ぷしゅう――と、発煙弾が煙を吐き出すのをやめた。
僕は壁伝いに歩き、扉を探し当てて開いた。六号館に窓ガラスは一切無いため教室の換気に時間はかかったが、それでもうっすらと視界は元に戻り始める。
「――やられた」
先生はおろか、生徒達まで消え失せていた。そこにはただ一つ、使用済みの発煙弾が転がっているだけだった。
余談だが、この後購買に行くと同じ型の発煙弾が売られていた。誰の目にも留まらない不思議アイテムとはいえ、それはそれは異様な光景だった。




