五話【叶銘の一歩】
キィーンコォーンカァーンコォーン――
四時限目の講義もようやく終わりを告げた。春休み明け初日の講義で、四つの講義をこなすというのはしんどいものだ。詰め込んだ知識で頭が重くなった感覚がする。
「美津姫さんは、たしか月曜日は五限まであったな」
なし崩し的に、登校中に美津姫と一緒に帰ると約束した。昨晩のスライムの話を聞かせてあげるためだ。目を輝かせて飛び跳ねるかのような美津姫の姿を思い出すと、一人で帰ってしまうわけにもいかない。あと一時間半は大学で暇をつぶすしかないわけだ。
そういえばと思い立ち、僕は学生支援センターへ向かった。どうしても確認しておきたいことがあったのだ。
部活に、学業に、恋にと忙しい学生たちとすれ違いながら歩く。豊かに表情を変えながら人生を謳歌する彼らを見るたび、僕の心にはどろどろした澱が溜まって行くのを感じた。
誰かに追いかけられているような気分になり、気もそぞろになる。心臓の鼓動が早くなる。踏み出す足が速くなる。
そうして頭をよぎったのは、昨日の羽虫の光景だ。光に惹かれながらも、ただその場をくるくる飛び回り続ける弱々しい虫。その姿に自分が重なり、足元から伝わる地面の感触がおぼろげになる。ふわふわと、ゆらゆらと、陽炎のように自分の存在が曖昧にある。力を失った脚は、その場に膝をつきそうになる。
「ハアッ……ハアッ……」
知らず知らず呼吸も荒くなる。痛くも無いはずなのに、胸のあたりをぎゅっと握りしめる。何事かと、心配そうに何人かの学生が脚を止めて僕を見下ろしていた。
カチャン――
背中から聞こえた甲高い音に目が覚めた。曲がっていた膝をピシッと伸ばす。
鞄に入れていた名枕が僕に喝を入れてくれた。「おい、どうした」「お前まだ若いだろ! 俺なんか二千歳くらいだぞ」「俺を使ってスライムを倒しただろ。すごい奴だぞ、お前!」そんな声が聞こえてきた気がする。
そうだね、ありがとう。僕は鞄越しに名枕をポンと叩き、感謝の意を表した。
「そうだな。僕はこれから、新生活への一歩を踏み出すんだ。大丈夫だ、大丈夫――」
すいません、大丈夫ですとペコペコしながら、その場を後にした。
学生支援センターに人は少なかった。ここには障害を持った者・留学生・悩みを持った者など、大学生活に何かしら不安のある学生たちが集まってくる。しかし今回僕が来たのは、そう言った事情とはまた異なる。
「良いアルバイトないかな……」
そう、僕はアルバイトを探しに来ていた。
一回生の頃は勉強が忙しく、アルバイトができなかった――というのは言い訳で、実際はアルバイトをしたくないがために勉強に打ち込んでいた。ただでさえ新しい環境に慣れるのが苦手なうえ、かなりの人見知りなのだ。仕事仲間たちとうまくいかなかったら……と考えるだけで体が震えたものだ。
じゃあなぜ今になって始めるのか? その理由は二つある。
一つは、神木家の家計だ。父さんの保険金があったとはいえ、僕は大学に、彩音は高校に入った。火の車というほどではないが、そろそろ我が家の蓄えも余裕がなくなってきたことはうっすら気が付いていた。高校生の彩音にアルバイトさせるわけにもいかず、そうなると、僕が稼ぐしかない。
もう一つは、この現状の脱却だ。いつまでも、充実した人間を羨み、妬むのなんて嫌だ。もう何年になるか分からない、こんなうだつの上がらない生活は嫌なんだ。
「理由は色々あったけれど、最後の一押しをしてくれたのは、結局お前なんだよなぁ――」僕はもう一度、名枕をポンと叩いた。
掲示板に貼られた求人票を見ると、大学構内でのアルバイトがいくつか並んでいる。生協の裏方、レジ係、食堂での簡単な調理など、オーソドックスな内容だ。
「でもやっぱり、いざ求人を見ると気が引けるよなぁ……」
湧いてきた勇気もどこへやら、僕の目はふらふらと泳ぎ始めていた。結局、あれやこれやと理由を付けては、どれか一つに決めることはできなかった。人はなかなか変われないということか。
「……仕方ない、帰ったらネットで探してくるか。学校以外でのバイトも見つかるしな」
「ほう、アルバイトかね。感心感心!」
「はい、そうなんです……えっ?」
突然の声に驚いて振り返る。しかしそこには、誰もいなかった。
「……神木君、こっちだ、こっち」
下の方から声。視線を下げると、そこにはとても小柄で、丸っこい体の老人が佇んでいた。藤間先生だ。
「と、藤間先生! いつの間に?」正直、僕はこの先生は苦手だ。悪い人ではなさそうだが、とにかく得体が知れない。ひょっとしたら、この人は人型のモンスターではないかと邪推してしまうほどだ。無意識のうちに後ずさりし、距離を置いていた。
「そうおびえるでない。まあ、今日の講義はちょっと刺激的じゃったかもしれんがな。カッカッカッ!」
「は、はあ……」
「覇気がない男じゃのう――。まあよい、ちょうど君にぴったりの求人を持ってきたところじゃ」
そう言って先生は、小さな体を目いっぱい伸ばして求人票を貼り付けた。それが終わると、満足げな顔でさっさとその場を離れて行った。
「君は見どころがある。ちゃんと最後まで、講義を受けるのじゃぞ?」
「は、はい……!」
一体なんだったのか……。その小さくて丸い背中を見送り、たった今貼られた求人票を見た。
「えーっと。居酒屋のバイト……って、大学の外じゃないか!」
原則ここに貼られるのは大学構内のアルバイト求人のみだ。そして当然構内に居酒屋なんて無い。あったら嬉しいが、間違いなく問題になるだろう。
しかし一番おかしいのは、その応募資格だ。普通なら「18歳以上(高校生不可)」とか「週三日以上働ける方」といったところだろうか。
しかしそこに書かれていたのは「神木叶銘であること」だ。個人を名指しをする応募資格など、そんなもの見たことない。まして、それが自分だなんて。
「ひょっとして藤間先生、このために僕を待ち受けていたのかな」
となると、このアルバイトにはきっと何かある。こんな引っ込み思案に居酒屋のアルバイトが務まるとは思えないが、駄目なら面接で落とされるだけだ。
一応連絡先をメモし、あとは図書館で時間をつぶすことにした。緩やかにだが、確かに僕は前進している――たぶん。




