三話【トマト先生の講義】
「諸君、おはよう! 儂は、この『勇者冒険学』の講師、藤間富男じゃ!」
出っ張った腹を邪魔そうに揺らしながら、その老人は深々と一礼した。
僕は筆記用具を出しながら、その老人、藤間先生をこっそり観察した。身長は僕より頭一つ分以上低いだろう。その代わりのように、お腹周りはかなり豊かだ。遠目に見たら卵みたいな体型だろう。
服装は真っ白なワイシャツに黒のスラックス、胸には真っ赤な蝶ネクタイ。さらには右目にモノクル、頭にはシルクハットと現代日本では奇抜なファッションに身を包む。さながらだらしない怪盗か名探偵といったところか。なんにせよ、普通の講師とかけ離れていることは確かなようだ。
「――ふむ、ちゃんと出席しておるな。よろしいよろしい!」
うむうむと、肉に埋もれかけた首をゆっくり前後に振る。その視線は学生全体を見ているようで、実際は僕を中心に見ているようだった。
「それではレジュメを配る。教科書は無いので、無くしたり汚したりしてはならんぞ!」
そう言ってギロリと睨む相手も、僕一人だった。どうやら僕、神木叶銘は、早くもこの藤間富男、略して“トマト先生”に目を付けられてしまったようだ……。
さて、この勇者冒険学という講義はどんな奇怪な講義か――とハラハラしていたのだが、実際は拍子抜けするものだった。
一言で言えば、おとぎ話の勇者の物語を語り聞かせる、といったものだ。今回は初めてということでオーソドックスな内容だったらしい。さらわれたお姫様を救うために、勇者が敵を倒しながら、最後に待ち受ける魔王を倒すというものだ。そして勇者とお姫様は結ばれてハッピーエンド。ちゃんちゃん♪
内容自体に真新しい点は無いのだが、この藤間先生の語りが面白かった。
「おお、可愛そうな姫は魔王の手先に連れ去られてしまった! 王のッ、王妃のッ、悲しみは幾許かや!」
「勇者よ……ああ、勇者よ! そなたはそこで死ぬ器ではなかろうッ!」
「魔王の力は強大ッッッ! 拳を握りしめるだけで、獰猛な暗黒の獣共も地面に伏すのだァッ!」
丸い体の中で空気を震わせ、反響させた音声を大開きの口から発する。スピーカーを使わずして、この広い教室を振動させている。
知らず知らず、僕の目の前には勇者の冒険の軌跡が描かれていくようだった。ジャングルの臭い、交錯する剣戟の音、未知の獣の肉の味、殴られた痛み、五感全てを刺激する。この先生、風貌は怪しいが語り部としてはかなりのもののようだ。
そうして語られること、およそ三十分。「めでたし、めでたし……」と低くつぶやいた藤間先生は、顔中に玉のような汗を浮かせ、びっしょり濡れたワイシャツからは地肌がうっすらとその肌色を見せていた。その汗をフェイスタオルで拭い、ごきゅごきゅとペットボトルのお茶を飲み干していく。真夏のマラソンを走り抜いた陸上選手のようだ。
「――むふぅ。よし、今から十分間の休憩を取る。各自、今の話をしっかり反芻しておくように!」
息を整えながら、おぼろげな足取りで藤間先生は教室を出て行った。
話に引き込まれていた僕は、そこでやっと現実に戻ってきたようにハッとした。ポカンと口を開けて聞いていたのか、口の中はカラカラだ。持ってきた水筒を開けて、パサつく口内に潤いを与える。
そこでようやく、周りの様子が気にかかった。他の生徒たちは、腕を枕にして眠りこんでいたり、硬くなった体をほぐしたりしている。各々の行動は違うが、“誰もかれもが同じ行動を繰り返している“という点は、講義開始前と共通していた。不気味な光景を背に、配られたレジュメに目を通して休み時間をやり過ごした。
十分後、再び現れた藤間先生は涼しい顔をしていた。汗はかいておらず、透けつつあったワイシャツも新しいものに替えてきたようだ。一つ違うのは、手に大きなボストンバッグを持っているという点か。
「よし。全員筆記用具を持って、教室の後ろに行きなさい! ここからは実技に移るぞ」
僕の横を通り過ぎ、スタスタと後方へ歩みを進めて行く。怪訝に思いながらも、僕らは言われたとおりに席を立って移動を始めた。
そこにあるのは、例のビニールシートが敷かれた空間だ。その中心に藤間先生が立ち、距離を置いて取り囲むように座る。藤間先生はしゃがみこむと、持参したボストンバッグの中身をごそごそと探っている。
さて、何が出てくるのかと思ったら、手にしていたのは小振りのナイフだった。敷かれたビニールシートに、手にしたナイフ。嫌な予感に、背筋が寒くなる。
「さて、ここにあるのは正真正銘、本物のナイフじゃ。これを……」
藤間先生はそう言いながら、左腕をスッと前に伸ばし、右手でナイフの柄を握りしめる。そして、右腕をくいっと曲げ、ナイフの刃で左腕を撫でるように切り裂いた……!
女子学生が、ついでに僕も、思わず目を背けた。赤い血に染まって行く先生の左腕を想像しながら、視線を徐々に戻した。しかし不思議なことに、肉の裂け目からは赤い血が滲んでいるが、血液がしたたり落ちるということは無かった。藤間先生も、痛みに顔をゆがめることも無い。
「さて。見ての通り、儂の腕にはナイフによる裂傷ができてしまった。このままではいかんのう?」
「わかってるなら、早く手当てしてくれ! というより、そもそもそんなことしないでくれ!」そんな僕の心の叫びに応えるように、再び鞄の中を探る。
そうして取り出したのは、小さなスティックのりのような棒状の物だ。透明の容器の中にはとろりとした液体が詰まっており、なおさらのりに見える。蓋を開けると、内部の湿ったスポンジのようなものを傷口に付ける。すると驚くべきことに、傷口が目に見える速さで塞がっていくではないか! およそ五秒ほど。傷口全体に塗り終わったときには、そこに傷が広がっていたことすら気が付かないほど腕は綺麗に元通りとなっていた。
学生たちから「オオッ!」と歓声が上がる。僕も目を点にしていた。
そんな僕らを見下ろしながら、藤間先生は自慢げに説明してくれた。
「どうじゃ! これが“傷薬”じゃ! これを塗るだけで、どんな傷でもたちどころに消えてなくなるぞい!」
ふんすと鼻息を荒くする先生。なるほど、これはまさに体を張った実演販売なのだと、今になってようやく理解した。




