一話【三人の朝】
四月八日。
履修登録の期間は一応終了し、この日から講義が始まる。
僕は自転車を押しながら、愛智大学へ続く坂を上り続けていた。春期休暇中とは違い、朝から多くの学生が僕と同じように学校へと向かっている。とはいえ活気があるというわけでもなく、皆眠そうな目をこすったり、あくびをしたり……といった感じだ。隣を歩く男も、カバやワニもかくやという大あくびをかましていた。
「アキトも、そう何度もあくびしないでくれよ。僕まで眠くなってきそうだからさ」
「ふあぁ……っと、わりぃわりぃ。まだ春休み気分が抜けねぇんだよ、ふわぁ~」
「アキトのことだから、コンパから帰った後も、そこらで遊んだりしてたんだろ?」
「失礼なっ! 俺はちゃんと家にいたぞ! 友達を呼んで、ちょこっと麻雀してただけだ!」
「へぇ、エラいエラい――」
アキトの言い訳に突っ込むのは体力の無駄遣いだということは、ずっと前からわかっていることだ。あくびの代わりにため息が出た。
とは言え、その気持ちもよくわかる。まだ肌寒い四月の朝に、柔らかく降り注ぐ朝の光。許されるのなら、この場に布団を敷いて眠ってしまいたいぐらいだ。
「あの……おはよう……ございます……」
「あれ、アキト。今何か言った?」
「うんにゃ、何も言ってないぜ?」
何か聞こえた気がしたが、気のせいだったのか。昨晩はいろいろ大変な目にあったから、まだ疲れているのかもしれない。
「――空耳かグェッ!」
気を取り直して前に歩き出したところで、後ろから襟を思いっきり引っ張られた。突然喉を圧迫された苦しみと驚きで、情けなく尻餅をついた。ヒリつくお尻を撫でていると、アキトの方は地面に後頭部を打ちつけて悶絶していた。
「お、おはよう……ございます……」
か細い声が、僕たちの頭上から降ってくる。
振り返ると、そこには絹のようにきめ細かい肌に覆われた二本の脚。それをたどるようにすーっと視線を上げると、美津姫が胸の前で手をもじもじさせ、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「先輩方……あの……申し訳ありません……! 全然気づいてもらえなくて……つい引っ張っちゃって……!」
放っておいたら罪悪感で泣き出しそうな美津姫に対し、地面でのたうちまわっていた男は良い声で言った。
「へへっ……おかげで目が覚めたよ、美津姫ちゃん! ありがとう! ふへへっ」
そんなわけで三人組になった僕たち。そういえば、女の子と一緒に登校するなんて初めてだなぁと感慨にふけっていると、僕の心を見透かしたようにアキトがこちらを見てニヤついていた。
「良かったなぁ、叶銘君? 君にも春が来て……」
「うるさい! 前見て歩け、好色家!」
間に挟まれた美津姫の頭上で、火花散るアイコンタクトで言葉を交わす僕とアキト。
彼女はいまだに、先ほどの失敗を気にして縮こまっている。どうやらただ呼び止めたかっただけのようだが、だからと言って首を絞めるようなマネに出るのはいかがなものか。まあ僕も声が小さい方なので、気持ちはわからないのでもないが。
しかしちょうどいいことに、僕は彼女が元気になる、魔法の話題を持っているのだ。
「――そういえばさ、昨日スライムにあったよ」
ボソッと、ただ一言。これだけだ。
さながら、萎れた花が一滴の魔法の雫を受け、潤いを取り戻し、大輪の花を咲かせるかのようだ。沈み込んでいた美津姫の顔はあっという間に上気し、眼鏡の奥では溢れんばかりの光を瞳の中で輝かせている。
「そ、そそそそソそソそそっ、それはゲホッ――当ですか? 叶銘先輩っ!」
「う、うん。本当だよ……」
予想以上の効果に後ずさりしてしまう。彼女は普段はかなりの恥ずかしがり屋のようだが、オカルト関係の話になると一変する。昨晩オカルトを体験したばかりの僕ほど、彼女を興奮させられる人間もいないだろう。
「その時の情報を詳しく教えてください! 場所は? 時間は? 形は? 大きさは? 鳴き声はっ?」いつの間に取り出したのか、手にはペンと手帳が握られていた。よく見ると胸元にはボイスレコーダーまで仕込まれている。
「あっ、ああ……。それはいいけど、学校が終わってからにしないか? ほら」
「んあっ?」
僕らの周囲には、好奇の目で見る学生たち。突如大声で男に詰め寄る美少女をとなると、注目を浴びてしまうのは明らかだ。取り乱していた美津姫も、しぶしぶとコートのポケットの中にペンと手帳をしまった。そうか、常に持ち歩いているのか。
「チッ! 今回は勘弁してあげます。それじゃ学校が終わったら、絶っっっっ対に教えてくださいねっ!」
びしっと、僕の鼻頭に伸ばした人差し指を押し付ける。
「ふぁ、ふぁい……」
「よーし、それじゃ学校なんてちゃっちゃと終わらせましょうか! ほら行きますよ、先輩方♪」
言うが早いか、ズンズンと力強い足取りで進む美津姫。そんなに急いだって早く帰れるわけじゃないよと、とてもツッコむことができない。
「女ってわかんないよなぁ、叶銘……」
「アキトがそう言うなら、きっとそうなんだろうなぁ……」
僕らは苦笑しつつも、彼女に置いて行かれないように駆け出した。これまでの学生生活で、一番楽しい登校時間だったかもしれない。




