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第19話 私の悪評は、私のものではありません

 ディーン交易商会が匿名の刷り物を印刷した可能性について、正式な照会結果が届いたのは翌日の昼前だった。


 レーヴェルト大使館の会議室には、いつもの面々が揃っている。


 ルシアン、ハインツ大使、法務官クララ、ヨハン、ゲオルグ、メリア、記録官ティアナ。そしてエレナ。


 窓の外はよく晴れていたが、室内の空気は軽くない。


 クララが封を切った書面を机へ置いた。


「王国商務局と印刷工房双方から回答がありました。匿名刷り物に使われた版式と、ディーン交易商会から発注された印刷物の版式は一致しています」


 ティアナが息を呑む。


「では、やはりディーン商会が?」


「まだ最後まで聞いて」


 エレナが制すると、クララも頷いた。


「同じ版式を使ったことまでは確認できました。ただし、それだけなら同じ工房を利用した別人という可能性が残ります」


「紙は?」


 ルシアンが尋ねる。


「一致しました。紙質、寸法、切断方法まで同じです」


「発注量は?」


「千二百枚」


 今度こそ、室内が静かになった。


「手続案内を千二百枚?」


 ヨハンが確認する。


「商会側の申告では」


「現物は?」


「商務局の立会いのもと、在庫分を確認しています。外国商人向けの正規手続案内は二百八十枚しか残っておらず、配布記録を合わせても、発注数と大きく合いません」


「不足分が匿名刷り物になった可能性がある」


 メリアが言う。


「高い、と申し上げてよいでしょう」


 クララは慎重な言い方を崩さなかった。


「さらに、工房の帳簿には追加料金の記録があります。通常業務終了後に印刷し、発注元を紙面へ記載しない条件の料金です」


 エレナは手元の匿名刷り物を見た。


 祖国を売った女。


 地下文書庫から秘密を盗み出した女。


 外国王子へ高額で買われた女。


 最初に読んだときより、文字が妙に乾いて見える。


「発注者名は?」


「マルセル・ディーン本人です」


 ティアナが思わず口元を押さえた。


 ゲオルグは眼鏡を外し、ゆっくり拭き始めた。


「これでも、まだ犯人と呼びませんか?」


 エレナへ向けた問いだった。


「刷り物を発注した人物、とまでは言えます」


「慎重ですね」


「噂のすべてを彼一人が作ったかは、まだ分からないでしょう」


「そこまで分けますか」


「分けます」


 エレナは即答した。


「新聞へ情報を渡した者、酒場で先に話を広めた者、商業連合で制度改革への反対を煽った者。それがすべてディーン氏なのか、別の人間がいるのかは確認が必要です」


 ルシアンが腕を組んだ。


「だが、少なくとも匿名刷り物については十分だ」


「ええ」


「本人を呼ぶ」


「正式な事情聴取として?」


「そのつもりだ」


 エレナは少し考えた。


「私も同席できますか」


 クララが先に答えた。


「法的には可能です。ただし、被害を受けた当事者でもありますので、発言の仕方には注意が必要です」


「承知しています」


 ルシアンがエレナを見る。


「無理に出る必要はない」


「出たいのです」


「理由は?」


 それを聞かれて、エレナはすぐに答えられなかった。


 怒鳴りたいわけではない。


 謝罪させたいわけでもない。


 自分を嫌う理由を聞きたい、というのとも少し違う。


「……確認したいのだと思います」


「何を?」


「私の悪評が、どのように使われているのか」


     ◇


 マルセル・ディーンは、午後二時ちょうどに大使館へ現れた。


 四十代前半。仕立てのよい濃灰色の上着を着て、指には大粒ではないが質のよい石を使った指輪をしている。


 噂を流す卑劣な商人という印象を期待していれば、拍子抜けしたかもしれない。


 礼儀正しく、声も穏やかだった。


「第二王子殿下にお招きいただけるとは、光栄にございます」


「招待ではない」


 ルシアンが言う。


 隣に座っていたクララが、ほんの少し眉を動かした。


 おそらく、もう少し柔らかく始めたかったのだろう。


「本日は、王都で配布された匿名文書について確認したいことがあります」


 クララが話を引き取った。


 マルセルはエレナへ一度だけ視線を向けた。


「なるほど。公爵令嬢についての件でございますか」


「ご存じなのですね」


 エレナが尋ねる。


「新聞になっておりますから」


「新聞になる前からではなく?」


 男の表情がわずかに動いた。


 だが、すぐ元へ戻る。


「何のお話でしょう」


 クララは机上へ三枚の書類を並べた。


 印刷工房の発注書。


 使用紙の記録。


 匿名印刷指定の追加料金明細。


「こちらはディーン交易商会から発注されたもので間違いありませんか」


 マルセルは一枚ずつ目を通した。


「印章は当商会のものです」


「発注者として、あなたのお名前があります」


「ええ」


「何を印刷させましたか」


「外国商人向けの制度案内です」


「千二百枚すべて?」


「そのはずです」


「工房の記録では、同じ版、同じ紙で匿名刷り物が作られています」


「印刷工房の管理の問題では?」


 返答が早い。


 予想していたのだろう。


 クララも表情を変えない。


「商会名を記載しないよう、あなたが追加料金を支払っています」


「商人向けの簡易資料では、発行者を載せないこともございます」


「では現物をお持ちですか」


「配布済みです」


「配布先の記録は?」


「すべては残しておりません」


「千二百枚を?」


 マルセルが初めて少しだけ困った顔をした。


「小規模な案内ですから」


 クララが次の資料へ移ろうとしたところで、エレナが口を開いた。


「一つ、よろしいですか」


「どうぞ」


 クララが頷く。


 エレナはマルセルを見る。


「私をお嫌いですか?」


 あまりに直接的な質問だったため、室内の何人かがわずかに動いた。


 マルセル本人も一瞬言葉を失った。


「……随分率直にお尋ねになりますね」


「回りくどく聞く必要を感じませんでしたので」


「公爵令嬢個人に恨みはございません」


「では、悪役令嬢だとは思われます?」


 男がエレナを見た。


 答え方を選んでいる。


「世間では、そう呼ばれてきたと承知しております」


「あなた自身は?」


「私のような一商人が、公爵令嬢を論評する立場ではございません」


「それは答えではありませんね」


 マルセルの口元に、ほんの少し苦い笑みが浮かんだ。


「噂通り、厳しい方だ」


「それも悪評の一つですか?」


「いえ」


「では続きを。あなたが私個人を嫌っていないのなら、なぜ私を祖国の裏切り者として書いた文書を作る必要があったのでしょう」


「私が作ったとは認めておりません」


「そうでした」


 エレナはあっさり引いた。


 マルセルがわずかに拍子抜けした顔をする。


「では質問を変えます。五か国共通商人資格の案について、どうお考えです?」


 そこで初めて、男の警戒が明確になった。


「外国商人へ門戸を開きすぎる危険な案だと思っております」


「なぜ?」


「国内商人の商売が圧迫されます。信用の分からない外国業者が入れば、十五年前と同じ詐欺が起きるかもしれない」


「保証制度は残します」


「名前を変えるだけでしょう。既存の保証人を外し、役所が金を預かる。役人に商人の信用が分かるのですか?」


「役所だけでは審査しません。既存の信用調査業者にも参入の道を残す案です」


「それでも今より安全になる保証はない」


「ありません」


 エレナが認めると、マルセルは少し驚いた。


「だから移行期間を設け、旧制度と併存させます」


「結局、旧制度をなくしたいのでしょう」


「将来、より安全で安価な制度が機能すると確認できれば」


「ほら」


 マルセルの声が初めて強くなった。


「やはりそうではありませんか」


 そこにあったのは、秘密を暴かれた犯罪者の狼狽ではない。


 もっと現実的で、もっと人間らしい恐れだった。


「公爵令嬢には分からないでしょう」


「何が?」


「制度が変われば、私の会社では三十人以上の仕事が減ります」


 室内が静かになる。


「外国商人の契約を翻訳する者、信用を調べる者、各国の法令を確認する者、保証人を探す者。彼らは十年、十五年とかけてその仕事を覚えた。『制度が古いので変えます』と言われて、はいそうですかと捨てられると思いますか」


 エレナは答えなかった。


「大使館で制度案を作る方々には、線を一本引けば終わりなのでしょう。保証人制度を廃止、仲介不要、手続簡略化。それで紙の上は美しい。しかし、その一本で食えなくなる者がいる」


「だから妨害してよい?」


 ルシアンの声が冷えた。


 マルセルの肩がわずかに強張る。


「殿下」


 エレナが静かに呼び、ルシアンを止めた。


 昨日までなら、自分が守られたと感じて少し安心したかもしれない。


 今日は、自分で聞きたかった。


「マルセルさん」


「……はい」


「あなたのおっしゃることの一部は、正しいと思います」


 男が顔を上げる。


「実際、私たちも最初は保証人制度を古い仕組みとして見すぎていました。調べてみれば、制度には必要だった理由があり、今も信用調査や翻訳、契約支援など必要な仕事がある。だから現在の案では、既存業者が新しい審査機関へ移行できる道を作っています」


「聞いておりません」


「まだ正式発表前ですから」


「なら、なぜ商人には説明しないのです」


「正式案になっていないものを、決定事項のように広めるわけにはいきません」


「その間に我々は不安になる」


「それも、もっともです」


 エレナは少し間を置いた。


「でも、不安だからといって、私が国家機密を盗んだことにはなりません」


 マルセルの表情が止まった。


「私は外国へ機密資料を持ち出していません。祖国の通商情報を売ってもいない。レーヴェルトから受け取る給金は、契約で定められた仕事への対価です」


「私は――」


「まだあなたが刷り物を作ったとは言っていません」


 エレナはその逃げ道をあえて残した。


「ただ、一つ聞きたいのです。制度改革を止めたい人間にとって、私の評判は便利でしたか?」


 マルセルが黙る。


「婚約者へ執着する女。嫉妬深い女。王家を困らせた女。気に入らない者を追い詰める女。十年かけて、それだけの噂が積み上がっています」


 口にしても、以前ほど胸は痛まなかった。


 痛くないわけではない。


 ただ、その痛みを理由に黙る必要がなくなった。


「そんな女なら、国を売っても不思議ではない。そう思わせれば、証拠は少なくて済む」


「……世間がそう思っているのは、私のせいではありません」


 その返答は、妙に率直だった。


「ええ」


 エレナは頷いた。


「そこはその通りです」


 マルセルが意外そうに見る。


「私の悪評を最初に作ったのは、あなたではない」


 王家。


 父。


 アレクシス。


 宮廷。


 そして、自分自身。


 黙ることを選んだ自分も含まれている。


「だから私は、過去の悪評すべてについてあなたへ責任を求めるつもりはありません。でも、その悪評へ新しい嘘を乗せたのなら、それは別です」


 室内に時計の音が響いた。


 マルセルは長く黙っていた。


 やがて、低い声で言った。


「……公爵令嬢が外国へ行った、と聞いたとき」


「はい」


「腹が立ちました」


 クララが筆記を始める。


「なぜ?」


「我々の仕事を壊す制度を作る側へ、王宮の事情を知る人間がついたと思ったからです。あなたなら、どの国がどこまで譲るか、どこへ圧力をかければいいか分かるでしょう」


「それは買いかぶりです」


「世間はそうは思わない」


「それで?」


「……商業連合の会合で話しました。危険だと。外国側へ情報が流れる可能性があると」


「可能性、と?」


「最初は」


 その言葉で十分だった。


「途中から、断定へ変わったのですね」


 マルセルは答えない。


「刷り物は?」


 クララが尋ねた。


 男の指が膝の上で組み直される。


「私一人で作ったものではありません」


 室内の緊張が一段上がった。


「誰と?」


「……今ここで名前を出せば、私だけが裏切り者になる」


「今、あなた自身の立場について確認している」


 クララの声は冷静だった。


「ほかの関係者がいるなら、それを明らかにすることはあなた自身の責任範囲を分けるためにも必要です」


 マルセルは歯を食いしばるように黙った。


「少なくとも」


 やがて彼は言った。


「文章の原案を作ったのは私ではありません」


「誰です?」


「商業連合の中で回ってきたものです」


「誰から?」


「……言えません」


 ルシアンが口を開きかけた。


 エレナが先に尋ねる。


「ヴァルツの中央商業組合と関係がありますか」


 マルセルの目が、ほんの一瞬だけ動いた。


 それだけだった。


 しかし、誰も見落とさなかった。


「今日はここまでにしましょう」


 クララが言った。


 意外な判断だった。


「よろしいのですか?」


 エレナが尋ねる。


「これ以上、任意の事情聴取で無理に聞いても意味がありません。商務局へ正式に情報を共有し、必要な手続きを取ります」


 マルセルがわずかに安堵する。


 だがクララは続けた。


「ただし、匿名文書の印刷に関する資料は保全対象となります。商会側で帳簿、書簡、発注記録を廃棄しないでください」


「……承知しました」


「廃棄した場合、その行為自体が問題になります」


「分かっております」


 マルセルが立ち上がる。


 扉へ向かう前、彼は一度だけエレナを見た。


「公爵令嬢」


「何でしょう」


「私は、あなたを悪女だと思っていました」


 唐突だった。


「今は?」


「……分かりません」


 エレナは少しだけ笑った。


「それで結構です」


「腹が立たないのですか」


「あなたが私を好きになる必要はありません」


 マルセルは返事をしなかった。


「ただ、していないことまでしたことにしないでください。それだけです」


 男は複雑な顔で一礼し、部屋を出ていった。


     ◇


 扉が閉じると、ルシアンが大きく息を吐いた。


「殴らずに済んだ」


「殿下」


「比喩だ」


「王子殿下が商人を殴る比喩はやめてください」


「では追い出したかった」


「それも途中で顔に出ていました」


「よく我慢したと思わないか」


「七十五点です」


「低いな」


「尋問中に三回、口を挟みそうになりました」


「実際には一回しか挟んでいない」


「だから七十五点です」


「満点になる日は来るのか?」


「努力次第ですね」


 いつものやり取りなのに、今日は少しだけ疲れている自分が分かった。


 ティアナたちは資料整理へ移り、クララは商務局への報告書作成を始める。


 エレナも立とうとしたが、ルシアンに止められた。


「少し休め」


「まだ仕事が」


「今の話をした直後だぞ」


「何がです?」


「傷ついたことまで仕事に変えるな」


 言われて、エレナは動きを止めた。


「……傷ついているように見えました?」


「見えた」


「どのあたりで?」


「そこを分析するな」


「難しい注文ですね」


 ルシアンは向かいの椅子へ座った。


「怒ってもいいんだぞ」


「怒っています」


「それは知っている」


「では?」


「仕事としてではなく」


 エレナはしばらく黙った。


 窓の外には午後の光が落ちている。


 遠くで馬車が石畳を通る音がした。


「嫌でした」


 ようやく言った。


「何が?」


「簡単に使われたことが」


 ルシアンは黙っている。


「私が国を裏切ったと言われたことも嫌です。でも、それ以上に……十年間の悪評が、誰かにとって道具だったことが嫌でした」


 言葉にすると、思っていたより悔しかった。


「私が何をしても、『あの女ならやりそうだ』で済む。事実を調べなくても、みんな納得する」


「そうだな」


「昔は、それでよかったのです」


 正確には、よいと思い込んでいた。


「王家が守られるなら、私一人が嫌われても国は回る。父もそう考えていたし、私もそう考えた。でも……」


 エレナは指先を組んだ。


「悪評は、役目を終えたから消えるわけではないのですね」


 婚約を失った。


 黒衣役を辞めた。


 地下文書庫の鍵も返した。


 けれど「悪役令嬢エレナ・ヴァルハイト」という物語だけは、王都に残った。


「私が作ったわけではない評判なのに」


 声が少し低くなる。


「今になって、私自身がその代金を払っている」


 ルシアンはしばらく答えなかった。


 安易に慰めないところが、彼らしかった。


「なら」


 やがて言う。


「返してもらえばいい」


「誰に?」


「評判そのものに」


 エレナは思わず笑った。


「随分抽象的ですね」


「君が珍しく感情の話をしているから、私も少しくらい抽象的でいいだろう」


「どうやって返してもらうのです」


「君自身の名前を、これから君が使えばいい」


「私自身の名前?」


「今までは王家の失敗へ君の名前を貸していた」


 エレナは目を上げた。


「なら、もう貸さなければいい。していないことは否定する。したことは自分で認める。必要なら嫌われる。でも他人の罪まで引き受けない」


「簡単に言いますね」


「簡単ではない」


 ルシアンの声は静かだった。


「ただ、それを君の代わりに私がやることもできない」


 エレナは、第16話で自分が言った言葉を思い出した。


 正式な場で噂を持ち出されたら、自分で説明する。


 ルシアンは横にはいる。


 前には出ない。


「明後日の五か国中間協議」


 ルシアンが続けた。


「君の出席について、ヴァルツ代表団から照会が来た」


「もう?」


「噂を理由に、顧問としての中立性へ懸念がある、と」


「予想通りですね」


「君を外すつもりはない」


「殿下」


「まだ先に言わせろ」


 以前アレクシスにも似たことを言われた気がして、エレナは口を閉じた。


「私は雇用主として、契約に違反がない限り君を外さない。それは私が言う」


「はい」


「だが、君自身の過去について問われたら、君が答えろ」


「……はい」


「王家の秘密を話す必要はない」


「もちろんです」


「無理に自分を立派に見せる必要もない」


「それも、するつもりはありません」


「なら十分だ」


 エレナは少し考えた。


「怖くないと言えば嘘になります」


「何が?」


「五か国の代表の前で、自分の悪評について話すことが」


 十年間、沈黙こそ正しいと思ってきた。


 問い詰められても笑う。


 誤解されても訂正しない。


 誰が本当に失敗したか尋ねられれば、答えをぼかす。


 それを続けすぎた。


「でも、やります」


 エレナは言った。


「私がしていないことは、していないと」


「それでいい」


「それだけで信じてもらえるでしょうか」


「全員には無理だろう」


 即答だった。


「もう少し希望のあることを言えません?」


「五か国の外交官が全員、君の一言だけで十年分の評判を捨てると思うか?」


「思いません」


「なら、事実を話して判断を相手へ返せばいい」


「判断を相手へ」


「ああ。信じさせるところまで君の責任にするな」


 エレナは黙った。


 また一つ、自分が背負おうとしていたことに気づかされた。


 誤解を解かなければ。


 全員に分かってもらわなければ。


 正しい自分を証明しなければ。


 でも、それも違うのかもしれない。


「分かりました」


「本当に?」


「疑われていますね」


「君は納得した顔をして、夜に資料を百頁読むことがある」


「今日は読みません」


「約束できるか?」


「……五十頁くらいなら」


「駄目だ」


「冗談です」


「信用できない」


 そこまで言われ、エレナは少し笑った。


     ◇


 その夕方、公爵邸へ戻ると、一通の封書が届いていた。


 差出人は王宮。


 中身はアレクシスからではなく、宰相アルベルト名義の正式な確認書だった。


 五か国中間協議で、エレナの過去の王宮実務について質問が出る可能性がある。


 王宮としては、彼女が婚約者時代に王家の要請に基づく非公式実務へ従事していた事実までは公表可能。


 ただし個別案件の責任主体や機密事項については、守秘義務を継続する。


 その線引きが、明確に書かれている。


「これは珍しいわね」


 エレナが言うと、ミナが横から覗いた。


「お嬢様が何を話してよいか、王宮側から先に決めてくださったのですか」


「ええ。しかも私に全部判断させずに」


「進歩しておりますね」


「最近、皆の成長を見る係になった気分だわ」


「二十六歳で?」


「言いたいことは分かるけれど、そこを指摘しないで」


 エレナは書面をもう一度読んだ。


 最後に、宰相の手書きで一行だけ添えられている。


 ――これまで貴女一人に、語ってよいことと語ってはいけないことの判断まで負わせすぎました。今回は王宮が責任を持って線を引きます。


 エレナは、その一文をしばらく見ていた。


「嬉しいですか?」


 ミナが尋ねる。


「ええ」


「では、今日は素直ですね」


「これくらいはね」


 手紙を折り、机へ置く。


 その横には、明後日の中間協議の資料がある。


 各国の要求。


 新しい保証制度案。


 申請共通化案。


 税負担の補正方式。


 その中に、エレナ自身の評判まで議題として加わろうとしている。


 仕事だけを話したかった。


 本音ではそう思う。


 自分の過去が外交の邪魔をすることが悔しい。


 しかし、避ければ「答えられない事情がある」と利用されるだろう。


 なら、話すしかない。


 ただし王家を売るのではなく。


 誰かへ復讐するのでもなく。


 自分自身について、自分が知っている事実だけを。


「ミナ」


「はい」


「明後日の服、何がいいと思う?」


「珍しいですね。お嬢様からお尋ねになるなんて」


「五か国の代表がいるので。派手すぎず、地味すぎず」


「悪役令嬢らしく黒になさいます?」


 エレナは一瞬考え、笑った。


「それも面白いけれど、やめておくわ」


「では濃紺はいかがでしょう。公爵家の色にも近く、外交の場でも落ち着いて見えます」


「そうしましょう」


「宝石は?」


「最小限で」


「王太子殿下から贈られたものは避けますね」


 ミナは何気なく言った。


 エレナは少しだけ迷ってから頷いた。


「ええ」


「では、お母様から受け継がれた真珠を」


「それがいいわ」


 昔なら、公式の場へ出る自分を王太子婚約者として整えていた。


 髪飾り。


 宝石。


 色。


 すべて王家との調和を優先した。


 明後日は違う。


 ヴァルハイト公爵家の娘として。


 外交顧問として。


 エレナ・ヴァルハイトとして席へ着く。


「お嬢様」


「何?」


「少し楽しそうです」


「明後日、自分の悪評について追及されるかもしれないのに?」


「それでも」


 エレナは鏡の中の自分を見た。


 楽しみ、とは違う。


 たぶん、ようやく自分の名前を自分で使えることへの奇妙な高揚だった。


 悪役令嬢という評判は、確かに自分についている。


 十年分の噂は、一日では消えない。


 けれど、その中身まで他人の好きなように決めさせる必要はない。


「私の悪評は、私のものではなかったのね」


 エレナがぽつりと言うと、ミナが首を傾げた。


「どういう意味です?」


「私がしていないことで作られたものが多すぎるから」


「でしたら、お返ししますか?」


「誰に?」


「作った方々へ」


 エレナは思わず笑った。


「返品先が多すぎるわ」


「では、いらないものから順番に捨てましょう」


「そうね」


 全部を一度に消す必要はない。


 明後日は、その最初の一つでいい。


 国を売った。


 機密を盗んだ。


 外国王子に買われた。


 それは違うと、自分の口で言う。


 信じるかどうかまで背負わない。


 そこから先は、聞いた者が決めればいい。


 エレナは明後日の資料を閉じ、その夜は一枚も持ち帰り用の写しを作らなかった。


 説明すべきなのは、完璧な悪女でも、完璧な被害者でもない。


 ただ一人の、エレナ・ヴァルハイトだった。


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