夫婦の始まり
長期未投稿の話にお立ち寄り下さり、ありがとうございます。
ここは寝室、―― 一日の疲れを癒すための場所であり、ゆったりと落ち着いた空気が似合う場所だと思います。思うのですが…、それは私の思い込みだったのかもしれません。
今、私は気合を入れられています。とても熱い気合です。
「いいですか。お嬢…、奥様。このブリジットが選んだ最高の夜着を、ガウンを少し広げてしっかりとセドリック様に見せつけるのです」
ブリジットは見せつけるための姿勢まで、手本を示してくれます。
とても自然な動きですが、自然にはできない角度です。あの姿勢は私にできるのでしょうか…。
いえ、そもそもこの「最高の」――薄い生地の、透けていると言っていい生地の、そして夜着であることが信じられない程に覆うところが少ない――「夜着」を見せることは、私にできるのでしょうか…。
いささかの不安を感じている私に、さらに力強い声がかけられます。
「シルヴィア様。シャーリーがこの寝室に結界を張りましたので、一度セドリック殿が寝室に入られた後は、セドリック殿が逃げ出すことはできません。心置きなく存分に迫って下さい」
あ…、急遽、シャーリーが張ったこの特殊な結界は、防犯用ではなかったのですね。
とても強い結界だったので、防犯としか考えられなかったのです。
セディに対して結界を張るという発想はありませんでした…。
二人の気迫のこもった眼差しに気圧されて、次々に沸き上がる疑問を飲み込み、私は声もなく頷いていました。
◇
今日、私は誕生日を迎え、遂に、私とセディは結婚披露パーティーを開くことができました。
法律上は、誓いの印を交わした私たちは既に夫婦となっていましたが、私が成人を迎えていなかったため、両家の両親から二人で暮らすことを止められていたのです。
ですから、今日がようやく私たちの夫婦としての始まりです。
――そして、初めてセディと夫婦として夜を過ごすのです。
初めての夜を前にして、私はブリジットとシャーリーから気合を入れられているのです。
セディはこの二人に「へたれ」ということを認定されています。そのため、初めての夜を過ごすには私の努力が欠かせないということで二人の意見は一致しているのです…。
――ちなみに、「初めて」さえこなせば、セディは箍が外れるということも二人の意見は一致しています…。箍が外れたセディ、なかなか想像できません。そして、シャーリーたちは嬉しそうですが、箍というものは外れてもよいものなのでしょうか。
そこはさておき、そもそも私は気になっていることがあります。
セディは「へたれ」なのでしょうか…?
二人の認識に私は首を傾げてしまいます。
新たに湧き出た私の疑問を他所に、ブリジットとシャーリーは真剣な討論を交わし始めました。
「シャーリーさん。寝室ではなく、寝台に結界を施せないのですか?」
「施すことはできるが、ブリジット、もしセドリック殿が寝台に行くまでに怖気づいてしまえば、意味がないではないか」
「確かに…。納得はしましたが、何かもっとセドリック様を効率的に囲い込むために…」
どうやら二人の真剣な討論に終わりは見えないようでしたので、私は二人に努力を誓って、二人を見送ることにしました。
セディを待つ間、手持無沙汰となった私は寝台に腰かけ、今日からセディと私の寝室となる部屋を見渡しました。
セディと共に選んだ家具が置かれたこの寝室は、既に親しみを覚えます。
そのことは、どことなく嬉しい気持ちを感じさせてくれつつも、今は親しみよりも寝室の静けさが私を捕らえています。
寝室は静かなのです。私一人しかいないのですから、当然のことです。
ですが、この静けさが今の私には辛いのです。私の耳は静けさとは真逆の状態だからです。
耳だけでなく私の全身が、私の大きな鼓動をはっきりと感じています。寝室が静かなために、この大きな鼓動から逃れられません。
もう、私の心臓が壊れても驚きません。
そうです。
シャーリーとブリジットには言えませんでしたが、これからのことを考えると、嬉しいのか、恐いのか、何か分からない気持ちで一杯なのです。
この日を本当に心待ちにしていて、今、私は幸せで魔力が溢れる程なのに、正直に言えば、少し逃げ出したい思いもあるのです。
「へたれ」は私なのかもしれません。
鼓動のあまりの強さに、思わず胸に手を当てたとき、静かな音と共にセディが寝室に入ってきました。姿勢の良いセディの美しい立ち姿は、ただ歩くだけの動きすらも美しいものとなり、私は見入ってしまいます。
加えて、入浴を済ませたセディの髪はまだ湿り気を帯びて、いつもよりも濃い色合いで、なぜだか艶めいた雰囲気を醸し出しているのです。
私は鼓動が跳ねるのを感じ、もう一度胸に手を当てました。
セディは寝室に張られた結界に気が付いたのでしょう。しばらく部屋を見渡し、ゆっくりと瞳を閉じて何かを沈思した後、長い睫毛を持ち上げ私の大好きな緑の瞳を私にひたと向けました。
その眼差しはいつもの柔らかなものとは異なり、とても真摯なものを感じて、私は小さく息を呑みました。
けれども、眼差し一つで私を捕らえたセディが穏やかな声で紡いだ言葉は、私の予想していなかったものでした。
『シルヴィ。誕生日おめでとう』
私は目を瞠りました。
そうでした。忘れるともなく忘れていましたが、確かに今日は私の誕生日でした。
今日、たくさんの方に結婚を祝っていただきましたが、誕生日は置き去りでした。
私自身ですら披露パーティーのことで頭が占められ、誕生日は意識から外れていたのに、セディは誕生日も大切なものとしてくれたのです。
私の胸は温かなもので満たされ、ふわりと緊張は解けました。
きっと私の顔も緩んだのでしょう、私の顔を見て、柔らかな笑顔を返してくれたセディは、小さな箱を差し出してくれました。
箱を開けると、一本のペンが入っています。
私は息を呑みました。
「このペンは…」
とても見覚えのあるペンです。
セディと休暇が重なったときに、二人で街を歩いていて見かけたものです。
細いすっきりしたデザインがとても書きやすそうに見え、その上、ペンの本体はセディの瞳とよく似た淡い緑の鉱石で覆われていたので、私はこのペンに一目ぼれしたのです。
仕事でこのペンを使えたらと思いながらも、お値段がなかなかのもので、買う決断ができなかったのです。
欲しいとは口に出していなかったのですが、私は魔力を溢れさせていたのかもしれません。セディにはお見通しだったようです。
セディが私の欲しかったものを分かってくれたことだけでも、うれしいことなのに、セディがくれたものはそれだけではありませんでした。
ペンの最上部には小さな魔法石が取り付けられ、セディは丁寧に癒しを石に織り込んでくれています。私が仕事で使うことを考えてくれているのでしょう。
セディの心遣いが私の全身を温かなもので満たしてくれます。
私の魔力が立ち上るのを感じました。
「ありがとう。セディ。うれしい」
セディもふわりと魔力を立ち上らせ、目を細めて頷きました。
「シルヴィの笑顔を見ることができて、僕もうれしいよ」
セディと私の笑顔が交わり、私は明るい思いで満たされたのですが、セディは笑顔をすぐに真剣な表情に塗り替えてしまうと、私の隣に座り、両手で私の頬を掬い上げました。
私を捕らえる淡い緑の瞳には、強い意志が表れています。
『もう二度と誕生日に君を泣かせることはしない』
いつもより低い声が響くと同時に、私の中のセディの魔力が一瞬熱くなりました。
セディは誓いを立てたようです。
私の誕生日に対して誓ってくれることはセディの想いの証であり、喜ぶべきことかもしれません。ですが、私の胸には鋭い痛みが走りました。
セディはどれだけ去年の誕生日のことを悔やんでいるのでしょう。
私は頬に添えられたセディの手に、自分の手を重ねました。
「セディ。私はあの日もセディの瞳が見ることができて、それだけでうれしかったの」
私の言葉に、セディは僅かに眉を寄せて、苦しそうな表情を見せます。
まだ、彼にあの日の私のうれしさは伝わっていないようです。私は言葉を重ねました。
「私には、あの日は、セディが忙しい中でもお祝いに来てくれた、素敵な思い出の日なの」
それは心からの思いでした。あの日、会えないと思ってしまった分、目覚めてセディを見たときは、胸に光が差した気がしたのです。
私は伸び上がって、セディに口づけました。
「あの日も、今日も、お祝いしてくれてありがとう。本当にうれしい」
私から魔力が立ち上るのを認めたセディは、苦笑を浮かべた後、ゆっくりと穏やかな笑顔を見せてくれました。
私の大好きなセディの笑顔に、私の胸が高鳴ります
セディは笑顔のまま、私の頬をそっと撫でてくれました。
「成人、おめでとう」
笑顔に合う穏やかな声でもう一度言祝いでくれたセディは、優しく私に口づけてくれます。
温かく心地よいセディの魔力が私に流れ込み、私はもっと近くでセディを感じたくて、セディの首に腕を回しました。
セディも私をしっかりと抱きしめてくれます。
肌で感じるセディの鼓動と魔力の心地よさに、私は自然と目を閉じていました。
セディは優しく私の髪を撫でてくれます。
「僕の中に流れるシルヴィの魔力のおかげで、今年はただ愛しさから君を抱きしめることができるけれど…」
今一度、抱きしめる腕に力を込めたセディはクスリと笑いを零し、耳元に囁きを落としました。
「それでも、君の温もりはずっと手離したくはないな」
私もセディとの間に僅かな隙間もなくなるように、力の限り彼を抱きしめました。
「私も同じよ。セディが馬車で屋敷まで送ってくれる時、このまま屋敷に着かなければいいと思っていたの。セディと別れて馬車から降りるときが、いつも辛かったの。離れたくなかった」
セディは私の耳に口づけました。セディの熱と魔力を受けて、私の耳は脈打ちます。
セディは掠れた声で、私の耳にさらなる熱を注ぎます。
『僕も屋敷に入る君の背中を見るのが辛かった』
同じ思いを耳にして、私はセディの温もりを求めて、もう一度彼を抱きしめました。
「今日からは、もう離れなくてすむのね」
その事実を言葉にして噛みしめると、胸に痛いほどの喜びが駆け抜けます。
セディは私の耳から顔を離し、大きな手で私の顔を包み込むと、淡い緑の瞳で私の全てを優しく捕らえます。
「そうだね。これから帰る場所は同じだ」
柔らかな緑の瞳に魅入ったまま、私は小さく頷きます。
緑の瞳は私の頷きにふわりと笑んだ後も私を捕らえ続け、私の意識から、音も、時も、全てが消え去ります。私の全てが緑の瞳に吸い込まれると、緑の瞳は熱を孕み、私の唇に視線を向けました。
熱く強い視線を受けて、私は瞳を閉じました。
セディを感じることを待ち望んだ私の唇に、温かなセディの唇がゆっくりと触れます。
何度も啄まれ、その度に駆け巡る甘くしびれるような感覚に、私は口づけの合間に思わず吐息を零すと、セディは優しさを捨て、貪るように口づけを深めました。
流れ込むセディの熱い魔力に私は溶かされる心地がして、全身が熱に侵された私の感じるものは私の呼吸を乱すほどの激しい熱だけになります。
昨日まではここまで昂った熱を、別れ際に、セディは魔力の流れを全力で止めながら鎮めてくれていました。
ですが、今日のセディは違いました。
魔力の高ぶりをそのままに、セディはゆっくりと私を寝台に横たえました。
セディの身体が離れてしまったことが切なくて、目を開けると、迎えたセディの瞳には、私を縫い留めるほどの激しい熱と、胸を締め付けるような切なさが浮かんでいます。
熱い手で私の髪を梳きながら、セディはそっと一言問いかけました。
「いいかい?」
熱い囁きでもたらされた問いに、セディの熱を、セディの魔力を、セディの全てを求めて、私は腕を伸ばしました。
――こうして、私たちの夫婦としての時間は始まりました。
お読みいただきありがとうございました。
本編でセディが「へたれ」と認定されたときに、
番外編を書こうと思いたち、
そして、ここまで時間がかかってしまいました。
お恥ずかしい限りです。
更新確認に訪れて下さった方がいらしたら、
本当に申し訳ございませんでした。
そして、お立ち寄りくださったことに
心から感謝いたします。
活動報告に、リチャードのその後の設定を載せています。
興味を持っていただけたら、活動報告にもお立ち寄りください。
残念ながら新しい病気が日本ではまだ猛威を振るっています。
お立ち寄りくださった全ての皆さまのご健康を
心からお祈り申し上げます。