〈第九章:許されざる者〉
浅尾は段手署に電話を掛け、花弁田刑事に連絡を取った。
「どうした、浅尾」
花弁田は呑気な態度で尋ねてきた。
何も知らないのだから、それも当然だ。
「花弁田さん、緊急事態です」
浅尾の真剣な口調に、花弁田の態度が一変した。
「事件だな」
「詳しい事情は後で説明します。すぐに徳民荘へ向かってください。信郎君のアパートです。僕も今から向かいますので」
「おい、それだけか。もう少し具体的に言えよ」
「すみません、こっちも急ぎますから。とにかく、頼みます」
浅尾は慌ただしく電話を切った。
すぐに信郎とも連絡を取りたかったが、浅尾は彼の電話番号を知らなかった。
こんなことなら聞いておけば良かったと思ったが、今さらどうしようもない。
浅尾はメゾン・ポプシクルを出てスパーカーにまたがり、徳民荘へ急いだ。
エミの住むメゾン・ポプシクルから徳民荘までは、そう遠くない。
段手署との距離を考えると、花弁田よりも先に到着する可能性が高いだろうと浅尾は考えていた。
徳民荘のある通りに入った時、そこに警察の車両が無いことを浅尾は確認した。
どうやら、まだ花弁田は到着していないらしい。
その代わりに、アパートの前から走り去る黒塗りのベンツが、浅尾の視線に入った。
「あれは」
浅尾は、すぐに皆浜のベンツだと気付いた。
徳民荘の前で自転車を止めた浅尾は、信郎の部屋へ駆け込もうとした。
だが、その必要は無かった。
信郎が、よろめきながら外へ出てきたからだ。
その頬は腫れて黒ずんでおり、口からは出血している。
「信郎君、大丈夫か」
浅尾は自転車を倒したまま放置し、慌てて駆け寄った。
その様子から、信郎が何発も殴られたことを浅尾は見抜いた。
同時に、相手には信郎を殺す気が無く、脅しが目的だったのだろうとも読み取った。
「お、俺は平気だ。それより、亜里が連れて行かれた」
信郎は苦悶の表情を浮かべながら、声を振り絞った。
「奇矢納興業の連中だな。一足遅かったか。信郎君、この前のハゲ頭や角刈りの男はいたかい?」
「あ、ああ。奴ら、ダイヤのありかを聞いてきた。ここには無いと答えたら、亜里を人質にしやがった。そして、彼女を返して欲しければ、ダイヤを持って第三埠頭のB倉庫まで来いと」
「人質を取って取引か。いかにも悪党らしいことをする連中だ」
浅尾は歯軋りをした。
「信郎君、すぐに花弁田刑事が来るはずだから、事情を説明するんだ。いいね」
そう言って浅尾は、すぐにスパーカーへ駆け寄って車体を起こした。
「ア、アンタは、どうするんだ」
信郎が問い掛ける。
浅尾はペダルに足を掛け、鋭く答えた。
「今から奴らを追う」
***
浅尾はスパーカーのペダルに足を掛け、力を込めた。
自転車は、猛スピードで走り始める。
もちろん、車を追い掛けても、普通なら追い付くはずが無いことぐらい浅尾にも分かっている。
しかし勝算があるからこそ、浅尾は追跡という行動に出たのだ。
若群荘の周辺は細い道や路地が多く、車がスピードを出すのには向いていない。
それに向こうは浅尾が追い掛けてくるとは知らないわけだから、無闇に速度を上げるようなこともないだろう。
だから浅尾は、車が通れないような裏のルートを通って近道をすれば、皆浜達に追い付けるだろうと考えたのだ。
若群荘は高台にあり、第三埠頭へ向かうには、標高の低い方へと下っていくことになる。
浅尾は周辺の俯瞰図を頭に思い浮かべ、最も速いルートを弾き出す。
浅尾は細い路地を入り、古い石の階段へ向かった。
ガタガタと揺れる自転車の振動を受けながら、階段を下りる。
「尻が痛いな」
小さくボヤく浅尾。
階段を下り切って右に折れた途端、買い物帰りらしき婦人とぶつかりそうになる。
「きゃっ!」
「失敬」
浅尾は間一髪でかわした。
そこから小さな神社へ向かい、その裏にある畦道を抜けた。
さらに舗装が剥がれた道を進むと、その先には、坂をグルリと迂回するように国道が通っている。
浅尾は国道を使わず、急な坂を一気に駆け下りるルートを選択した。
もちろん、そこに道など無い。
小石や不燃ゴミが散らばるデコボコな草地を、浅尾は強引に突破していく。
ズザザザザッ。
ハンドルを取られて滑りそうになりながらも、浅尾は何とかバランスを保ち、坂を突っ切った。
浅尾は眼鏡に付着したゴミを拭き取り、舗装された道路に戻った。
同じ方向へ走る軽トラックを見つけた浅尾は、慎重に近付き、その荷台に捕まった。
少し疲れたので、引っ張ってもらおうとしたのだ。
だが、すぐに軽トラックが別の方向へ曲がったため、浅尾は手を離し、再び自力で進み始める。
「やっぱり、早く車の免許を取らなきゃダメだな」
愚痴るように言いながらも、浅尾は休むことなく自転車を漕ぎ続ける。
もちろん疲労はあるし、太股の筋肉は引きつっているが、今は四の五の言っていられる状況ではない。
漕ぎ続けた甲斐はあった。
浅尾の視線が、ついに皆浜のベンツを捉えたのだ。
「よし、やっぱり苦労は報われないと意味が無いからな」
浅尾は、さらに必死でペダルを漕いだ。
***
悪人どものベンツは徳民荘周辺の狭い路地を抜け、第三埠頭へ向かって順調に走っていた。
渋滞に巻き込まれることも無く、やがて直線が続く国道へと入った。
車には五人が乗っている。
運転席には天野、助手席には世羅間。
後部座席には、左から相馬、亜里、皆浜の順で座っている。
亜里は大声が出せないよう、口にタオルを噛まされている。
相馬は亜里が暴れないよう、彼女の脇腹にドスを向けている。
「なかなか可愛い顔してるじゃねえか」
いやらしい表情を浮かべ、相馬は粘着質な視線で亜里を舐め回すように見た。
亜里は顔を背けるが、相馬は顎を掴んで強引に自分の方へ戻した。
「社長、その女、どうするんですか」
世羅間がチラリと後ろに目をやり、尋ねた。
「もちろん、ダイヤが戻れば、すぐに死んでもらう」
即座に皆浜は返答した。
それを聞いて、亜里の顔が引きつった。
何か叫ぼうとしたが、タオルに邪魔されてモゴモゴと言うだけに終わった。
亜里は体をくねらせて逃げようとしたが、すぐに相馬がドスを押し付けた。
亜里はビクッと全身を固まらせた。
「社長、これだけの上玉、すぐに殺すのは勿体無いですよ。その前に、ちょっと楽しんでもいいんじゃありませんか」
相馬がニヤニヤと笑う。
「お前も好きだな」
皆浜は、やや呆れたように言う。
相馬は若い女にしか性欲を示さない。
熟女好きの皆浜からすると、その感覚は全く理解できないものだった。
「それは別に構わん。お前の好きにすればいい。殺すのは、お前の楽しみが終わってからにしてやろう」
「ありがとうございます。さすが社長、話が分かる」
そう言って相馬は、亜里の髪をスッと撫でた。
亜里は強烈な不快感に包まれる。
しばらく進んだところで、赤信号になり、ベンツは停車した。
「そうだな、その女には、さっきの信郎とかいう奴と一緒に、心中という形で死んでもらうかな」
皆浜は冷笑しながら言う。
その時、バックミラーを見ていた天野が、不思議そうな表情を浮かべた。
「なんだ、ありゃ?」
「どうした?」
「有り得ないスピードで、自転車が走ってくるんですが……」
すぐに、バックミラーで確認した世羅間が叫んだ。
「あれは……奴だ!」
奴とは、浅尾のことだった。
浅尾は驚異的なスピードで自転車を走らせ、ついにベンツに追い付いたのだ。
急ブレーキを掛けた浅尾が、自転車をベンツの横に付ける。
停車した途端、浅尾の全身から汗が一気に噴き出した。
人間の限界を超えたハードワークで、太股はプルプルと震えていた。
中を覗こうとする浅尾だが、ベンツの窓が黒塗りになっているため、車内の様子は分からない。
「おい、亜里ちゃんを返せ」
浅尾は自転車を無造作に倒し、窓を激しく叩いた。
珠の汗が頬を滴り落ちる。
「あの男、ここまで、あの自転車で追って来たのか。タフなのか、ただの馬鹿なのか、どちらだろうな」
皆浜は口を歪めた。
「どうします?」
天野が振り返り、皆浜に指示を仰いだ。
「スピードを上げて振り切れ。どうせ自転車だ、すぐに諦めるだろう」
「了解しました」
天野は対向車がいないのを確認し、信号が青に変わるのを待たずに、アクセルを踏み込んだ。
「おい、この」
慌てて浅尾はサイドミラーを掴んだ。
彼は走り出した車に捕まり、強く地面を蹴った。
「行かせるか」
浅尾は勢いを付け、ベンツの屋根に飛び乗った。
しかし次の瞬間、浅尾は思わず手を放して滑り落ちそうになった。
「熱っ」
厳しい日差しを受けて、屋根が焼けるように熱かったのだ。
だが、浅尾は顔をしかめながらも、そのまま両手でしがみついた。
「社長、あいつ」
「無茶なことをする奴だな。天野、振り落としてしまえ」
「はい」
天野はうなずき、車を蛇行させた。
「くそっ、落ちてたまるか」
浅尾は両腕に力を込め、必死に歯を食いしばった。
耐える浅尾の両足が、ブランブランと激しく左右に揺れ動く。
さらに車は激しい蛇行を繰り返すが、浅尾は我慢を続けた。
指は痺れ、頭はクラクラする。
だが、彼は精神を集中し、自身の肉体を鼓舞した。
蛇行運転が一分を超えても、浅尾は屋根にしがみついていた。
「ええい、しぶとい奴だ。さっさと落ちればいいものを」
皆浜は、苦々しい表情を浮かべた。
「もういい、天野。そこを右に曲がったところに、工場跡地があったはすだ。そこに車を入れろ」
「分かりました」
「社長、どうする気ですか」
世羅間が尋ねた。
「あそこなら人は来ないし、何が起きたとしても、全て闇に葬れる。奴を始末するんだ。いいな」
「承知しました」
世羅間はニヤリと笑った。
「あいつとは、いずれ決着を付けたいと思っていたんですよ」
車は工場跡地へと入った。
そこは、かつてはパルプ工場があった土地である。
だが、十年以上前に潰れてしまい、今は廃屋と大きな空き地が残っているだけだ。
しかも、廃屋と廃屋に挟まれる形で空き地があるため、敷地の外からは内部の様子が見えない。
浅尾を始末するには、まさに格好の場所なのである。
天野は空き地の奥まで進み、そこでベンツを停車させた。
「さあ、こっちへ来い」
相馬は亜里の腕を掴み、ドアを開けて車の外に引きずり出した。
「おい、気を付けろ」
世羅間は相馬に注意を促した。
慎重に外へ出るよう言おうとしたのだ。
だが、さらに言葉を続ける前に、不注意な行動の結果は出てしまう。
相馬が亜里を連れて外へ出た次の瞬間、浅尾は屋根からスルリと滑り降りた。
「どこへ行く気だ?」
浅尾は相馬の前に着地し、そう言った。
「げっ」
相馬は一瞬たじろいだが、それでも咄嗟に匕首を持った右手を突き出した。
だが、浅尾は右前の半身になってかわしつつ、相馬の右手首を上下から挟むように両手で掴んだ。
そして、その腕を開いたドアの方へ思い切り引っ張った。
相馬は腕ごと体を持って行かれ、胸をドアの角に強く打ち付けた。
「ぐはっ」
ぶつかった衝撃で、相馬は右手の匕首を落とした。
刹那、浅尾は自分の右腕を相馬の手首から離した。
そして反動を付けて、裏拳を相手の眉間に入れた。
「ぎゃあっ!」
白目を剥いて、相馬は失神した。
浅尾は素早く亜里の体を引き寄せ、タオルを口から外した。
「亜里ちゃん、大丈夫ですか?怪我はありませんか」
「な、何とか」
すぐに、それ以上の会話は難しい状況になった。
皆浜、世羅間、天野の三人が車から出て来たのだ。
「亜里ちゃん、こっちに」
浅尾は亜里の手を引き、ベンツから距離を取った。
「相馬の奴、油断しやがって。だから気を付けろと言ったのに」
世羅間が、忌々しげに言葉を吐いた。
「アンタら、ダイヤの指輪が目当てなんだろう。だったら、ここにある」
浅尾はズボンのポケットから、指輪の入った箱を取り出した。
「この中だ」
浅尾は箱を掲げる。
「ほう、貴様が持っていたのか。それは知らなかった」
皆浜は、低いトーンで言葉を発した。
「それにしても、随分と面倒を掛けてくれたな。やはり、只者ではないらしい。何者なんだ、貴様は」
「何者かって?そうだなあ……」
浅尾は腰に手を当て、芝居がかった口調で言った。
「ある時はアイドルオタク、ある時はGSオタク、ある時はアニメオタク、ある時は漫画オタク、ある時は映画オタク、ある時は特撮オタク。しかしてその実体は、愛と正義のオタク、浅尾丹外だ。学が無いから、お前らを倒しても一編の詩は残さないぞ」
「ふざけたことを」
皆浜は、鼻筋に皺を寄せた。
「二度と、そんな馬鹿なことを言えなくしてやるからな」
「おっと、どうやら、完全に戦闘不可避な状況のようだな」
相手の怒りを受け流すように、浅尾は泰然と振舞った。
「亜里ちゃん、ここから離れて、どこかに隠れているんだ」
「で、でも浅尾さんは」
「僕は大丈夫。それに、前にも言ったと思うけど、アイドルを守るのはオタクの使命なんですよ」
浅尾は、穏やかに笑う。
「さあ、早く行って」
「は、はい」
亜里はためらいつつも、浅尾から離れた。
彼女は空き地の隅に放置してある大きなドラム缶まで走り、その後ろへ身を隠すように座り込んだ。
「さて皆浜さん」
浅尾は横目で亜里の退避を確認し、仕切り直すように言葉を発した。
「どうせ手下に僕の抹殺を命じるんでしょう。さあ、どうぞ」
「余裕を見せやがって」
皆浜は右拳を強く握り締め、激しい怒りを示した。
「その余裕、すぐに消してやる。世羅間、天野、やってしまえ」
その声に弾かれるように、天野は車から日本刀を取り出し、鞘を抜いた。
世羅間は肩を回し、首をポキポキと鳴らした。
先に動いたのは、天野だった。
「死ねやぁっ!」
そう叫んで浅尾へと走り、両手で握った日本刀を大上段から振り下ろす。
ブオンッ。
刃が風を起こした。
「死にたくないね」
浅尾は大きく踏み込み、天野の右肘を下から左腕で跳ね上げた。
それと同時に、相手の鳩尾に右の縦拳を入れた。
「ぐおっ!」
数秒前より大きな叫び声を上げて、天野の体が「く」の字に曲がった。
天野は骨が抜けたかのようにグニャッと地面に倒れ込み、口から泡を吹いて気絶した。
「いいかい、皆浜さん」
浅尾はギロリと視線を向ける。
「アンタは怒っているかもしれないが、こっちはそれ以上に頭に来ているんだ。亜里ちゃんを拉致するなんて、洒落にならないことをやってくれたな」
「な、何なんだ……」
皆浜は唖然とした。
目の前の男は、日本刀を持った天野に全く臆することなく、わずか数秒で倒してしまったのである。
そんな人物に、皆浜は未だかつて出会ったことが無かった。
一方、世羅間は天野には目もくれず、浅尾を鋭く見つめた。
皆浜とは違い、以前に手合わせした彼は、浅尾の実力を肌で感じ取っている。
「やるな、田舎拳法」
世羅間は言いながら、上着を脱いだ。
その下は赤いタンクトップ一枚だった。
隆々と盛り上がった肩と腕の筋肉が、まるで独立した生き物のように、ピクピクとグロテスクな動きを見せた。
「しかし、俺はこいつらのようには行かんぞ」
「言われなくても、分かっている」
浅尾は眼鏡のバンドをパンッと軽く弾き、改めて戦闘体勢を整えた。
「残りわずかな命を楽しむんだな」
世羅間は鍛え上げられた肉体を誇示するかのように、ゆっくりと近付いてきた。
「へえ、楽しむ余裕を持たせてくれるのかい」
「それは無理だな」
「だったら、さっさと始めようぜ、世羅間さん」
「ふっ、そんなに死に急ぎたいのか。ならば、望み通りにしてやる」
世羅間はシュッと小さく息を吐き、攻撃を開始した。
右の中段蹴りが、ブンッと烈風を巻き起こす。
浅尾は左腕で外に捌きながら、相手の腹部へ右の正拳を突いていった。
それを世羅間は左手で外へ払う。
パシッと小気味の良い音。
すかさず浅尾は、横から顎を狙って右掌底を打ち込む。
これも世羅間は右手で払う。
続けて浅尾は右足を一歩踏み込みつつ、右腕に反動を付け、世羅間のこめかみを孤拳で打った。
「んぐっ」
最後の攻撃は払い切れず、世羅間は頭をぐらつかせて後ろへ下がった。
踏ん張った足が、低い土煙を生じさせる。
浅尾は素早く距離を詰めて、左正拳を脇腹へ放った。
しかし世羅間は右掌で正面から拳を受け止め、逆に左縦拳を浅尾の顔面へ打ってきた。
丸太のような腕が迫る。
浅尾は右肘を跳ね上げ、敵の拳を上に捌いた。
そして右手で下から世羅間の右手首を掴み、前に踏み込む。
右手首を掴んだまま、相手の脇の下をくぐる。
そのまま浅尾は体を半回転させ、世羅間の斜め後ろに回って彼の右腕を絞り上げた。
「させるかっ」
世羅間は右腕を取られたまま、左の後ろ蹴りを放った。
柔らかくしなる足。
「うっ」
浅尾は腰の辺りに蹴りを食らい、手を離して後ずさった。
汗が頬を伝うが、気にしている暇は無い。
すぐに世羅間が向きを変え、右正拳を浅尾の胸にめがけて打ってきた。
ハッ、と鋭く息が吐き出される。
浅尾は右手で内に捌き、左前の半身になって、世羅間の手首を左手で掴んだ。
そのまま世羅間の横に踏み込み、耳を狙って掌底を打つ。
しかし世羅間は頭を引いてかわし、左の中段蹴りを放ってきた。
浅尾は右腕で蹴りを受け流し、世羅間の脇腹に左縦拳を突いていった。
だが、パシッと強く払い落とされる。
世羅間は左の中段を蹴るような動きから、上段蹴りを放った。
浅尾は対応し、右腕で受けたが、その重さに押された。
「くっ」
浅尾は、一歩下がることを余儀なくされた。
すぐに体勢を整えようとするが、そこへ世羅間の胴回し回転蹴りが飛んで来た。
「せいやっ!」
「うおっ」
意外な攻撃に、浅尾は焦った。
胴回し回転蹴りとは、前方宙返りをしながら蹴りを放つ技だ。
攻撃を出した者も、背中から着地する捨て身の技である。
まさか、実戦格闘でそんな技を出してくるとは予想していなかったのだ。
咄嗟に両手を交差させて盾にした浅尾だが、強烈な蹴りの衝撃を受け止め切れなかった。
ズササッ。
浅尾は激しく倒れ込み、腰を地面に強く打ち付けた。
受け身を取るのがやや遅れたため、ダメージは決して小さくない。
「くうっ……」
浅尾は顔をしかめて痛みに耐え、立ち上がった。
左腕からは、赤黒い液体がポタポタと垂れ落ちた。
先程の蹴りを受けて、大きな裂傷が入ったのだ。
後ろ受け身を取った世羅間はサッと立ち上がり、すぐに右の前蹴りを放ってきた。
浅尾は左腕で外へ受け流す。
その手を引き付け、彼は横から手刀を敵の首筋に目掛けて打ち込んだ。
だが、世羅間は下がってかわした。
右の貫手で喉を狙った浅尾だが、世羅間は右手で外へ払い、左縦拳を突く。
鋼の肉弾。
「させるかっ」
浅尾は左手を伸ばし、相手の左手首を掴んだ。
そして右足で大きく踏み込み、世羅間の懐に潜り込んだ。
「せやっ」
雄叫び一発、浅尾は世羅間を背中に担ぎ上げ、豪快に投げ飛ばす。
ブオンッ!
世羅間の体は宙を舞った。
軌道は曲線を描く。
ドシャッと大きな音を立て、世羅間は背中から地面に落ちた。
「むはっ!」
大きく口を開き、世羅間がうめいた。
頑強な肉体が、ようやくダメージらしいダメージを受けた。
浅尾は間髪入れず世羅間に近寄り、額に掌底を打ち下ろそうとした。
しかし世羅間はゴロゴロと横に転がって回避し、立ち上がった。
浅尾は、すぐに接近して右の縦拳を突こうとする。
だが、世羅間もジャンプしての上段蹴りを放ってきた。
ほぼ同時。
浅尾の縦拳は狙い通りに当たらず、やや浅くなった。
一方で、世羅間の蹴りを左腕で防いだ浅尾だが、勢いに押されて体勢を崩した。
二人は共に一歩下がり、表情を歪めた。
一瞬、どちらも攻撃が止まった。
「やるじゃないか。こっちが思っている以上に、骨のある奴だな」
世羅間が唇を舐めながら言う。
「こう見えても、やる時は、やる男なんだよ」
浅尾が言葉を返す。
「だが、そろそろ終わりにしてやるぜ、田舎拳法」
「こっちも、そう願いたいね。そろそろ疲れてきたよ」
二人とも、じっと相手を見据え、荒い呼吸を少しでも整えようとする。
双方の顔からは、溢れるような汗が滴り落ちている。
沈黙。
そして、躍動の前の緊張感溢れる静止。
「てやあっ!」
先に動いたのは、世羅間だった。
左の正拳を、浅尾の胸に突いて来る。
浅尾は右手で外に受け流したが、すぐに右の上段回し蹴りが飛んで来た。
浅尾は頭を低くして回避する。
だが、世羅間は右足を着地させると、その流れで左の後ろ回し蹴りを放ってきた。
旋風。
そして肉の魔剣。
何とか両腕で防いだ浅尾だが、その衝撃は半端なものではない。
グッと歯を噛み締め、浅尾は踏ん張る。
「なんのっ!」
浅尾は気合いを込めた。
全身の毛が逆立った。
彼は攻撃を受け切り、世羅間が足を下ろして体勢を整える前に、素早く双手の縦拳を相手腹部へ打った。
世羅間は無防備な状態で、両の拳を食らった。
「ぐうぉっ!」
声を上げ、世羅間が腰を折り曲げる。
低くなった相手の耳に、浅尾は右裏拳を放った。
しかし世羅間は右手で防ぎ、無理な姿勢から強引な右中段蹴りを飛ばしてきた。
浅尾は左肘で受け止めたが、続けて世羅間が繰り出してきた前蹴りへの対処が遅れ、まともに受けてしまった。
浅尾は大きく後ずさった。
「うぐぅっ」
うめき声が上がる。
鈍い痛みが息を苦しくする。
あばら骨の一本か二本は確実に折れたと、彼は察知した。
「死ねっ!」
世羅間は助走を付け、勢い良く飛び込んでの正拳突きを顔面へ打ち込もうとした。
しかし、浅尾は傷付きながらも、神経の集中を失っていなかった。
その攻撃が、逆に世羅間を仕留める絶好の機会だという感覚が、彼の中にあった。
浅尾は半眼になり、野蛮な猛獣を待ち構えた。
彼は世羅間の突進を、かわさず、そして受け流すこともしなかった。
別の選択肢が、彼の中には存在していた。
浅尾はタイミングを合わせ、向かってくる世羅間に対して、低い姿勢で大きく踏み込んだ。
敵の拳が届く寸前。
「ハッ!」
浅尾は素早い動きで、右の掌底を彼の顎へと突き上げた。
世羅間には、それが見えていなかった。
「ぐむっ!」
世羅間の顔は天を向き、発するつもりの無かった声が発せられた。
その体は、まるでスローモーションのようにフワリと宙に浮いた。
そして重力に従い、ドシンと鈍い音を立てて地面へ落下した。
仰向けに倒れた世羅間の口からは、苦痛の叫びさえ出なかった。
既に、彼は気を失っていたからだ。
「今のは、大進拳の技の一つ、“無頼”です」
浅尾は静かに言って、自分が倒した相手を見下ろした。
それから、荒くなった息をゆっくり整えつつ、眼鏡バンドの周りに付着した汗をサッと拭き取った。
空気を吸い込むと、ズキズキと胸部が痛んだ。
左腕の裂傷からは、まだ血が落ち続けている。
視線を上げた浅尾は、皆浜の姿が見当たらないことに気付いた。
周辺を見回そうとした時。
「きゃあっ!」
叫び声が、背後から突き刺さった。
「亜里ちゃん?」
浅尾が振り向くと、ドラム缶の傍らで皆浜が亜里を捕まえていた。
いつの間にか皆浜は移動し、気付かれないように亜里へと接近していたのだ。
「うるさいっ。暴れると撃つぞ」
皆浜は怒鳴った。
彼は亜里を後ろから羽交い絞めにして、右手に持った拳銃を、彼女の頭に突き付けていた。
「あ、浅尾さん……」
亜里は奥歯をガタガタと震わせ、消え入りそうに小さな声を発した。
気を失いそうなほどの恐怖を感じていたが、ギリギリの所で正気を保っているのだ。
皆浜は、憎しみに満ちた目で浅尾を睨んだ。
「やってくれるじゃないか、ウチの連中を全て倒すとは」
「やりたくて、やったわけじゃないさ」
あえて落ち着いた調子で言いながら、浅尾は皆浜に近付こうとした。
「おっと、動くなよ。それ以上こっちへ来たら、この女を撃ち殺すぞ」
皆浜は拳銃を軽く上下に振り、凶器の存在をアピールした。
「拳銃なんて使うんだな。手下にも使わせていなかったし、てっきり銃は使わない主義なのかと思っていたよ」
「普段は使わないさ。最後の武器として取っておいたんだ」
「アンタは忍者部隊月光かよ。ともかくダイヤが欲しいなら、ここにあるぞ」
浅尾は箱を出して開き、右手に持った指輪をかざした。
「馬鹿め。そんなもの、貴様ら二人を始末してから奪い返せば済むことだ」
「やはり、そういうことか」
浅尾は最初から、それを予期していた。
「まあ、当然だろうな。ようするに亜里ちゃんを先に殺すか、僕が先か、順番だけの問題だな」
「その通りだ。そして貴様を先に殺してやろう。さすがの貴様も、銃には勝てまい」
「確かに、そうだね。シナンジュを会得したレモ・ウィリアムスならともかく、僕には無理だな」
浅尾は場違いな冗談を飛ばす。
しかし、決して余裕があるわけではなかった。
武術に優れた浅尾ではあったが、銃で狙撃されたら、それを瞬時にかわしたり、あるいは弾丸を指で掴んだり、そんな漫画のような芸当は不可能だ。
近距離で正確な射撃を受けたら、死ぬしかない。
しかし、だからと言って、パニックになることもなかった。
浅尾は冷静だった。
皆浜と話しながらも、いかにして窮地を切り抜けられるかを探っていた。
浅尾は、亜里をチラッと見やった。
彼女の顔は恐怖で引きつり、すがるような目で浅尾を見ている。
自分が助かるだけでなく、亜里に危害が及ぶことも避けねばならない。
視線を皆浜に戻した浅尾は、悠然たる態度を装って話し掛けた。
「そうだ皆浜さん、冥土の土産に一つ聞かせてほしいんだ。あのロッサナという店名は、やはり『黄金の七人』のロッサナ・ポデスタから取ったのかい?」
「ほう、良く分かったな。その通りだ。なかなかの映画通らしいな」
皆浜はニヤッと笑った。
「しかし、出来れば『黄金の七人』ではなく、『顔のない殺人鬼』のロッサナ・ポデスタと言ってほしかったな」
「なるほどな。やはり、アンタが悪党でなければ仲良くなれたような気がするよ」
「さあ、お喋りはそろそろ終わりにしようじゃないか」
皆浜は、拳銃を浅尾に向けて構え直した。
「今の質問は、もしかして何かの時間稼ぎのつもりなのか。だったら、それは無駄なあがきというものだぞ」
「時間稼ぎをしていたつもりは無いさ。ただ、こうしている内に何かの偶然で、かめはめ波が出ないかとは思っていたけどね」
「かめはめ波だと?」
「そうさ、知らないのか。『ドラゴンボール』に出て来る亀仙人が編み出した必殺技、かめはめ波さ」
「ふははっ、知っているが、追い詰められて気でも狂ったのか。そんなもの、出せるはずもないのに」
皆浜が嘲笑する。
「さあ、それは分からないよ」
そう言うと、浅尾は右腕を何気無く前に伸ばした。
次の瞬間。
皆浜の右の手元で、変化が生じた。
ビシッ。
短く鋭い音。
それは、何かが銃に当たる音だ。
刹那、皆浜の持っていた拳銃は、まるで前方から狙撃されたかのように勢い良く弾き飛ばされた。
ガシャン。
拳銃が地面に落下する。
皆浜は一瞬、何が起きたか分からなかった。
それから、じっと右手を見た。
そこには、ついさっきまで握っていた最後の武器が無かった。
今だ。
浅尾は皆浜が呆然としている隙に、ダッと駆け出した。
タタタッ。
浅尾は、一気に皆浜との距離を詰める。
「ハッ」
皆浜は我に返り、慌てて拳銃を拾おうとした。
しかし、それよりも早く、浅尾が接近戦の距離に入った。
浅尾は左手で皆浜の右腕を掴んだ。
間髪入れず、右肩の付け根辺りに、右の掌底を打ち込んだ。
それと同時に、相手の右足を自分の右足で鋭く刈った。
「うぁっ!」
皆浜は叫びながら、背中から地面に打ち付けられた。
ズシンッ。
受け身も満足に取れなかった皆浜だが、浅尾が右手を掴んでコントロールした分、後頭部を強く打つことは避けられた。
「痛っ!」
皆浜は、右肩を押さえてうめいた。
浅尾の放った掌底で、肩の関節が外れたのだ。
浅尾は皆浜が動かないよう、彼の腹部に右膝を押し付けた。
「さあ、これで形勢逆転だな」
浅尾が言う。
「何をやったんだ?どうして拳銃が飛ばされた?」
皆浜は、混乱したような表情を見せた。
「まさか、貴様は本当に、かめはめ波を打てるのか」
「おいおい、気でも狂ったのか。そんなもの、実際に使えるはずがない」
すました顔で、浅尾が告げる。
「では、何をしたんだ」
「これだよ」
浅尾は近くに落ちていた物を拾い上げ、皆浜に見せた。
それはダイヤの指輪だ。
「これを投げ付けたのさ。勢いが強かったので、拳銃が弾き飛ばされたわけだ」
「しかし、そんなはずは無い。貴様は、物を投げるような動きは全く見せなかったじゃないか」
「かめはめ波を打つことは無理だが、気を一箇所に集中して、ほぼノーモーションで強い力を発することは可能だ」
浅尾が説明する。
「右手を伸ばした時、僕は密かに指輪を握っていた。そして右手に気を集中させ、手首のわずかな動きだけで指輪を弾丸の如く発射したんだ。大進拳の技の一つ、“破戒”さ」
「そんな芸当が出来るとは……。やはり只者ではなかったな」
皆浜は、力無い視線で浅尾を見上げた。
「俺を殺すのか」
「いや、僕は鴨井大介と同じく、人は殺さない主義なんでね。だけど、警察が来るまで眠ってもらうよ」
浅尾は、皆浜の腹に正拳を落とした。
「うっ」
皆浜は目を閉じ、無言となった。
失神したのだ。
浅尾は立ち上がり、振り向いて亜里に視線を向けた。
「亜里ちゃん、もう終わりましたよ」
その声で極度の緊張から解放されたのか、亜里は腰からヘナヘナと崩れ落ちそうになった。
慌てて浅尾は駆け寄り、彼女を支えた。
浅尾は、ゆっくりと亜里の体を地面に横たえた。
「大丈夫?」
「え、ええ、大丈夫です。ちょっと力が抜けてしまって。それより浅尾さんこそ、大丈夫ですか?」
「僕は平気です。言ったじゃないですか、アイドルを守るのはオタクの使命だって。僕は使命を果たしただけですよ」
それを聞いた亜里の目から、大粒の涙がこぼれた。
安心したことで、感情が一気に湧き出したのだろう。
「だけど亜里ちゃん、いつも僕が守るわけにもいかないし、やはり護身術は習った方がいいかもしれませんね」
浅尾は彼女の気持ちをほぐすため、あえて笑顔で話し掛けた。
「ええ、そうですね」
亜里は涙を拭きながら答えた。
その顔に、ようやく笑みが戻った。