05 モン・サン・ミシェリアとその湾
■コックリの視点
チャプンッ チャプンッ チャプンッ
遠浅の海に小気味いい音が響く。
涼しげな足音。
シスが水の上を歩く足音。
「うふふ、うふふふ……」
シスは太ももまであるブーツを脱いで、それを手に持ったまま、遠浅の海を歩いている。
余程嬉しくて楽しいのか……海水が跳ねることも厭わず、飛ぶように、翔けるように、軽やかに進む。ああ、珍しく俺を置いてずいぶんと先まで行ったな……
「転ばないようになー!」
俺が声をかけると、彼女はくるりと体ごと振り向いて、手を振りながら嬉しそうな笑みを見せる。
……何てまぶしい笑顔だろう。
俺とシスは、モン・サン・ミシェリア修道院を目指して、遠浅の海を歩いている。
満潮の頃は、大人の胸の高さまで潮が満ちるというこの湾も今は干潮に近づき、足首の上くらいまで潮が引いている。夜には完全に引くと思うんだが……シスは今すぐにでも、自分の足で歩いてモン・サン・ミシェリア修道院へ行きたいと言って……太ももまであるブーツを脱いで、素足で遠浅の海を歩いている。一方、俺は鉄靴や鎧を脱ぐわけにもいかず、それらが濡れないように水をはじくブーツを買って、海の中を歩いている。モン・サン・ミシェリア島に馬を預かる厩舎があれば馬に乗って来られるんだけれど……ないということで陸地の町の厩舎にエリーゼを預けている。
周囲を見れば、同じように海を歩いてモン・サン・ミシェリアへ向かう巡礼者たちの姿がいたるところに見えて……一キロほど先にある聖地を目指して歩いている。
前を行くシスは、自分の足元を見ながら俺を待っている。
遠くからでも、霊力で強化した俺の耳には、彼女のつぶやきが聞こえてくる。
「うふふ……足の裏、気持ちいい。凄く細かい砂の粒子……足の指と指の間に入って……とっても気持ちいい……うふふふ……」
くく……俺を待ちながら、シスは足を砂にグリグリとうずめているようで……
くくく、可愛い。本当に可愛いな。ああ切れ長の目がこれ以上ないほど垂れ下がって……小柄な(胸はのぞく)体に仕草も行動も、笑顔も本当に少女のようだから、年下に見えるんだが……これで四百歳なんだよな。と、彼女は結構、年齢を気にする。俺が年齢の話をすると、途端にシュンとして話したがらなくなるんだ。どうも俺の年齢と自分の年齢がかけ離れすぎているためらしいんだが……今彼女は正確には四百二歳なんだが、見た目が十代後半から二十代前半で精神年齢もそれくらいに見えるから、年齢を気にしなくてもいいんじゃないか?
と俺が横に着くと、シスは修道院を見つめてつぶやいた。
「はあ……近くで見ると、こういう構造なのね……」
俺はつられるように目を向けた。
ふむ、モン・サン・ミシェリアの構造か。一つの完璧な存在として全体的にふわっと見ていたが……大きく分けて三つの層になっているな。一つは岩山の頂上にそびえる修道院の層、一つは岩山の中間にある樹木の層、最後の一つは岩山のふもとに広がる町の層……
ふむふむ、頂上の修道院は大きく二つの建屋に分かれているように見える。一つは天高く伸びる鐘楼を持つ大聖堂の建屋。この建屋はゴシックの粋を結集した複雑な装飾が施されていて……屋根のいたるところから細く長い尖塔が飛び出ている。青い屋根瓦が鮮やかに輝いて……本当に美しい。その大聖堂を囲うように建てられた城壁にも見える建屋。大聖堂とはうって変わって落ち着いた印象の建屋が大聖堂の周囲を囲んで……作られた時期が違うのかな。無理矢理増築したような、ところどころ出っ張ったり引っ込んだり建物の形が微妙に違う。おそらくあれが修道僧や不治の病と闘う患者たちが住む居住スペースだろう。
そして修道院の下。岩山の中腹は……ああ、常緑の樹木が海風になびいて、きっといい音がするんだろうな。秋だというのに、緑の色が濃くて樹形に勢いがある。おそらく慈愛の力を吸いながら目一杯、育っているんだろう。相当な実りをたたえて、人はもちろんのこと、多くの鳥や小動物にも良い影響を与えていると思う。
そしてふもとの町。三階建て四階建ての背の高い建屋が、所狭しと建てられ犇ひしめいていて……一種の要塞にも見える。おそらく町のいたるところから修道院が見えて、それぞれの場所からはそれぞれの修道院の表情が見えるんだろうな……
「はぁ……」 シスはため息をついて 「素敵……本当に素敵……」
「ふふ」 俺はシスの視線の先へ目を向けた 「……そうだな」
彼女は翡翠色の瞳を輝かせながらその美しい光景に見惚れている。
ああ、本当に美しい素敵な光景だよな……
秋の高い空にはうろこ雲
波のない遠浅の海には、美しい海上都市ともいえる荘厳な修道院と鮮やかな樹木、そして犇めく町
鏡のような海は、天の高い空と白い雲とを逆さに映し出し、海上都市を逆さに映し出す
穏やかな海は、その上を歩く巡礼者たちをも逆さに映し出す
空と海との境界線が分からない幻想的な光景
神々しい……
神々しいまでの美しさだ……
ただただ胸に迫る美しさ。
言葉で言い表せない、胸に去来する大きな大きな想い。
張り裂けるような……切なくさせるような……
この情景を見ただけで、ただただ胸を打たれる。
特に、心が肉体を持った妖精なら、なおさらだろう。
「はわぁ……はわぁぁ……」
「くくっ」
俺はシスがこういった光景が好きなことを知っている。
『 自然と人為とが完璧に調和して生み出す光景 』が、彼女が好きな光景だということを。おそらく……俺とシスを重ね合わせているんだと思う。人は俺、自然はシスとして……
「はわぁ……コックリ。聖地って……皆こんなに綺麗なの……?」
シスは俺を見上げて言った。
ああ。シスは感動のあまりフルフルと震えて、心を抑えきれないといった表情の彼女は、翡翠色の瞳が濡れて宝石のように輝いて……頬がピンク色に上気して……ぅぐうーっ
本当に可愛くて、可愛くて胸がキュウッと鷲掴みにされる。ああ抱き締めたい……とイカンイカン、人目が多い。
「コックリ……?」
「あ……いや、場所によるが……モン・サン・ミシェリア修道院の美しさは特に飛びぬけていると思う」
「そうなんだ……そうなんだ……」
シスは感動したままそう言うと、俺の手を握りしめた。ふふ、自然に触れられるようになったな。鎧をつけてなかったら、ひんやりとしたシスの手の感覚が感じられたんだろうが……
彼女は俺に寄り添うと……
「綺麗……綺麗……」
「ああ……ああ……」
シスは俺の手を強く握りしめて、ため息を漏らす。
俺とシスは、二人で、声もなく、ただただその絶景を見つめていた。
時が止まったかのような、美しい景色を……
「そういえばさっき、聖霊が舞い降りる条件があるって言ったけれど……知りたいなあ……」
「ああ。実際の出来事で話すか」 俺は簡単に 「千年以上昔、自然災害から大規模な疫病が蔓延し、多くの死者が出て……多くの場所が死者の怨念に包まれた時期があったそうだ」
「自然災害からの疫病……」
「その時『 聖女 』と謳われた高司祭リオテールが最大の奇跡の術を使ったんだ」
「最大の奇跡……」
「ああ『 聖霊降臨 』という奇跡の超魔法だ」
人や動植物には魂と霊がある。
魂は意志と生命力の根源であり、霊は心と魔法力の根源である。
そして聖霊は心と魔法力の塊……圧倒的な霊威、御霊みたまの存在で、それゆえに肉体の世界であるこの『 物質界 』には存在できない。だが聖霊の御霊を納める器、依り代が存在すれば、聖霊はその器に降臨することができ、様々な奇跡を与えることができる。
聖女リオテールは、自らを聖霊の依り代として、その奇跡の超魔法を使った。
そう、聖霊が世界に舞い降りる条件とは、聖職者を『 依り代 』とすることなんだ。
「当時、ここはただの岩山だったらしい。聖女はその岩山の頂上で、奇跡の超魔法を使ったんだ」
「そうなんだ……」
「聖女に降臨した聖霊ミシェリアは、数々の奇跡を用いて世界を救ったんだという」
「そうなんだ……」
聖女に降臨した慈愛の聖霊ミシェリアは、多くの人々を救って死者の怨念を清めてくれたらしい。
だが、聖霊の降臨にはもちろん『 条件 』と『 代償 』がある。
聖霊降臨の条件は、巨大な御霊を支えられる心と体という器が必要で……おそらく、俺ではできない。肉体的には条件を兼ね備えているだろうが、魔法の根源たる心が、聖霊の依り代になるには未熟すぎると思う。数分持つかどうか……
そして聖霊降臨の代償は、死だ。巨大な御霊を受け入れることで、心も肉体も壊れてしまうという。
聖女と呼ばれる存在でさえ、死は免れなかった……
「今、この聖地には聖女の再来とも謳われる司祭がいるらしいが……その方でもどうかな?」
「聖女の再来……」
「巫女と呼ばれているらしい。巫女アルシャーネ司祭」
「巫女……聖女の再来……そうなんだ……」
シスは目をキラキラさせて聖地を見つめている。くく、本当に彼女は表情が豊かで可愛いな……俺はシスを見ている方が楽しいよ。
「人では支えきれない聖霊の力の凄さが分かる。慈愛の聖霊がこの世界から去った後も、この地一帯は聖なる力に包まれていて……感じるだろ?」
「うん……凄く清廉で……優しい力が感じられるわ……」
そう、聖地へ近づくにつれ心が洗われるような清廉な気とともに、包み込まれるような優しさの溢れる気が、修道院から放たれていることが分かる。ここが『 聖地 』と『 聖霊に守られた地 』と言われるゆえんでもある。
「そういえばコックリ。聖地が見えてきたら仮説を話してくれるって言ってたっけ?」
「ああそうだったな。もし、清廉な気に溢れる聖地で怪異が起こったのならばと仮説を三つ考えていた」
「三つ?」
「ああ。一つは最悪のパターンで……」 俺は修道院を見つめた 「聖地が聖地でなくなった……清廉な気がなくなった場合だ」
聖地に力がなくなったなら、それは通常と同じ地になったということ……それならば怪異も起こり得る。だがこの考えは非常に恐ろしいものだった。聖地はこの世界で唯一、聖霊に守られた安息の地だ。だからこそその力を失ったことを知った人々は、どれほど打ちひしがれるだろうか……
「うん、それは最悪よね……清廉な気がなくなったなんて。でも、しっかりと清廉な気を感じるわ……」
「ああ。修道院が見えたとき力を感じて、俺はホッと胸をなでおろしたよ……まあ、その前に街道で巡礼者たちが聖地は不思議な力で満ちていた、と話していたから、大丈夫かなとは思っていたんだが」
「ああ~、何かうなってたよね。巡礼者たちの話を聞いて」
「ああ。なので残りの二つの仮説を考えていてな」
「うん。残りの仮説は?」
「まず一つは、聖地は聖地でも『 聖地の近く 』ということじゃないかって」
「ああ~なるほど。聖地の近く……確かにそれなら、聖地の力が届かなくて怪異が発生するっていうのはあるかも」
「ああ。そして最後の一つは……」
「最後の一つは?」
「聖地の力を上回る力……常識を超えた力で怪異が起こっている……」
「聖地の力を……上回る……常識を超えた……力……」
「そうじゃないといいんだが……」
思い悩む俺に、シスは笑顔を見せた。
「大丈夫だよ!」
「ん?」
「そんな常識を超えた力が働いていたら、それこそ巡礼者の皆さんが気がつくでしょ?」
「ああ……ああ、そうだな……」
俺は考え込んだ。
そう、聖地の力を上回る力で巻き起こっているなら……巡礼者たちもさすがに気づき、騒ぐはずだよな……とその時……
「ていっ!!」 バシャッ!
「うわあっ!!?」
突然! 俺の顔に海水がかかった!
ぶわあっ! 海水が目に入った! いってえーーーっ!!
「うふふ! ていっ! ていっ! てい~~っ! うふふふっ!」 バシャッバシャッ!
シスが嬉しそうに笑いながら、バシャバシャ海水をかけてきた!
コラァッ! シスは俺が手甲をして海に手を入れられないと知っているから、容赦なく、加減なく、一方的に海水を浴びせてくる! というか、こんな子供っぽいことするなんて、絶対彼女は精神年齢十五~六歳だろ?
「おいおーい! 何しっぶわあっ! しょっぱ!」
「えへへへっ! ていっ! ていっ!」 バシャシャッ!
「ぺっぺっ! ちょっ……待……」
「ていっ! てい~~~っっ!! きゃっきゃ、きゃっきゃ!」 バッシャ! バッシャ!
「こんにゃろーっ!」
俺は腰に差した剣を、鞘を付けたまま引き抜くと、浴びせられた海水を鞘で弾き飛ばした。
パパパンッッ!!
シスが掬い浴びせた海水は、中空で霧散する。
「はっ!? はわわっ!?」
「ふふふん」
「て、ていっ! てい~~~っっ!!?」
パパパパンッッ!!
「はわっ!?」 シスは海水に手を入れた状態で固まった。
「くっくっく。神殿騎士にそんな攻撃が届くとでも?」
「は、はわわ……はわわわ……」 シスは笑顔から一転、青ざめ始めた。
「くっくっく。さーて、お仕置きの時間です」 俺は片方の口許を上げた。
「は、はわわ……はわわわ……」 シスはガクガクブルブルしはじめ……え、そ、そんなに……怖い?
「さ、さあ……さあ、シスが、ぶわぁっ!」
突然、真後ろから後頭部に海水がかかった!
何でっ!?
ああ! 水の精霊魔法だ!
おいおーい! 水の精霊魔法を使うのは反則だろっ!?
「きゃっきゃ、きゃっきゃ!」
大喜びのシスを見て、俺はやめようかと思っていたお仕置きを迅速に開始した。
「こんにゃろー!」
「はわああぁ!?」
俺はシスが最も悦び、最も困る行動を、流れるような動きで迅速にとった。
俺は、シスをお姫様抱っこしたんだ。シスは瞬く間に顔が真っ赤になった!
「は、はわぁっ! はわぁっ! ゃっ、ぃゃあっ!」 シスはじたばた始めた。
「わはは、このままで行くよ!」 ザブザブザブザブッ!
「ゃ……ゃぁっ! ぃゃぁっ! いやあっ!」 じたばたじたばた
「わははは」 ザッブ! ザッブ! ザッブ! ザッブ!
「ご、ごめんなさい~! ごめんなさい~っ!!」
「わはははははっ」
「降ろして~~~っ!! 降ろしてえ~~~っっ!!」
「あーーっはっはっはっはっはっ!!」
モン・サン・ミシェリアまではあと一キロ……このままで連れて行ってやる!
シスは俺の腕の中で、真っ赤になって……切れ長の目にいっぱい涙をためて、懇願するような上目遣いで俺を見つめる。ムチャクチャ可愛い! ああ、透き通るような白い脚が目の前にあって、太陽の光に輝いて見える……ぐうぅーっ!
「お願い~~! お願い~~~っ! お、降ろしてえぇ~~っっ!!」 シスは俺のサーコートを握りしめる。
「ふふ……ローマリアの俺の家で、よくやったろ?」
「~~~~っっ!!」 顔が赤黒くなってきた。
「毎晩こうやってベッドま」
「ういいいいい~~~~っっっ!!!」
シスは頭を抱えて、顔を俺のサーコートにうずめて叫んだ。
ああー、シスの頭に巻いたストールから盛大に、樹木の癒される香りが発せられて……湯気が立ってる! 凄いな、まるでスチームのようだ。
ふふ。恥ずかしいかもしれないけれど……
これも想い出として……
俺が死んでからも、たまには想い出してくれな……
なかなか目的地に着かず……もう少々です