16 宿屋の早朝
■システィーナの視点
目を覚ますと、天井が朧気に浮かび上がる……
見覚えのない、天井……
木の板の天井……
ここ……どこだっけ……?
まだ薄暗い……
夜明けの三十分前くらい……
ベッドに横たわりながら視線を巡らせれば、薄暗い室内にぼうっと滲むように、調度品の輪郭や柱のシルエットが浮かび上がってくる……
ああそうか……ここは……聖地の宿屋……
フカフカのベッドに体を預け、少しの間、微睡む……
至福の時……
隣からは健やかな寝息……
私の方に顔と大きな体を向けて眠るコックリの寝息……
ふふ、可愛い……あどけない寝顔……
光る海から帰って以来、彼はいつも私の方に向いて眠る。私の髪から香る樹木の香りで落ち着くんだって……ふふ、でも最初の頃は私の方がなかなか寝付けなかったなあ……緊張して緊張して寝付けなかったなあ……
でも嬉しい……良かった……
伸びたアゴ髭を触ると、柔らかくてちょっと気持ちいい。ふふふ……
秋らしく、朝晩はちょっと肌寒い。
私は彼を起こさないよう、静かにベッドを下りる。床には絨毯が敷いてあるので温かくて、歩く音がしなくていいな……調度品に当たらないよう、慎重に歩いてコックリの後ろ側へ……
そこには窓……馬蹄形の窓……
窓際に置かれた椅子に座って、夜明けを待つ……
ふふ、四百年近く続く、私の日課……
窓の外は……ああ、暗い……
犇めくような建屋だから……ここは最上階の四階だからまだわずかに明るく感じるけれど、下を眺めれば闇の道が続いている。あの人々の喧騒が嘘のよう……そう、まるで海の底にいるような、暗闇と静けさ……
ああ、でもその闇の道の中に、動いている影が……
人影……
宿や食堂の従事者たち……
宿も食堂も、朝の仕込があるのね……なるべく音を立てないよう、食材を運んだりしている。ああ、この宿で受付をしてくれた娘さんも食材を入れた箱を運んでいるわ……ご苦労様……
空を見上げると、犇めく建屋の屋根の隙間に紫がかった空が……
薄い赤とも、青とも言えない不思議な色……
夜明けまで、あと少しね……
そして、紫色の空の中に、美しい黒いシルエット……
天に伸びあがるような黒いシルエットが……
「モン・サン・ミシェリア修道院……」
私は小さくつぶやいた。
シルエットのそこかしこに、儚げな灯火が瞬く……ああ、きっと修道僧たちが、入所者への奉仕活動を行っているのね……こんなに朝早くから……なんて素晴らしい人たちなんだろう……
けれど……
そんな素晴らしい人たちがいる場所でも、怪異が起こるなんて……改めて怪異への憤りを感じる。必ず解決しなくては……膝をたてて頬を乗せる。冷たい膝小僧が、暖かくなる……
でも……
あの驚異の建屋で起こっている怪異……いったい、なんなんだろう……?
「清廉な聖霊の力が満ちる地で、穢れた魂の世界と繋がる……」
常識から考えると、本当にあり得ない……
いったい、何が起こっているんだろう……?
いったい……何が……
「……………………」
その時。
「おはよう……」
いつの間にか、こちら側に体を向けて横になっていたコックリが言った。優しいまなざしで、もう一度「おはよう」と言った。
「うん、おはよう」 私は膝を下ろして座り直した。「ゴメン……起こしちゃった?」
「いや……」 彼は大きな逆三角形の体をノソリと起こした。ああ本当に大きくて……いいなあ。「寒くない?」
「ふふ、大丈夫」
彼はベッドの端に腰かけると両手で目をゴシゴシした。
うふふ、仕草がまだまだ子供よね……でも……本当に凄い体……
大きな体……
胸板が厚くって、脇の筋肉が凄くって、でも腰はキュッとしてて、肩の筋肉も盛り上がって、二の腕も太くって……うう〜……
ギュウってしたい……
ギュウってされたい……
でも……
でも今はダメだ……怪異が優先だ……
「ねえ、コックリ?」
「うん?」
「この修道院で起きてる怪異って、何なのかな? 他に類似の怪異ってあったのかしら?」
「うん……それなんだが……」 コックリは頭をワシワシと掻いてから言った。「ない……ないんだ……過去にこのような怪異は……」
ない……過去に類似の怪異は、ない……
神殿騎士は過去の怪異情報を全て共有化し、記憶しているという。そして研究によって究明された魔物やその特性、さらには様々な病や毒、あるいは魔法の根源『霊力』が宿った様々なアイテムなども記憶し、それらが怪異に影響していないか照らし合わせるんだとか……
その彼が「ない」という……
類似の怪異は「ない」という……
「これは勘だが……」 彼は前置きして言った。「この怪異は、聖地の特性が生んだ、極めて稀な怪異なんだと思う」
「聖地の特性が生んだ……極めて稀な……」
その時、窓から明るい光が射し込んできた。
夜明けだ……
「おお……」
コックリの感嘆のため息につられ、彼の視線の先を追った私も「わあ……」と感嘆のため息をついた。
彼の視線の先。
爽やかな太陽の日射しを受ける修道院があった。
その修道院がキラキラと輝いているの……
修道院全体が朝露に濡れているのか……露でキラキラと……
青い屋根も、屋根を取り巻く尖塔も、天に延び上がるような鐘楼の塔も、朝日を浴びて煌めいている……
「綺麗……」
「ああ……」
言葉もなく、修道院を見上げる……と、コックリが囁いた。
「早く解決しような……」
「うん……」
早くも5月終わりですね




