14 看護房(居室)
■システィーナの視点
堅く厚そうな樫の木で作られた扉が開かれる。看護房への扉が。
ギギイイイイ……
開かれた先には、廊下が続いていた。縦長の窓が並ぶ廊下が……
ああ、明るい。当然か。廊下の先まで、窓がたくさん並んでいるんだもん。ここにくる前の、荘厳だけれど暗い廊下とは全然違う。入所施設だから、明るくするためなのかしら。窓は廊下の左側に並んでいて、右側には扉がたくさん並んでいる。たぶんこの扉が、入所者が暮らすお部屋なのね。
ああ残念。廊下の先の方まで、居室の扉は閉ざされていて。
残念だ。とても興味があったから。入所者への献身とはどんなことをしているのか……。エルフの社会にはそのような施設はないから、人が作り出した病療修道院がどんなことをしているのかずっと、ずっと興味があって……コックリの生まれ育った修道院に行ってから、ずっと、ずっと。
ちょっとだけ扉を開けて中を窺おうかな、と思ったらコックリとアルシャーネさんが歩き始めた。ああもう……どうやら二階に行くみたい。
私はコックリの後に続いて静かな看護房を歩く。
と、扉の前を通ると微かな、微かな「声」が聞こえてきた。「あーー」とか「おーー」とか……え? え? 何だろう?
「コックリ、聞こえる? この声……何? 怪異に関係ある?」
「いや、これはたぶん」
「大丈夫ですシスティーナさん。この声は精神の病と戦う方の声です」
「精神……?」
コックリの代わりにアルシャーネさんが答えた。
精神を病んだ人や歳を重ねて脳の機能が衰えてしまった人などは、このようにずっと声を発していることがあるんだとか。起きている間、ずっと絶えることなく。そうなんだ、エルフはほぼ老いないし、精神を病む者もいなかったから知らなかったな……
そのまま廊下の中間あたりまで歩くと居室と居室の間に階段があった。人が歩くことで磨かれた艶やかな階段が。階段は幅広で一段一段が低いのは、入所者が上り下りしやすいようにかしら。
ああ踊り場のステンドグラスが凄い。吹き抜けになっていて大きなステンドグラスがあるの。聖霊ミシェリアが人々に奇跡を伝えるシーン……幻想的な美しいシーンが描かれてあって、陽の光に燦然と輝いて踊り場に色とりどりの光を落としている。石造りの中の華やかな階段……
その階段を登りきると、左右に廊下が。なるほど一階から三階まで、中央の階段を基点に左右に居室があるのね。とアルシャーネさんが左側へ歩き出したんだけれど……私は右側の居室の扉が開いていることに気づいたの。
中からは何か語りかけるような優しい声が……いる。修道僧が。
私はどうしても中を窺いたい想いに抗えず、コックリたちから離れて扉の中をそっと覗いた……
ああ横に長い部屋だ。
石造りの居室はウナギの寝床のように横に長い部屋で、ベッドが五床並んでいるのが見えた。そのベッドには足をこちら側に向けて五人の患者が横たわっている。ベッドとベッドの間には、申し訳程度の仕切り布が、入所患者たちのスペースを隔てていて、その一つのベッドで若い修道僧が患者の体を拭いている。
「……」
修道僧は私に気づくことなく看護に勤しんでいる。
患者に優しく声をかけながら、その体を横向きにして、優しく優しく背中を拭いて上げている。寝たきりの患者なんだろうか、床擦れができているようで、そこに薬を塗りながら丁寧に丁寧に拭き上げていく。腕、背中、腰、お尻、足、丹念に丹念に。患者をいたわりながら……
その修道僧は……とても小柄で。
恐らくまだ十五~六歳。あどけなさの残る少女だ……
ああ……
私は……私は、心に押し寄せる様々な想いに、必死に耐えていた。
いくつもいくつも、様々な想いが押し寄せる。その想いに、胸が熱くなり、目頭が熱くなって……体が熱くなって……色々、言い表したいことがあるのに、感情が言葉にできない。
人はなんて……
人は、なんて……
とその時、温かい大きな波動が私を包み込んだ。
「システィーナ様……」いつの間にか、すぐ隣には心配そうな表情のアルシャーネさんがいて、コックリもまたその後ろで私を見ている。「いかが……なさいました?」
「ご、ごめんなさい。勝手な行動を……」私はストールを目深にかぶると、目をこすった。「ぐすっ、何で涙が……自分でも分からなくって……」
「シス」
コックリは、私に起こっていることが分かっていると思う。
もしかしたら私以上に、私の心の中を。だから怒りもせず、待ってくれていて……
その時、ふと私の手に触れるものがあった。
アルシャーネさんの手だ。温かくて柔らかな手。ストールを目深にかぶって分からないけれど、アルシャーネさんは何も言わずに私を見守ってくれているようで……温かな波動が私を包み込む。
ああ温かい。
陽だまりの中にいるような心地よさ。私はその波動で落ち着くことができて、心の中に去来する様々な感情を一つずつ整理することができた。そしてただ一つ……この心を表せる言葉を、ただ一つ思いつくことができた。
もう涙はない……私はストールを戻してアルシャーネさんを見た。
「ありがとうございます、アルシャーネ様」
「いえ」アルシャーネさんは優しい微笑みで私に言った。「よろしければ、聞かせてくださいますか?」
私はコックリを見た。
彼は「少しの間ならいいよ」というように頷いた。
私は頭を覆っていたストールを下ろして、長い耳をあらわにした。アルシャーネさんが息を飲んで、大きな黒い瞳をさらに大きくした。
「分かったんです。人は……」私はまたあの修道僧を見て言った。「なんて素晴らしいんだろうって……」
そう、人はなんて素晴らしいんだろう。私は話し始めた。
四百年生きたエルフの社会では、ここにいる入所患者のような弱者は存在しない。人とは異なる種族である妖精ゆえか生まれながらの病を持って生まれる者はいない上、長命で、若い時代が千年以上ある種族だ。生まれながらに健常を約束され、生まれながらに長命を約束され、何でも挑戦することができる……恵まれた種族だ。
でも人は……この短命な種族は……この修道僧たちは……
短い輝かしい若者の時代に、弱い者を、他者を支えるために人生を費やし、捧げている。
誰かのために、懸命に……
私はもう、私はもう……
「素晴らしくて、素晴らしくて……」
「ぐすっ、システィーナさん……」
ああ、どうしたことだろう。
今度はアルシャーネさんが涙ぐんでいる。でも嬉しそう。嬉しいから涙が出てくるような、そんな感じで……私、そんなに素晴らしいことを言ったわけじゃ……。もしかしたらアルシャーネさんは以前何かがあったのかも?
私がアルシャーネさんの背中に手を当てると、彼女は涙をぬぐいながら微笑んで……か、可愛い……! ああ、意外。聖女の再来って言われているのに、普通の女の子みたい! その後アルシャーネさんは私に体を寄せて……かか、可愛い! 彼女は涙を拭いて微笑んだ。
「ふふ、ありがとうございます」とアルシャーネさん、可愛い。
「いいえ、私の方こそ」
「システィーナさんは妖精だったんですね……私、生まれて初めて妖精に出会えました。通りで美しいはずですね」
「あ、ありがとうございます。でも、アルシャーネさんの方こそ美しいです。神秘的な美しさだと思います!」
「うふふ、そうですか? ありがとうございます」
「ホ、ホントですよ?」
「うふふ、信じます」 アルシャーネさんは微笑んだ。「システィーナさん、事が落ち着いた暁には今度は私の話しも聞いてくださいますか?」
「もちろんです!」
二人でそう約束して笑いあう。
ああ〜可愛いなぁ、微笑むと幼女のよう! ふと気がつくとコックリが腕を組んだまま壁にもたれていてうつむいている。あ、怒ってる!?
「あっ、コックリ。ごめんなさい!」
「そうでした。申し訳ございません、神殿騎士様」
「ああ、いや」 コックリは腕組みをやめた。「構いませんよ」
優しい微笑み。うん、怒ってない時の表情だ。良かった。
私が再びストールで頭と耳を隠すと、アルシャーネさんが少し残念そうな表情になったけれど、すぐに笑顔になって「後でまた見せてくださいね」と囁く。聖女の再来と謳われる方だけれど、案外普通の女性なのかも? そんなことを思っていると今度はコックリが近づいてきて、囁いた。はわわ。
「一刻も早く、怪異を解決してやろうな」
うん! そうだね、頑張ろう! 一刻も早く、解決しよう! 決意を新たにしていると、アルシャーネさんが扉をコンコンとノックしていた。
「ご苦労様です、ルミエール。少しいいかしら?」
「あっアルシャーネ様! はい大丈夫です」ルミエールと呼ばれた修道僧は、アルシャーネさんに声をかけられたためかとても嬉しそうな笑顔になった。そして次の瞬間悲鳴を上げて尻もちをついた。「ひっ!」
悲鳴を上げたのはコックリを見たからなの。こんなに驚かれたの初めて見た。ああ、本当にコックリは上半身が逆三角形で、体が大きいからオーガーみたいで怖いよねぇ。コックリは若い女性に怖がられたためか、あるいは過去にないほどの恐怖の表情と態度のためか、これ以上ないほど肩を落とした。ああもう、私は彼の腕を取って慰める。大丈夫よ、私は貴方の大きな体、大好きだから……
「ルミエール、安心して。この方は法王庁の神殿騎士コークリット様と、パートナーのシスティーナ様です」
「し、神殿っ!」
ルミエールさんの恐怖の表情が、驚きの表情へと変わった。その表情にコックリもまた少しホッとしたような顔になったので、私は少しヤキモチを焼いてしまった。だってそんな安堵の顔をするなんて、若い女の子からの誤解が解けたからでしょ? もう、私だけが貴方の良さを知っていればいいじゃない!
「ルミエール。あなたはモリアーネと同じ居室を担当していましたね。手が空いていたら、少しの間協力してほしいのです」
「は、はい! 承知しました!」
そうなんだ、ルミエールさんはモリアーネさんと同じ居室の担当だったのね。アルシャーネさんとルミエールさんを先頭に、私たちは静かな廊下を歩き始めた。とコックリが前を行く二人に声をかける。
「確か第一の怪異で行方不明になったモリアーネ修道僧は、二階の十一号室~二十号室を担当していたんでしたよね」
「はい、そうです」
「行方不明になった日、モリアーネ修道僧はどの部屋を看護していたか分かりますか?」
「モリアーネが看護していた部屋……」 ルミエールさんは考え込んだ。うう~ん、誰も目撃していないのが厄介よね。
「朝はどのような看護を行うんですか?」
「朝ですか?」 突然のコックリの質問に「寝たきりの方のおしめを替えたり、体位を変えたりします」
「部屋を回る順番はいかがですか?」
「だいたい近い順に回っていきます」
「では、あの朝誰の看護まで終わっていたでしょうか?」
「ああそうか……あれは確か……エマさんが終わって……十四号室までは終わっていたような気がします」
「十四号室……案内いただけますか?」
「承知しました」
十四号室。そこでモリアーネ修道僧が汚冥界に堕ちた可能性が高い。
可能性は高いけれど……それ以降はその部屋から誰も汚冥界に堕ちていないのよね。ということは汚冥界と繋がる扉、怨念は流動的に動いている、ということかしら? 通常、死者の怨念は死んだ場所や遺体のある場所に留まるものなんだけれど。戦場跡とかうち捨てられた墓所とか……うう~ん
と考えながら長い廊下を歩く。二階の廊下もたくさんの扉と窓が並んでいる。
その居室の扉の上にはナンバープレートがかかっていて、今は十号室の前……十一号室を通り……十二号室……十三号室……そして十四号室……ルミエールさんは止まった。
コンコンッ
ルミエールさんはノックをしてから扉を開けた。
ああ、明るい。この居室も一階と変わらない、横に長い五人部屋だ。縦長の窓が壁に均等に並んでいて、その窓と窓の間にベッドが置かれている。今ベッドには三人が横になっているようで、穏やかな寝息が聞こえてくる。あら、あと二人はいないのかしら……?
「立てる方はホールの方で休んでいることがあります」
「そうですか」 とコックリは周りを見渡した。「最後に看護したと思われるのはどなたですか?」
「はい、真ん中にいるエマさんです」
五つ並んだベッドの真ん中に寝息を立てる女性がいた。
この方がエマさん……年齢は六十過ぎかしら。生気のない表情で、半目を開けて何かを呟いている。ああ、この方も精神が……
「ふむ……」
とコックリはエマさんの様子を見てから周囲を観察した。
そうか、この人の周囲に汚冥界と繋がる扉がないか調べているのかも? 私も周囲を観察する。ふむふむ、ベッドの横には小さな荷物入れの引き出し棚があって……入居者の荷物が入っているんだろう、全員のベッドに棚がついている……
うう~ん、それ以外は特別なく……さらに私は両隣を観察した。
片方のベッドは空ね……どこかに行ってるのかしら?
もう片方は……ああ小さな女の子が横になっている。たぶん八歳くらいだろうか、とても可愛らしい女の子で。この少女も目が開いているんだけれど……目に光がなく、焦点があっていない。そうか、この部屋は皆、精神を病んでしまっている人の部屋なんだ……
だからこそ、汚冥界に堕ちた時の目撃者がいないのか……
「コックリ」
「ん?」
「ここにいる人達って、聖魔法で治せないの?」 私は少女を見て言った。「そう、聖魔法で治せたら、何かを目撃していないか聞き出せるかも、だし」
「う~ん、場合によっては治せることもあるんだが……」 コックリは難しそうな険しい表情になった。ああその表情も好きよ。「それでもちょっとな」
「駄目なの?」
「システィーナさん。精神を病んだ患者は大きく分けて三パターンあるんですが……」 アルシャーネさんが指折り説明してくれた。「そのうちの二つは魔法では治せず、もう一つは治せるけれど治さないんです」
「三パターン……治せるけれど治さない……」
そんなのがあるんだ。
とアルシャーネさんは話し始めた。
「聖魔法で治せない病の一つ目は生まれながらの心の病の場合。これは治せません」
「はい。それはその人に与えられた宿命だからですね」 コックリの故郷にいたマリアちゃんがそうだった。
「そうです。そして二つ目は老いによる脳の衰えです。これも治せません」
「ああそうですね。老いが原因でなった状態に聖魔法をかけても、年齢が若返るわけじゃないですもんね」
「そうです。そして三つ目は治せるけれどあえて治さない……心的外傷からくる心の病です」
「心的外傷からくる……心の病……?」
「そうです。例えば……」 とアルシャーネさんはエマさんの隣にいる少女を見た。「この少女、サマラちゃんと言いますが……」 サマラちゃんに近づくと優しく髪を撫でた。「彼女は魔物に襲われて、両親を目の前で……」
「ああ……そんな」
私は胸が締め付けられた。
こんなに可愛らしい女の子が目の前でご両親を……どれほど辛かっただろうか。だからこそ彼女は精神を……。幼い少女に起こった悲劇に胸が痛くなった。
「心に傷を負って、その大きな悲しみから逃れるために心を閉ざしたので……もし魔法で治すと」
「はい。また悲しみで心に傷を作ってしまう」
アルシャーネさんはこう続けた。意識を取り戻すことで残酷な現実にうちひしがれ、自殺をする人が後を絶たない。それゆえ、魔法で無理に治さないのだ、と。自然に目を覚ますのを待つしかない。
私は可愛らしい少女の髪を撫でて、いつか目を覚ましますように……と祈った。
「アルシャーネ司祭、ルミエール修道僧」コックリが静かに話しかけた。「質問してもよろしいですか?」
「はい、なんでしょうか」
「この部屋で怪異以前に新しく入ってきたモノはありませんか?」
「「え?」」 二人は再びキョトンとした。「新しく……入ってきた……モノ?」
私も「え?」と聞き返していた。新しく入ってきたモノ? 怪異以前に……入ってきた? 何それ?
「そうです。例えばベッドを新しくしたとか」
「ああなるほど。そうですね……」 アルシャーネさんは室内を見渡して、考え込む。室内にはベッド、簡素な棚と部屋の隅に看護用品を置くと思われるテーブル。「……そうですね」ルミエールさんも確認する。二人は同じ考えだったようで同時に頷いた。「いえ特には……」
「…………」コックリはアゴ髭を擦ったまま考え込んでいる。「そう……そうですか……」
コックリは「ここではないのか?」と呟く。
……何なのかしら?
ここではない?
気になる表現……ここではない?
……何か……心当たりがあるのかしら。
けれどそれを実証できるものがない……ということかしら?
何なのかしら……?
時間がかかりました。関西の支社は忙しくて……




