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第六話「田中」


 結菜が田中に初めて話しかけられたのは、三ヶ月前の昼休みだった。


 屋上に続く階段の踊り場に、一人で座っていた。本を読んでいた。誰もいない場所だった。意識して探した場所ではなかった。ただ、気づいたらそこにいた。昼休みのたびに、気づいたらそこにいた。クラスの輪に入れないわけではなかった。入ろうと思えば入れた。でも入ろうという気が、起きなかった。


 母が死んだのは六年前だった。


 そのとき結菜は十歳だった。十歳の結菜には、何が起きているのかよく分からなかった。分からないまま、葬式が終わり、学校が再開し、給食を食べ、宿題をして、眠った。泣いたか泣かなかったか、覚えていなかった。泣いた気もするし、泣かなかった気もした。


 父は仕事を続けた。帰ってきた。ごはんを作った。洗濯をした。結菜を学校へ送り出した。笑わなかったが、怒鳴りもしなかった。静かだった。どこか、遠かった。


 遠い父と、二人で暮らした。


 友達がいなかったわけではなかった。でも、深く話せる友達がいなかった。深く話そうとすると、どこかで止まった。母の話になりそうになると、止まった。父の話になりそうになると、止まった。その手前で、いつも話題を変えた。


 踊り場に一人でいる方が、楽だった。



 田中が来たのは、そういう午後だった。


 「ここ、いい?」


 振り返ると、知らない顔だった。同じ学年だと思ったが、クラスが違った。転校生だと後で知った。


 「いいよ」


 田中が隣に座った。しばらく黙っていた。結菜も黙っていた。気まずくなかった。不思議と、黙っていることが自然だった。


 「本、何読んでるの」


 「ミステリ」


 「面白い?」


 「まあまあ」


 また黙った。田中が空を見ていた。結菜も空を見た。曇っていた。


 「ここ、よく来るの」と田中が聞いた。


 「うん」


 「一人で?」


 「うん」


 「なんで」


 結菜は少し考えた。「なんか、一人の方が楽で」


 「そっか」田中が言った。批判も共感も、しなかった。ただ「そっか」と言った。


 その「そっか」が——良かった。


 「あなたは」と結菜は聞いた。「なんでここに来たの」


 「気になったから」


 「私が?」


 「うん。あなた、いつもここにいるじゃん。なんか、気になって」


 いつもここにいるじゃん。気になって。


 結菜は少し驚いた。気にしてもらっていたとは思っていなかった。踊り場に一人でいる自分を、誰かが見ていたとは思っていなかった。


 「見てたの」と結菜は言った。


 「うん」田中が微笑んだ。「なんか、ずっとそこにいるなと思って。気になって」


 ずっとそこにいるな、と思っていた。


 その言葉が——胸の中の何かに触れた。触れた感触があった。触れられた場所が、少し温かくなった気がした。


 「田中さんって言うんだ」と後で知った。「田中サキ」。


 その日から、昼休みに踊り場で会うようになった。



 田中との会話は、不思議だった。


 田中はほとんど、自分のことを話さなかった。家族のこと、好きなこと、嫌いなこと、どこから来たのか——聞いても、ほとんど出てこなかった。「あまり、話すことがなくて」と田中は言った。「特別なことが何もない」と。


 でも——結菜の話を、聞いた。


 よく聞いた。


 結菜が話すと、田中はただ聞いていた。相槌を打たなかった。「そうなんだ」も「大変だったね」も言わなかった。ただ、聞いていた。でもその聞き方が——聞いている、という感じがした。形だけではなく、本当に聞いている、という感じがした。


 そのうちに、結菜は話してしまった。


 母のことを。


 止まるはずの場所で、止まらなかった。話してしまった。十歳のときに母が死んだこと。どう悲しんでいいか分からなかったこと。父が遠くなったこと。二人でずっと、静かに暮らしてきたこと。


 田中は黙って聞いていた。


 話し終えたとき、田中が言った。


 「そっか。それで、ここにいるんだね」


 批判でも共感でもなかった。ただ、繋げた。結菜がここにいる理由と、今聞いたことを、繋げた。


 それが——正確だった。


 誰も言ってくれなかった言葉だった。でも、正確だった。


 「うん」と結菜は言った。


 それだけだった。


 でも何かが、少し、軽くなった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 13 田中サキ 観察記録(非公式)


対象:真壁結菜(16歳)

記録者:田中サキ

記録日:██月██日より継続


【初期評価】

 孤立しているが、孤立を望んでいる。ただし「望んでいる」と自覚していない。孤独に慣れているが、孤独に満足していない。その矛盾が、接触の入口になる。


【進捗】

 母の死について、自発的に話した。予定より早い。


 有効だったアプローチ:

 ・「そっか」だけで返す(批判も共感もしない)

 ・自分のことを話さない(相手の話を聞く場として機能させる)

 ・「気になって」という言葉(見ていた、という事実を伝える)


【現状の依存度】

 ・毎日会いたがっている

 ・会わないとざわつく、と本人が認識している

 ・深夜の電話に応じた(父親に気づかれた可能性あり)


【次のステップ】

 父親(真壁恒一)が距離を置くよう言った可能性あり。

 結菜が揺らいだとき、こちらから連絡しない。待つ。

 自分から来たとき、深める。


備考:

 真壁恒一は九条さんが対応中。父と娘を同時に進めている。

 どちらかが完成に近づくと、もう一方が引っ張られる。

 その連鎖が始まれば、止まらない。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 父に「距離を置いてみないか」と言われた夜、結菜は眠れなかった。


 眠れないのは田中のことが気になるからではなかった、と最初は思った。でも暗闘の中で考え続けて、分かった。田中のことが、気になっていた。


 距離を置く、という言葉の意味を考えた。毎日会わない。深夜に電話しない。踊り場に行かない。


 それを想像すると——ざわついた。


 ざわつくのは、依存しているからだ、と父は言いたいのだと思った。依存しているかもしれない。でも——依存と、つながっていること、は違うのか。


 つながっていることを、依存と呼ぶなら。


 誰かとつながっていることは、全部依存なのか。


 そうではないはずだった。でも、どこで線を引くのか、分からなかった。


 田中と話す前の自分を思い出した。踊り場に一人でいた。本を読んでいた。それで良かった。満足していた。


 でも今は——一人でいることが、前より寂しかった。


 田中と話した後から、一人でいることの寂しさが、変わった。


 変わったことは——良いことか、悪いことか。


 田中がいなければ、気づかなかった寂しさだった。だから田中が悪いのか。でも気づかなかっただけで、寂しさはずっとあった。ずっとあったものを見えるようにしてくれただけで、それが悪いことなのか。


 分からなかった。


 考えていると、スマートフォンが鳴った。


 田中だった。


 「眠れてる?」


 短いメッセージだった。それだけだった。


 なぜ知っているのか、と一瞬思った。でも偶然かもしれなかった。眠れない夜に、相手も眠れなかっただけかもしれなかった。


 「眠れない」と返した。


 「話す?」


 「うん」


 電話をした。


 田中の声は、静かだった。「どうしたの」


 「お父さんに、距離置けって言われた」


 「そっか」


 「田中さんは、どう思う」


 「私は——」田中が少し間を置いた。「結菜が決めることだと思う」


 「でも、田中さんの気持ちは」


 「私は、結菜と話せなくなるのは、寂しい」


 寂しい、と言った。


 田中が寂しいと言った。田中が、結菜のいない状態を、寂しいと感じている。


 その事実が——胸に来た。


 誰かが自分を必要としている、という感覚が、六年間なかった。父はいた。でも父は、何かを抱えたまま、遠かった。結菜を愛しているとは分かっていた。でも、必要としているかどうかは——分からなかった。


 田中が「寂しい」と言った。


 「私も」と結菜は言った。


 「じゃあ」と田中が言った。「どうするかは、結菜が決めれば、いい」


 決めれば、いい。


 決める権限を、渡した。強制しなかった。選ばせた。


 でも——選択肢は、実質一つだった。


 田中と話し続けるか、寂しくなるか。


 結菜はそれを選択と呼んでいいのか、分からなかった。


 「……また明日、話せる?」と結菜は言った。


 「うん」と田中が言った。


 電話が終わった。


 結菜はスマートフォンを置いた。暗い天井を見た。


 少し、落ち着いていた。


 落ち着いた、という事実を——どう解釈すべきか、分からなかった。


 でも落ち着いた。それだけは確かだった。


 眠れた。



 翌日、踊り場に行った。


 距離を置く、とは言わなかった。置けなかった。置く必要があるとは思うが、置けなかった。


 田中が来た。隣に座った。


 「昨夜、ありがとう」と結菜は言った。


 「ううん」と田中は言った。


 しばらく黙っていた。風が吹いた。空が曇っていた。


 「ねえ」と結菜は言った。


 「うん」


 「田中さんって——なんで私に話しかけたの。最初」


 田中が少し考えた。「なんかいたから」


 「いたから」


 「ずっとそこにいるな、と思って。気になって」


 「それだけ?」


 「それだけで、十分じゃないの」


 それだけで十分じゃないの。


 その言葉が——また、胸に来た。


 気になった。それだけで十分。理由が要らない。ただ気になったから、来た。


 「田中さんは、孤独じゃないの」と結菜は聞いた。


 田中が少し間を置いた。「孤独かどうか、よく分からない」


 「分からない?」


 「孤独に慣れると、孤独かどうか分からなくなる。孤独を孤独と感じなくなる」


 孤独に慣れると、孤独かどうか分からなくなる。


 その言葉を、結菜は頭の中で繰り返した。


 自分のことのようだった。六年間、一人でいることに慣れて、それが普通になっていた。だから孤独と思っていなかった。でも——田中と話すようになってから、六年間が孤独だったと、初めて感じた。


 「田中さんも、孤独だった?」


 「うん」田中が空を見た。「でも——見つけてもらえたから、今は少し違う」


 「誰に見つけてもらえたの」


 田中が少し微笑んだ。「色々な人に」


 「私も、田中さんに見つけてもらえた気がする」


 「そうだといいな」


 それだけだった。それだけの会話だった。


 でも結菜はその日、家に帰ってから、少しだけ泣いた。


 理由は分からなかった。


 ただ——六年ぶりに、泣けた。


 泣けた、ということが——何かの合図のような気がした。


 何の合図か、分からなかった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


FILE 14 田中サキ 観察記録②


対象:真壁結菜

記録日:██月██日


【今日の進捗】

 「見つけてもらえた気がする」という言葉が出た。


 予定通り。


 「孤独に慣れると孤独かどうか分からなくなる」——九条さんから受け取った言葉を、そのまま使った。本人から出た言葉のように聞こえるように。


 帰宅後、泣いた可能性がある(目が少し赤かった)。


 泣けた、ということは、何かが開いた、ということだ。六年間閉じていたものが、開き始めた。


 開いたものは、閉じにくい。


 次のステップ:

 父親との関係について、もう少し聞く。

 「お父さんも、最近変わった?」と聞いてみる。

 父と娘が同じ変化の中にいることを、結菜自身に気づかせる。


 気づかせる、だけでいい。

 気づいた結菜が、父に話す。

 話された父が、また揺れる。


 連鎖する。


備考:

 結菜は今夜、また電話してくるかもしれない。

 来たら、受ける。

 来なかったら、こちらからは連絡しない。

 来るまで、待つ。


 待つことが、一番効く。


異常は認められない。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


 その夜、結菜はリビングに来た。


 父が一人で座っていた。コーヒーを飲んでいた。テレビはついていなかった。


 「お父さん」


 「何だ」


 「最近、九条さんとよく会ってる?」


 父が少し間を置いた。「捜査の関係で会っている」


 「そっか」結菜が隣に座った。「なんか——お父さん、最近変わった気がして」


 「どう変わった」


 「穏やかになった。眠れてるみたいで。なんか、前より、ここにいる感じがして」


 ここにいる感じ。


 「ここにいる感じ、というのは」


 「前は、体はここにいても、どこか遠くにいた。でも最近は、ちゃんとここにいる気がして」


 真壁は結菜を見た。


 「それは——いいことだと思う」と結菜は言った。「でも、なんか気になって。なんで急に変わったのかな、と思って」


 「何かが変わったとすれば、仕事が少し落ち着いてきたのかもしれない」


 「そっか」結菜が少し間を置いた。「私もさ、田中さんと話してから、なんか変わった気がする。自分でも気づいてなかったこと、気づけるようになった気がして」


 「どんなこと」


 「孤独だったこと、とか」結菜が静かに言った。「六年間、孤独だったって、田中さんと話してから分かった。前は分からなかった。分からなかったから、つらくもなかった。でも今は分かる。分かると、つらい。でも——分かる方が、いい気がする」


 真壁は結菜を見た。


 「お父さんも、孤独だった?」


 真壁は少し間を置いた。「……そうかもしれない」


 「分かってた?」


 「分かっていなかったかもしれない」


 「誰かに話せた?」


 真壁は少し黙った。「最近、少し話せるようになった」


 「九条さんに?」


 答えなかった。答えないことが、答えだった。


 結菜が頷いた。「じゃあ——私と田中さんも、同じかもしれない」


 真壁は何も言えなかった。


 「同じかもしれない、ということは——どういう意味だ」


 「お父さんが九条さんに話せるようになったのと、私が田中さんに話せるようになったのが、同じかもしれない、ということ」


 「……そうかもしれない」


 「じゃあ、どっちも——悪いことじゃないのかな」


 真壁は答えられなかった。


 答えたかった。悪いことだ、と言いたかった。構造が違う、と言いたかった。でも——言えなかった。


 言えない理由が、分かっていた。


 自分が九条と会うことを、悪いことだと断言できなかったから。断言できないから、結菜にも言えなかった。


 「……気をつけろ」と真壁はやっと言った。


 「うん」と結菜は言った。「お父さんも」


 結菜が立ち上がった。部屋に戻っていった。ドアが閉まった。


 真壁は一人になった。


 コーヒーが冷めていた。飲んだ。苦かった。


 結菜の言葉が、頭の中で鳴っていた。


 「どっちも悪いことじゃないのかな」


 悪いことか、悪くないことか——真壁には、もう判断できなかった。


 判断できなくなっていた。


 「まだなかにいる」が鳴った。


 今夜の声は——二重に聞こえた気がした。


 自分の頭の中と、廊下の向こうから。


 同時に、二つ。


 真壁は立ち上がった。廊下に出た。暗かった。誰もいなかった。


 でも今夜は——確認したのではなかった。


 聞きたかった。


 もう一度、聞きたかった。


 二重に聞こえた、あの声を。


 廊下は静かだった。


 真壁はしばらく立っていた。


 声は来なかった。


 来ない、ということが——今夜だけは、寂しかった。



 翌朝、結菜は学校に行った。


 踊り場に行った。田中がいた。


 「昨夜、泣いた?」と田中が聞いた。


 「なんで分かるの」と結菜は言った。


 「目が、少し違う」


 「……泣いた。理由は分からなかったけど」


 「泣けたなら、いいことだと思う」


 「そう?」


 「泣けないより、泣ける方が、体が正直だと思う」


 体が正直。結菜はその言葉を繰り返した。


 「お父さんとも、話した?」


 「うん。少し」


 「どうだった」


 「なんか——お父さんも同じかな、と思って」


 「同じ?」


 「私が田中さんに話せるようになったのと、お父さんが九条さんに話せるようになったのが、同じかな、と」


 田中が少し間を置いた。「九条さんって」


 「お父さんが仕事で会ってる人。心理士の人」


 「そっか」田中が空を見た。「お父さんも、変わってるんだね」


 「変わってる。穏やかになった。でもなんか、心配で」


 「なんで心配なの」


 結菜は少し考えた。「うまく言えないけど——お父さんが変わっていくのが、なんか、怖い。自分が変わっていくのは、あんまり怖くないのに」


 「自分が変わるのは怖くないのに、お父さんが変わるのは怖い」田中が繰り返した。「それって——お父さんのことが、心配だから」


 「そう、なのかな」


 「お父さんのことが好きだから、心配なんじゃないの」


 好きだから、心配。


 当たり前のことだった。でも言われるまで気づかなかった。六年間、父と暮らしていた。遠かった。でも好きではないとは思っていなかった。ただ——好きだと、言葉にしたことがなかった。考えたこともなかった。


 「……そうかも」と結菜は言った。


 「じゃあ、お父さんに言えばいいんじゃないの」


 「何を」


 「心配してる、ってこと。好きだってこと」


 結菜は少し黙った。「六年間、言ったことなかった」


 「じゃあ、今がいいんじゃないの」


 今がいい。


 今がいい、と田中は言った。なぜ今なのか、田中は説明しなかった。でも——今がいい、という言葉は、正確な気がした。


 なぜ正確な気がするのか、結菜には分からなかった。


 「今日、言ってみる」と結菜は言った。


 「うん」と田中は言った。微笑んだ。「言えるといいね」



 その夜。


 結菜は夕食を食べながら、父の顔を見た。


 穏やかだった。コーヒーを飲みながら、何かを考えていた。遠くを見ていた。でも前とは違う遠さだった。前は、ここにいない遠さだった。今は——どこか別のところを見ている遠さだった。ここにいながら、どこかを見ている。


 「お父さん」


 「何だ」


 「心配してる」


 父が結菜を見た。「何を」


 「お父さんのことを」


 父が少し間を置いた。「なぜ」


 「なんか——変わってるから。穏やかになってる。眠れてる。それは良いことだと思う。でも——誰かに引っ張られて変わってるのか、自分で変わってるのか、が分からなくて」


 父が黙った。


 「引っ張られてるなら——どこへ引っ張られるのか、が心配で」


 父がコーヒーを置いた。「……そうか」


 「お父さんは——大丈夫?」


 「大丈夫だ」


 「本当に?」


 「……分からない」


 父が「分からない」と言った。


 結菜は少し驚いた。父は「分からない」と言う人ではなかった。いつも、何かを断言した。断言できなくても、断言した。それが父だった。


 でも今夜は「分からない」と言った。


 「分からないなら——」結菜は少し間を置いた。「私に言っていいよ。分からないって」


 父が結菜を見た。


 「六年間、言わせてなかったかもしれない。分からないとか、つらいとか。お父さんがずっと強くいようとしてたから。私も、言えなかった。でも——言っていいと思う。お父さんが」


 父の顔が、少し動いた。


 何かが崩れそうになって、でも崩れなかった。崩れなかったが、動いた。


 「……ありがとう」と父は言った。


 それだけだった。


 でもその「ありがとう」は——六年間で、一番重かった。


 結菜は頷いた。夕食を食べ続けた。父も食べ続けた。


 話は続かなかった。でも、続けなくてよかった。


 言えた。それだけで、良かった。



 夜、自分の部屋に戻ってから、結菜は田中にメッセージを送った。


 「言えた」


 すぐに返信が来た。


 「よかった」


 それだけだった。でも結菜は、それで十分だった。


 スマートフォンを置いた。布団に入った。


 暗い天井を見た。


 「言えた」という言葉が、頭の中で温かかった。


 眠れた。


 深く、眠れた。


 夢を見た。踊り場にいた。田中がいた。父がいた。母がいた。


 母は笑っていた。


 結菜は、夢の中で、その笑顔を見た。


 六年ぶりだった。


 泣かなかった。ただ見た。見ていた。


 目が覚めたとき、頬が濡れていた。


 でも——寂しくなかった。


⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿


九条玲司 業務日誌(センター保管)


██月██日


 田中から報告が来た。


 結菜が父に「心配してる」「分からないなら言っていい」と伝えた。父が「分からない」と言えた。


 父と娘の間に、六年ぶりに言葉が通った。


 その言葉を通したのは、田中だった。田中を動かしたのは、私だった。


 結菜は田中に感謝している。父に言えた自分を、田中のおかげだと思っている。


 田中は私が動かしている。


 つまり——結菜が父に言えた言葉は、私が作った言葉だ。


 父と娘の間に流れた、六年ぶりの言葉が——私の設計による言葉だ。


 二人は知らない。


 知らないまま、感動している。感動した記憶として、残る。その記憶は本物だ。感動は本物だ。


 でも——その感動を作ったのは、私だ。


 作られた感動は、本物か。


 どちらでもいい。


 作られたかどうかは関係ない。感じた、という事実が残る。その事実が、二人を動かし続ける。


 真壁は今夜、結菜の言葉で揺れた。揺れると、確認したくなる。確認するために、私に会いに来る。


 来る。


 もう少しで——深いところに届く。


 まだなかにいる。


 まだ。


 もう少し。


異常は認められない。


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