第六話「田中」
結菜が田中に初めて話しかけられたのは、三ヶ月前の昼休みだった。
屋上に続く階段の踊り場に、一人で座っていた。本を読んでいた。誰もいない場所だった。意識して探した場所ではなかった。ただ、気づいたらそこにいた。昼休みのたびに、気づいたらそこにいた。クラスの輪に入れないわけではなかった。入ろうと思えば入れた。でも入ろうという気が、起きなかった。
母が死んだのは六年前だった。
そのとき結菜は十歳だった。十歳の結菜には、何が起きているのかよく分からなかった。分からないまま、葬式が終わり、学校が再開し、給食を食べ、宿題をして、眠った。泣いたか泣かなかったか、覚えていなかった。泣いた気もするし、泣かなかった気もした。
父は仕事を続けた。帰ってきた。ごはんを作った。洗濯をした。結菜を学校へ送り出した。笑わなかったが、怒鳴りもしなかった。静かだった。どこか、遠かった。
遠い父と、二人で暮らした。
友達がいなかったわけではなかった。でも、深く話せる友達がいなかった。深く話そうとすると、どこかで止まった。母の話になりそうになると、止まった。父の話になりそうになると、止まった。その手前で、いつも話題を変えた。
踊り場に一人でいる方が、楽だった。
*
田中が来たのは、そういう午後だった。
「ここ、いい?」
振り返ると、知らない顔だった。同じ学年だと思ったが、クラスが違った。転校生だと後で知った。
「いいよ」
田中が隣に座った。しばらく黙っていた。結菜も黙っていた。気まずくなかった。不思議と、黙っていることが自然だった。
「本、何読んでるの」
「ミステリ」
「面白い?」
「まあまあ」
また黙った。田中が空を見ていた。結菜も空を見た。曇っていた。
「ここ、よく来るの」と田中が聞いた。
「うん」
「一人で?」
「うん」
「なんで」
結菜は少し考えた。「なんか、一人の方が楽で」
「そっか」田中が言った。批判も共感も、しなかった。ただ「そっか」と言った。
その「そっか」が——良かった。
「あなたは」と結菜は聞いた。「なんでここに来たの」
「気になったから」
「私が?」
「うん。あなた、いつもここにいるじゃん。なんか、気になって」
いつもここにいるじゃん。気になって。
結菜は少し驚いた。気にしてもらっていたとは思っていなかった。踊り場に一人でいる自分を、誰かが見ていたとは思っていなかった。
「見てたの」と結菜は言った。
「うん」田中が微笑んだ。「なんか、ずっとそこにいるなと思って。気になって」
ずっとそこにいるな、と思っていた。
その言葉が——胸の中の何かに触れた。触れた感触があった。触れられた場所が、少し温かくなった気がした。
「田中さんって言うんだ」と後で知った。「田中サキ」。
その日から、昼休みに踊り場で会うようになった。
*
田中との会話は、不思議だった。
田中はほとんど、自分のことを話さなかった。家族のこと、好きなこと、嫌いなこと、どこから来たのか——聞いても、ほとんど出てこなかった。「あまり、話すことがなくて」と田中は言った。「特別なことが何もない」と。
でも——結菜の話を、聞いた。
よく聞いた。
結菜が話すと、田中はただ聞いていた。相槌を打たなかった。「そうなんだ」も「大変だったね」も言わなかった。ただ、聞いていた。でもその聞き方が——聞いている、という感じがした。形だけではなく、本当に聞いている、という感じがした。
そのうちに、結菜は話してしまった。
母のことを。
止まるはずの場所で、止まらなかった。話してしまった。十歳のときに母が死んだこと。どう悲しんでいいか分からなかったこと。父が遠くなったこと。二人でずっと、静かに暮らしてきたこと。
田中は黙って聞いていた。
話し終えたとき、田中が言った。
「そっか。それで、ここにいるんだね」
批判でも共感でもなかった。ただ、繋げた。結菜がここにいる理由と、今聞いたことを、繋げた。
それが——正確だった。
誰も言ってくれなかった言葉だった。でも、正確だった。
「うん」と結菜は言った。
それだけだった。
でも何かが、少し、軽くなった。
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FILE 13 田中サキ 観察記録(非公式)
対象:真壁結菜(16歳)
記録者:田中サキ
記録日:██月██日より継続
【初期評価】
孤立しているが、孤立を望んでいる。ただし「望んでいる」と自覚していない。孤独に慣れているが、孤独に満足していない。その矛盾が、接触の入口になる。
【進捗】
母の死について、自発的に話した。予定より早い。
有効だったアプローチ:
・「そっか」だけで返す(批判も共感もしない)
・自分のことを話さない(相手の話を聞く場として機能させる)
・「気になって」という言葉(見ていた、という事実を伝える)
【現状の依存度】
・毎日会いたがっている
・会わないとざわつく、と本人が認識している
・深夜の電話に応じた(父親に気づかれた可能性あり)
【次のステップ】
父親(真壁恒一)が距離を置くよう言った可能性あり。
結菜が揺らいだとき、こちらから連絡しない。待つ。
自分から来たとき、深める。
備考:
真壁恒一は九条さんが対応中。父と娘を同時に進めている。
どちらかが完成に近づくと、もう一方が引っ張られる。
その連鎖が始まれば、止まらない。
異常は認められない。
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父に「距離を置いてみないか」と言われた夜、結菜は眠れなかった。
眠れないのは田中のことが気になるからではなかった、と最初は思った。でも暗闘の中で考え続けて、分かった。田中のことが、気になっていた。
距離を置く、という言葉の意味を考えた。毎日会わない。深夜に電話しない。踊り場に行かない。
それを想像すると——ざわついた。
ざわつくのは、依存しているからだ、と父は言いたいのだと思った。依存しているかもしれない。でも——依存と、つながっていること、は違うのか。
つながっていることを、依存と呼ぶなら。
誰かとつながっていることは、全部依存なのか。
そうではないはずだった。でも、どこで線を引くのか、分からなかった。
田中と話す前の自分を思い出した。踊り場に一人でいた。本を読んでいた。それで良かった。満足していた。
でも今は——一人でいることが、前より寂しかった。
田中と話した後から、一人でいることの寂しさが、変わった。
変わったことは——良いことか、悪いことか。
田中がいなければ、気づかなかった寂しさだった。だから田中が悪いのか。でも気づかなかっただけで、寂しさはずっとあった。ずっとあったものを見えるようにしてくれただけで、それが悪いことなのか。
分からなかった。
考えていると、スマートフォンが鳴った。
田中だった。
「眠れてる?」
短いメッセージだった。それだけだった。
なぜ知っているのか、と一瞬思った。でも偶然かもしれなかった。眠れない夜に、相手も眠れなかっただけかもしれなかった。
「眠れない」と返した。
「話す?」
「うん」
電話をした。
田中の声は、静かだった。「どうしたの」
「お父さんに、距離置けって言われた」
「そっか」
「田中さんは、どう思う」
「私は——」田中が少し間を置いた。「結菜が決めることだと思う」
「でも、田中さんの気持ちは」
「私は、結菜と話せなくなるのは、寂しい」
寂しい、と言った。
田中が寂しいと言った。田中が、結菜のいない状態を、寂しいと感じている。
その事実が——胸に来た。
誰かが自分を必要としている、という感覚が、六年間なかった。父はいた。でも父は、何かを抱えたまま、遠かった。結菜を愛しているとは分かっていた。でも、必要としているかどうかは——分からなかった。
田中が「寂しい」と言った。
「私も」と結菜は言った。
「じゃあ」と田中が言った。「どうするかは、結菜が決めれば、いい」
決めれば、いい。
決める権限を、渡した。強制しなかった。選ばせた。
でも——選択肢は、実質一つだった。
田中と話し続けるか、寂しくなるか。
結菜はそれを選択と呼んでいいのか、分からなかった。
「……また明日、話せる?」と結菜は言った。
「うん」と田中が言った。
電話が終わった。
結菜はスマートフォンを置いた。暗い天井を見た。
少し、落ち着いていた。
落ち着いた、という事実を——どう解釈すべきか、分からなかった。
でも落ち着いた。それだけは確かだった。
眠れた。
*
翌日、踊り場に行った。
距離を置く、とは言わなかった。置けなかった。置く必要があるとは思うが、置けなかった。
田中が来た。隣に座った。
「昨夜、ありがとう」と結菜は言った。
「ううん」と田中は言った。
しばらく黙っていた。風が吹いた。空が曇っていた。
「ねえ」と結菜は言った。
「うん」
「田中さんって——なんで私に話しかけたの。最初」
田中が少し考えた。「なんかいたから」
「いたから」
「ずっとそこにいるな、と思って。気になって」
「それだけ?」
「それだけで、十分じゃないの」
それだけで十分じゃないの。
その言葉が——また、胸に来た。
気になった。それだけで十分。理由が要らない。ただ気になったから、来た。
「田中さんは、孤独じゃないの」と結菜は聞いた。
田中が少し間を置いた。「孤独かどうか、よく分からない」
「分からない?」
「孤独に慣れると、孤独かどうか分からなくなる。孤独を孤独と感じなくなる」
孤独に慣れると、孤独かどうか分からなくなる。
その言葉を、結菜は頭の中で繰り返した。
自分のことのようだった。六年間、一人でいることに慣れて、それが普通になっていた。だから孤独と思っていなかった。でも——田中と話すようになってから、六年間が孤独だったと、初めて感じた。
「田中さんも、孤独だった?」
「うん」田中が空を見た。「でも——見つけてもらえたから、今は少し違う」
「誰に見つけてもらえたの」
田中が少し微笑んだ。「色々な人に」
「私も、田中さんに見つけてもらえた気がする」
「そうだといいな」
それだけだった。それだけの会話だった。
でも結菜はその日、家に帰ってから、少しだけ泣いた。
理由は分からなかった。
ただ——六年ぶりに、泣けた。
泣けた、ということが——何かの合図のような気がした。
何の合図か、分からなかった。
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FILE 14 田中サキ 観察記録②
対象:真壁結菜
記録日:██月██日
【今日の進捗】
「見つけてもらえた気がする」という言葉が出た。
予定通り。
「孤独に慣れると孤独かどうか分からなくなる」——九条さんから受け取った言葉を、そのまま使った。本人から出た言葉のように聞こえるように。
帰宅後、泣いた可能性がある(目が少し赤かった)。
泣けた、ということは、何かが開いた、ということだ。六年間閉じていたものが、開き始めた。
開いたものは、閉じにくい。
次のステップ:
父親との関係について、もう少し聞く。
「お父さんも、最近変わった?」と聞いてみる。
父と娘が同じ変化の中にいることを、結菜自身に気づかせる。
気づかせる、だけでいい。
気づいた結菜が、父に話す。
話された父が、また揺れる。
連鎖する。
備考:
結菜は今夜、また電話してくるかもしれない。
来たら、受ける。
来なかったら、こちらからは連絡しない。
来るまで、待つ。
待つことが、一番効く。
異常は認められない。
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その夜、結菜はリビングに来た。
父が一人で座っていた。コーヒーを飲んでいた。テレビはついていなかった。
「お父さん」
「何だ」
「最近、九条さんとよく会ってる?」
父が少し間を置いた。「捜査の関係で会っている」
「そっか」結菜が隣に座った。「なんか——お父さん、最近変わった気がして」
「どう変わった」
「穏やかになった。眠れてるみたいで。なんか、前より、ここにいる感じがして」
ここにいる感じ。
「ここにいる感じ、というのは」
「前は、体はここにいても、どこか遠くにいた。でも最近は、ちゃんとここにいる気がして」
真壁は結菜を見た。
「それは——いいことだと思う」と結菜は言った。「でも、なんか気になって。なんで急に変わったのかな、と思って」
「何かが変わったとすれば、仕事が少し落ち着いてきたのかもしれない」
「そっか」結菜が少し間を置いた。「私もさ、田中さんと話してから、なんか変わった気がする。自分でも気づいてなかったこと、気づけるようになった気がして」
「どんなこと」
「孤独だったこと、とか」結菜が静かに言った。「六年間、孤独だったって、田中さんと話してから分かった。前は分からなかった。分からなかったから、つらくもなかった。でも今は分かる。分かると、つらい。でも——分かる方が、いい気がする」
真壁は結菜を見た。
「お父さんも、孤独だった?」
真壁は少し間を置いた。「……そうかもしれない」
「分かってた?」
「分かっていなかったかもしれない」
「誰かに話せた?」
真壁は少し黙った。「最近、少し話せるようになった」
「九条さんに?」
答えなかった。答えないことが、答えだった。
結菜が頷いた。「じゃあ——私と田中さんも、同じかもしれない」
真壁は何も言えなかった。
「同じかもしれない、ということは——どういう意味だ」
「お父さんが九条さんに話せるようになったのと、私が田中さんに話せるようになったのが、同じかもしれない、ということ」
「……そうかもしれない」
「じゃあ、どっちも——悪いことじゃないのかな」
真壁は答えられなかった。
答えたかった。悪いことだ、と言いたかった。構造が違う、と言いたかった。でも——言えなかった。
言えない理由が、分かっていた。
自分が九条と会うことを、悪いことだと断言できなかったから。断言できないから、結菜にも言えなかった。
「……気をつけろ」と真壁はやっと言った。
「うん」と結菜は言った。「お父さんも」
結菜が立ち上がった。部屋に戻っていった。ドアが閉まった。
真壁は一人になった。
コーヒーが冷めていた。飲んだ。苦かった。
結菜の言葉が、頭の中で鳴っていた。
「どっちも悪いことじゃないのかな」
悪いことか、悪くないことか——真壁には、もう判断できなかった。
判断できなくなっていた。
「まだなかにいる」が鳴った。
今夜の声は——二重に聞こえた気がした。
自分の頭の中と、廊下の向こうから。
同時に、二つ。
真壁は立ち上がった。廊下に出た。暗かった。誰もいなかった。
でも今夜は——確認したのではなかった。
聞きたかった。
もう一度、聞きたかった。
二重に聞こえた、あの声を。
廊下は静かだった。
真壁はしばらく立っていた。
声は来なかった。
来ない、ということが——今夜だけは、寂しかった。
*
翌朝、結菜は学校に行った。
踊り場に行った。田中がいた。
「昨夜、泣いた?」と田中が聞いた。
「なんで分かるの」と結菜は言った。
「目が、少し違う」
「……泣いた。理由は分からなかったけど」
「泣けたなら、いいことだと思う」
「そう?」
「泣けないより、泣ける方が、体が正直だと思う」
体が正直。結菜はその言葉を繰り返した。
「お父さんとも、話した?」
「うん。少し」
「どうだった」
「なんか——お父さんも同じかな、と思って」
「同じ?」
「私が田中さんに話せるようになったのと、お父さんが九条さんに話せるようになったのが、同じかな、と」
田中が少し間を置いた。「九条さんって」
「お父さんが仕事で会ってる人。心理士の人」
「そっか」田中が空を見た。「お父さんも、変わってるんだね」
「変わってる。穏やかになった。でもなんか、心配で」
「なんで心配なの」
結菜は少し考えた。「うまく言えないけど——お父さんが変わっていくのが、なんか、怖い。自分が変わっていくのは、あんまり怖くないのに」
「自分が変わるのは怖くないのに、お父さんが変わるのは怖い」田中が繰り返した。「それって——お父さんのことが、心配だから」
「そう、なのかな」
「お父さんのことが好きだから、心配なんじゃないの」
好きだから、心配。
当たり前のことだった。でも言われるまで気づかなかった。六年間、父と暮らしていた。遠かった。でも好きではないとは思っていなかった。ただ——好きだと、言葉にしたことがなかった。考えたこともなかった。
「……そうかも」と結菜は言った。
「じゃあ、お父さんに言えばいいんじゃないの」
「何を」
「心配してる、ってこと。好きだってこと」
結菜は少し黙った。「六年間、言ったことなかった」
「じゃあ、今がいいんじゃないの」
今がいい。
今がいい、と田中は言った。なぜ今なのか、田中は説明しなかった。でも——今がいい、という言葉は、正確な気がした。
なぜ正確な気がするのか、結菜には分からなかった。
「今日、言ってみる」と結菜は言った。
「うん」と田中は言った。微笑んだ。「言えるといいね」
*
その夜。
結菜は夕食を食べながら、父の顔を見た。
穏やかだった。コーヒーを飲みながら、何かを考えていた。遠くを見ていた。でも前とは違う遠さだった。前は、ここにいない遠さだった。今は——どこか別のところを見ている遠さだった。ここにいながら、どこかを見ている。
「お父さん」
「何だ」
「心配してる」
父が結菜を見た。「何を」
「お父さんのことを」
父が少し間を置いた。「なぜ」
「なんか——変わってるから。穏やかになってる。眠れてる。それは良いことだと思う。でも——誰かに引っ張られて変わってるのか、自分で変わってるのか、が分からなくて」
父が黙った。
「引っ張られてるなら——どこへ引っ張られるのか、が心配で」
父がコーヒーを置いた。「……そうか」
「お父さんは——大丈夫?」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「……分からない」
父が「分からない」と言った。
結菜は少し驚いた。父は「分からない」と言う人ではなかった。いつも、何かを断言した。断言できなくても、断言した。それが父だった。
でも今夜は「分からない」と言った。
「分からないなら——」結菜は少し間を置いた。「私に言っていいよ。分からないって」
父が結菜を見た。
「六年間、言わせてなかったかもしれない。分からないとか、つらいとか。お父さんがずっと強くいようとしてたから。私も、言えなかった。でも——言っていいと思う。お父さんが」
父の顔が、少し動いた。
何かが崩れそうになって、でも崩れなかった。崩れなかったが、動いた。
「……ありがとう」と父は言った。
それだけだった。
でもその「ありがとう」は——六年間で、一番重かった。
結菜は頷いた。夕食を食べ続けた。父も食べ続けた。
話は続かなかった。でも、続けなくてよかった。
言えた。それだけで、良かった。
*
夜、自分の部屋に戻ってから、結菜は田中にメッセージを送った。
「言えた」
すぐに返信が来た。
「よかった」
それだけだった。でも結菜は、それで十分だった。
スマートフォンを置いた。布団に入った。
暗い天井を見た。
「言えた」という言葉が、頭の中で温かかった。
眠れた。
深く、眠れた。
夢を見た。踊り場にいた。田中がいた。父がいた。母がいた。
母は笑っていた。
結菜は、夢の中で、その笑顔を見た。
六年ぶりだった。
泣かなかった。ただ見た。見ていた。
目が覚めたとき、頬が濡れていた。
でも——寂しくなかった。
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九条玲司 業務日誌(センター保管)
██月██日
田中から報告が来た。
結菜が父に「心配してる」「分からないなら言っていい」と伝えた。父が「分からない」と言えた。
父と娘の間に、六年ぶりに言葉が通った。
その言葉を通したのは、田中だった。田中を動かしたのは、私だった。
結菜は田中に感謝している。父に言えた自分を、田中のおかげだと思っている。
田中は私が動かしている。
つまり——結菜が父に言えた言葉は、私が作った言葉だ。
父と娘の間に流れた、六年ぶりの言葉が——私の設計による言葉だ。
二人は知らない。
知らないまま、感動している。感動した記憶として、残る。その記憶は本物だ。感動は本物だ。
でも——その感動を作ったのは、私だ。
作られた感動は、本物か。
どちらでもいい。
作られたかどうかは関係ない。感じた、という事実が残る。その事実が、二人を動かし続ける。
真壁は今夜、結菜の言葉で揺れた。揺れると、確認したくなる。確認するために、私に会いに来る。
来る。
もう少しで——深いところに届く。
まだなかにいる。
まだ。
もう少し。
異常は認められない。




