第九話:仁義なき部屋割り論争
公平な勝負。
今夜の寝床についての俺の提案に対し、カエデは怪訝そうな顔を向けた。
彼女はテーブルの上に置かれたコップを手に取り、水を一口含んでから、静かに口を開く。
「……公平、ですか。貴方の口からその言葉が出ると、裏があるようにしか思えません」
「おいおい、人聞きが悪いな。俺はいつだって平和主義者だぞ」
「平和主義者が、力ずくで解決しようとするものですか?」
「力じゃない。運だ」
俺は右手を軽く掲げてみせた。
「じゃんけんだよ」
カエデが瞬きをした。
拍子抜けしたような、それでいて呆れたような表情だ。
「……じゃんけん、ですか」
「ああ。これなら文句ないだろ? 魔力も体力も関係ない。純粋な確率の勝負だ」
彼女は少しの間、考え込むように視線を落とした。
この屋敷での生活を快適なものにするためには、拠点の確保が重要だ。特に、彼女のような几帳面な人間にとって、自分のテリトリーがどうなるかは死活問題に関わる。
「……いいでしょう。受けて立ちます」
カエデは顔を上げ、挑戦的な眼差しを俺に向けた。
「ただし、条件があります。まずは現物を見てからにしましょう。争っている『主寝室』が、本当に争う価値があるものなのかを確認する必要があります」
「異議なし」
俺たちは立ち上がり、食後の運動がてら二階へと向かうことにした。
ピカピカに磨かれた階段を上り、廊下を進む。
突き当たりにある豪奢な両開きの扉。
それが、この屋敷で最も格の高い部屋、主寝室への入り口だ。
俺がドアノブに手をかけ、押し開く。
中に入った瞬間、俺たちは揃って感嘆の息を漏らした。
「……おお」
「これは……」
広い。
とにかく広い。
教室二つ分はありそうな空間に、王様が寝るような天蓋付きのベッドが鎮座している。
床にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、壁際には座り心地の良さそうなソファセットや、書き物に適した立派な机が配置されていた。
奥にはガラス戸があり、専用のバルコニーへと続いている。
月明かりが差し込み、部屋全体を神秘的な雰囲気で満たしていた。
カエデが部屋の中を歩き回り、鋭い視線でチェックを始める。
「日当たり、通気性ともに良好。収納スペースも十分。何より、この机……屋敷全体の管理業務を行うには最適な広さです」
彼女は机の天板を指でなぞりながら、満足げに頷いた。
「やはり、私がここを使うべきですね。家事全般の指揮を執る司令塔として、この部屋はうってつけです」
「いやいや、待てよ」
俺はふかふかのベッドに腰を下ろし、マットレスの弾力を確かめた。
「この極上の寝心地は、一日の疲れを癒やすためにこそあるんだ。俺は何もしたくない。ただ寝たい。そのための最高の環境がここにある。つまり、俺のための部屋だ」
「貴方はどこでも寝られるでしょう? 廊下の隅でも十分なはずです」
「ひどい言い草だな。俺だって人間だぞ。安眠の権利がある」
俺たちは互いに譲らず、火花を散らした。
どちらも引く気はない。
こうなれば、予定通り決着をつけるしかない。
「よし、じゃんけんだ。一発勝負でいいな?」
俺は右手の拳を前に突き出した。
カエデもまた、覚悟を決めたように向き合う。
「望むところです。……負けても泣かないでくださいね」
「そっちこそな」
静まり返った主寝室に、緊張が走る。
俺は相手の手元をじっと見た。
カエデは賢い。
きっと、俺の性格を読んでくるはずだ。
『天道くんは面倒くさがりだから、指を開く動作すら惜しんでグーを出す』とか、そんなことを考えているに違いない。
あるいは、それを読んで俺がパーを出すと予測し、チョキを出してくるか?
いや、彼女の性格なら、正々堂々と受けて立つふりをして、手堅い手を打ってくるはずだ。
……まあ、考えても無駄か。
俺には『天運』がある。
適当に出せば、勝手に勝つようになっているんだ。
「いくぞ」
「はい」
俺たちは同時に声を張り上げた。
「「最初はグー!」」
二人の拳が空気を切る。
呼吸を合わせ、タイミングを計る。
「「じゃん、けん……」」
俺は何も考えず、ただ指を開くイメージを持った。
カエデの指がどう動くかなんて関係ない。
俺が勝つ。それだけが決まっている事実だ。
「「ぽい!」」
勢いよく突き出された二つの手。
俺の手は、五本の指を大きく広げた『パー』。
カエデの手は、固く握りしめられた『グー』。
紙が石を包み込む。
勝負ありだ。
「……あ」
カエデが小さな声を上げ、自分の手と俺の手を見比べた。
信じられない、といった顔をしている。
「……負け、ましたか」
「へっ、見たか。俺の勝ちだ」
俺は高らかに勝利宣言をした。
やはり、運は俺の味方だ。
カエデは悔しそうに唇を噛み、肩を落とした。
「……読みが外れました。貴方は単純だから、何も考えずにグーを出すと思っていたのに」
「残念だったな。俺はいつだって予測不可能だ」
「……約束は守ります。この部屋は、貴方のものです」
カエデは潔く負けを認めた。
名残惜しそうに部屋を見回してから、出口へと向かおうとする。
その背中は、どこか寂しげだった。
俺は勝ち誇った気分で、改めて自分のものになった部屋を見渡した。
広い。
本当に広い。
天井も高いし、装飾も豪華だ。
俺はベッドに大の字になって寝転がってみた。
……うん?
なんだろう、この感覚。
落ち着かない。
天井が高すぎて、なんだかスースーする。
それに、部屋が広すぎて、ベッドの周りがスカスカだ。
まるで体育館の真ん中に布団を敷いて寝ているような、頼りない気分になってくる。
俺は起き上がり、部屋の隅にあるドアを見た。
トイレに行くためのドアだ。
……遠い。
ベッドからあそこまで、何歩あるんだ?
夜中に目が覚めて、寝ぼけた頭でトイレに行こうとしたら、途中で家具に足をぶつけるかもしれない。
それに、掃除だ。
今はカエデが綺麗にしてくれたからいいが、これからは俺がこの部屋の主だ。
自分の部屋くらい自分で掃除しろと、彼女に言われるのは目に見えている。
この広大な床面積を、俺が一人で?
窓ガラスを拭いて、シャンデリアの埃を払って?
……無理だ。
絶対に無理だ。
三日でゴミ屋敷になる自信がある。
俺のモットーは『楽をする』ことだ。
なのに、この部屋に住むことは、逆に『手間を増やす』ことになるんじゃないか?
管理の手間、移動の手間、寒さ対策の手間。
豪華さと引き換えに、失うものが多すぎる。
俺はベッドから飛び起きた。
そして、部屋を出ようとしていたカエデに声をかけた。
「おい、待てよカエデ」
彼女が足を止め、振り返る。
「……なんですか? さらに追い打ちをかけるつもりですか?」
「いや、違う。……やっぱり、やめた」
「はい?」
カエデが首を傾げた。
「この部屋、お前にやるよ」
「……はあ?」
彼女の目が点になった。
意味が分からない、という顔だ。
「な、何を言っているんですか? 貴方が勝ったんですよ? しかも、あんなに主張していたじゃないですか」
「いやあ、実際に寝転がってみたらさ、なんか違ったんだよ」
俺は頭をかきながら、正直に理由を話した。
「広すぎて落ち着かないんだ。天井も高くて寒いし。それに、トイレまで遠いのが致命的だ」
「……それだけですか?」
「あと、掃除が面倒くさそうだった」
俺が言うと、カエデはポカンと口を開けた。
そして、次第にその表情が呆れへと変わっていく。
「……貴方という人は、本当に……」
「だから、お前に譲る。お前なら、この部屋を綺麗に保てるし、管理業務もやりやすいだろ?」
「それは、そうですが……」
カエデは戸惑いながらも、視線はすでに部屋の中へと向けられていた。
その瞳には、隠しきれない期待の色が浮かんでいる。
「本当に、いいんですか? 後で返せと言っても知りませんよ?」
「言わないって。俺はもっと、こぢんまりとした部屋がいい」
俺は主寝室を出て、すぐ隣にあるドアを開けた。
そこは、八畳ほどの広さの部屋だった。
南向きの窓があり、月明かりが優しく差し込んでいる。
ベッドと小さな棚があるだけの、シンプルな空間。
だが、俺にはこれくらいが丁度いい。
「うん、ここだ。ここにする」
俺は部屋に入り、くるりと見回した。
ベッドからドアまで三歩。
窓までも三歩。
全てが手の届く範囲にある安心感。
これこそが、俺の求める『巣』だ。
「……物好きな人ですね」
カエデが後ろから覗き込み、くすりと笑った。
「せっかく広い部屋を、掃除が面倒という理由で手放すなんて」
「広い部屋なんて面倒なだけだ。俺は普通の感じでいい」
「ふふ。分かりました。では、お言葉に甘えて、主寝室は私が頂戴します」
カエデの声は弾んでいた。
彼女にとっても、願ってもない展開だったはずだ。
これで彼女は、思う存分この屋敷の管理に専念できる。
「その代わり、私の部屋ですから、私のルールに従ってもらいますよ。入室の際はノックをすること。汚れた服でベッドに座らないこと」
「はいはい、分かったよ」
俺は適当に返事をした。
やれやれ、管理者が張り切るとろくなことがない。
だがまあ、彼女が機嫌よくやってくれるなら、それが一番だ。
「じゃあな。おやすみ」
「はい。おやすみなさい、天道くん」
カエデは嬉しそうに主寝室へと消えていった。
ドアが閉まる直前、彼女が小声で「さて、まずは机の配置を……」と呟いているのが聞こえた。
今夜は忙しくなりそうだ。
俺は自分の部屋のドアを閉めた。
カチャリ、と音がして、世界から切り離される。
静かだ。
窓の外から、虫の鳴き声がかすかに聞こえてくるだけ。
俺はベッドに倒れ込んだ。
主寝室のものほど高級ではないかもしれないが、十分に柔らかく、清潔なシーツの匂いがする。
カエデの魔法のおかげだ。
「……ふあぁ」
大きなあくびが出た。
今日は長い一日だった。
異世界に召喚され、追放され、ここまでやってきた。
とんでもない災難だと思っていたが、終わってみれば、案外悪くない一日だったかもしれない。
風呂に入って、美味い飯を食って、こうしてふかふかのベッドで眠れる。
それだけで十分だ。
俺は枕に顔を埋めた。
意識が急速に遠のいていく。
明日のことは、明日考えればいい。
俺の運があれば、きっとなんとかなる。
そう確信しながら、俺は深い眠りへと落ちていった。




