第十話:書斎の知識と開拓都市の地図
チュンチュン、という小鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。
俺はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井……ではなく、昨日から見慣れ始めた、白い天井だった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の中を明るく照らしている。
体を起こすと、ベッドのスプリングが小さく軋んだ。
大きく伸びをする。
体の節々がパキパキと鳴るが、痛みはない。
それどころか、全身に活力がみなぎっているのを感じる。
昨日の強行軍と大掃除の疲れは、ふかふかのベッドと静かな環境のおかげで、嘘のように消え失せていた。
「……最高だな」
俺は独り言を漏らした。
王城の冷たい石畳の上で寝かされそうになったり、囚人用の馬車に詰め込まれそうになったりしたことが、まるで遠い昔の出来事のように思える。
ここは俺の部屋だ。
いや、正確には俺とカエデの洋館にある部屋だ。
誰にも邪魔されず、誰にも命令されず、好きな時に起きて好きなことをする。
これこそが、俺の求めていた理想の生活だ。
俺はベッドから降り、窓を開けた。
森の朝の空気が流れ込んでくる。
ひんやりとしていて、草木の匂いが混じった新鮮な空気だ。
深呼吸を一つして、俺は部屋を出た。
廊下は静まり返っている。
隣の主寝室――今はカエデの部屋――の扉はまだ閉じられたままだ。
彼女もまだ夢の中なのだろうか。
昨日は遅くまで部屋のレイアウトを考えていたようだし、無理もない。
俺は音を立てないように階段を降り、一階のリビングへと向かった。
昨日の掃除のおかげで、床も手すりもピカピカだ。
朝日を受けて輝く廊下を歩いていると、自分がどこかの貴族になったような気分になってくる。
リビングの扉を開ける。
そこには、すでに先客がいた。
「おはようございます、天道くん」
カエデが、ダイニングテーブルに座って優雅に紅茶を飲んでいた。
彼女の前には、分厚い手帳とペンが置かれている。
服装はすでに着替えており、髪も整えられている。
爽やかな朝の光の中で微笑む彼女は、深窓の令嬢といっても通用しそうな雰囲気を漂わせていた。
「……おはよう。早いな」
「目が覚めてしまったので。ここの朝は気持ちがいいですね。空気も美味しいですし」
カエデは満足そうに目を細めた。
どうやら彼女も、この屋敷での目覚めにご満悦のようだ。
「朝飯はどうする? まだ昨日の肉が残ってるだろ?」
俺が聞くと、カエデの表情が少し曇った。
彼女はカップをソーサーに置き、小さくため息をつく。
「ええ、残っています。冷蔵庫で保存していますから、品質にも問題はありません。ただ……」
「ただ?」
「味が、単調すぎます」
カエデは真剣な顔で言った。
「昨日は空腹と興奮で気になりませんでしたが、冷静になって考えると、使える調味料が少なすぎます。塩と、庭で採れた数種類のハーブだけ。これでは、料理のバリエーションが広がりません」
確かに、昨日の料理は美味かったが、毎食あれだと飽きるかもしれない。
俺たちは現代日本で、豊かな食文化に浸ってきた人間だ。
醤油、味噌、マヨネーズ、ケチャップ。
それらが恋しくなるのは時間の問題だろう。
「それに、主食がありません。お米とは言いませんが、せめてパンや麺類が欲しいところです。あの黒い岩のような保存食を食べる気にはなれませんし」
カエデが視線を向けた先には、テーブルの隅に追いやられたリュックサックがあった。
中には、城から支給された黒パンが入っているはずだ。
あれを食べるくらいなら、森の木の実をかじった方がマシだというのは、二人の共通認識だった。
「言われてみればそうだな。快適な寝床と風呂は手に入れたけど、食生活はまだサバイバルレベルか」
「食だけではありません。日用品も不足しています」
カエデは手帳を開き、書き込んだリストを指差した。
「石鹸、シャンプー、洗剤、トイレットペーパー、タオル、着替え……。昨日は屋敷に残っていたものを浄化して使いましたが、消耗品はいずれ底をつきます。特にトイレットペーパーがないのは、文明人として死活問題です」
うっ。
それは痛い指摘だ。
今は魔法の水で洗浄しているからいいようなものの、紙がないというのは精神的にくるものがある。
異世界スローライフを楽しむためには、最低限のインフラだけでなく、消耗品の安定供給が不可欠だ。
「となると、買い出しに行かないといけないわけだが……」
俺は思案する。
「金が、ないんだよな」
そう。
俺たちは一文無しだ。
城を追い出される時、手切れ金どころか路銀の一枚も渡されなかった。
この屋敷にある調度品は高そうだが、それを勝手に売るわけにもいかないし、そもそもどこで売ればいいのかも分からない。
「はい。資金不足です。これが最大の懸念事項です」
カエデも厳しい顔で頷く。
「このままでは、私たちはジリ貧です。森の恵みだけで生きていくのも不可能ではありませんが、豊かな生活とは程遠いものになるでしょう」
「それは困る。俺は楽をするためにここにいるんだ。原始的な生活に戻るつもりはない」
「同感です。私も、清潔で文化的な生活を維持したい」
二人の利害は一致した。
必要なのは、物資とお金。
そして、それらを手に入れるための情報だ。
「まずは、ここがどこなのか、近くに人が住んでいる場所があるのかを知る必要があるな」
俺は言った。
森の入り口まで戻れば王都への道はあるが、あそこまで戻るのに徒歩で何日かかるか分からないし、そもそも追放された身で王都に顔を出すのはリスクが高すぎる。
もっと近くに、手頃な村や町があればいいのだが。
「それなら、心当たりがあります」
カエデが手帳を閉じ、立ち上がった。
「書斎です。あそこには大量の本がありました。地理や歴史、この世界の常識について書かれた本もあるはずです」
「なるほど。知識の宝庫ってわけか」
「はい。朝食の前に、少し調べてみましょう。何か手掛かりが見つかるかもしれません」
俺たちはリビングを出て、一階の奥にある書斎へと向かった。
昨日の掃除で綺麗になった書斎は、朝の光が入って知的で落ち着いた空間になっていた。
壁一面の本棚には、革張りの背表紙がずらりと並んでいる。
「さて、と。どこから探すか」
俺は適当な棚の前に立った。
背表紙の文字を見る。
不思議なことに、見たこともない文字のはずなのに、意味が頭に入ってくる。
『アステリア公国法典』『魔導工学の基礎』『古代文明の興亡』……。
どれも堅苦しそうなタイトルばかりだ。
「天道くん、貴方はそっちの棚を見てください。私はこっちの地図や地理誌がありそうな棚を当たってみます」
カエデは手際よく指示を出し、自分は一番大きくて立派な本が並んでいる棚へと向かった。
彼女のこのテキパキとした態度は、クラス委員時代を思い出させる。
俺は「はいはい」と返事をして、言われた棚の本を適当に手に取った。
パラパラとめくってみる。
中には魔物の挿絵や、植物のスケッチが描かれている。
どうやら図鑑のようだ。
「お、このキノコ、食べられるのか……へえ、毒消し草ってこんな形なのか」
俺は情報の重要度よりも、見ていて面白いかどうかで本を選んでいた。
まあ、森で生活するなら、こういう知識も無駄にはならないだろう。
俺の『運』があれば、適当に開いたページに重要な情報が載っているかもしれないし。
一方、カエデは真剣そのものだった。
彼女は数冊の本を机に積み上げ、一冊ずつ丁寧に、しかし速読のように素早く目を通していく。
時折、「ふむ」「なるほど」と呟きながら、手帳にメモを取っている。
その集中力は凄まじい。
俺が口を挟む隙もないほどだ。
しばらくして、カエデが「あった!」と声を上げた。
「見つかりましたか?」
「ええ。これを見てください」
カエデが広げたのは、かなり古びた大きな地図だった。
羊皮紙のような素材に、インクで細かく地形が描かれている。
彼女が指差したのは、地図の端の方、深い緑色で塗られたエリアだ。
「ここが、私たちのいる『深き森』です。そして、この印が……おそらく、この屋敷です」
森の中に、小さな建物のマークがある。
確かに位置関係からして、ここだろう。
「で、ここから道が伸びています。南東の方角へ」
カエデの指が地図の上を滑る。
森を抜け、川を越えた先に、ひとつの都市のマークが描かれていた。
「『開拓都市フロンティア』……そう書かれています」
「フロンティア? なんか冒険心をくすぐる名前だな」
「名前の通り、未開の地を開拓するための拠点として作られた街のようです。解説によると……『魔境の素材が集まる交易の要衝』『一攫千金を夢見る冒険者たちの街』とあります」
カエデが解説文を読み上げる。
冒険者の街。
ファンタジーの王道だ。
王都のような堅苦しい場所ではなく、もっと自由で、活気がありそうな響きがある。
「距離はどれくらいだ?」
「縮尺から計算すると……徒歩で二時間、といったところでしょうか。十分、日帰りできる距離です」
「二時間か。散歩にはちょっと遠いが、買い出しなら許容範囲だな」
二時間なら、朝出て昼に街に着き、買い物をして夕方には帰ってこられる。
これは朗報だ。
陸の孤島だと思っていたが、意外と文明圏は近かったらしい。
「それに、ここには『冒険者ギルド』があるようです」
カエデの目がきらりと光った。
「冒険者ギルド?」
「はい。魔物の討伐や、素材の採取を依頼として仲介する組織です。ここでなら、森で手に入れたものを換金できるはずです」
なるほど。
資金源の問題が一気に解決しそうだ。
この森は『深き森』と呼ばれるだけあって、珍しい植物や魔物がいっぱいいる。
昨日俺が拾った権利書みたいなレアアイテムはそうそうないだろうが、食べられる木の実や、カエデが欲しがっていたハーブなどは売れるかもしれない。
「昨日のイノシシの牙とか、鳥の羽とかも売れるかもな」
「ええ。それに、薬草なども需要があるでしょう。図鑑で見た特徴と照らし合わせれば、採取も可能です」
カエデは手帳にさらさらと計画を書き込んでいく。
「まずは、この『フロンティア』へ行き、市場の調査と、換金ルートの確保を行うべきです。そして、必要な物資を購入して帰還する。これが当面の目標になります」
「異議なし。で、いつ行く?」
「善は急げ、です。今日これから行きましょう」
カエデの決断は早かった。
彼女は本を閉じ、立ち上がる。
「準備をします。持っていくものは、水筒と、採取用の袋。それと……」
彼女は俺の方を見た。
「天道くん、貴方のその服、少し目立ちませんか?」
俺は自分の服を見た。
日本の高校の制服だ。
ブレザーにスラックス。
確かに、異世界ファンタジーの街中でこれを着ていたら、浮きまくるだろう。
「私は異世界から来ました」と看板を背負って歩いているようなものだ。
王城では「召喚された者」として認識されていたから良かったが、一般の街では変な目で見られるか、最悪の場合、トラブルに巻き込まれるかもしれない。
「着替えた方がいいか。でも、持ってるのはこれとジャージくらいだぞ」
「屋敷のクローゼットに、ここにいた例の貴族が着ていた衣類が残っていました。サイズが合うか分かりませんが、それを借りましょう。洗濯して綺麗にしてありますから」
さすがカエデ、抜かりがない。
俺たちは一度部屋に戻り、着替えることにした。
カエデが用意してくれた服は、シンプルな麻のシャツと、丈夫そうなズボンだった。
少しサイズが大きい気もするが、ベルトで締めれば問題ない。
生地もしっかりしていて、森を歩くのには適していそうだ。
これなら、街の一般市民や冒険者に紛れても違和感はないだろう。
カエデもまた、動きやすそうなワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。
色は地味だが、彼女が着るとそれなりに上品に見えるから不思議だ。
手には、昨日拾った白い杖を持っている。
これが彼女の武器であり、身分証明代わりにもなるだろう。
「似合ってますよ、天道くん。少し育ちの良さそうな村人、といった感じです」
「村人かよ。まあ、勇者よりは気楽でいいや。お前も、どっかの商家の娘さんみたいだぞ」
「あら、褒め言葉として受け取っておきます」
俺たちは玄関ホールに集合し、装備を確認した。
リュックサックの中身は空にして、これから買う物資や、拾う素材を入れるためにスペースを空けてある。
準備は万端だ。
「よし、出発するか」
俺がドアを開けると、まぶしい日差しが差し込んできた。
今日はいい天気だ。
絶好の冒険日和と言えるだろう。
「行きましょう。私たちの新しい生活のために」
カエデが意気揚々と足を踏み出す。
俺もその後に続いた。
錆びついた門を抜けると、そこには鬱蒼とした森が広がっている。
だが、地図がある今、それは迷宮ではなく、ただの通り道だ。
俺たちは地図を頼りに、南東へと歩き始めた。
道なき道を進む。
カエデは杖を使い、器用に草をかき分けていく。
俺はというと、ポケットに手を突っ込んで、のんびりと歩いていた。
不思議なことに、俺が歩く場所だけ、木の根っこが引っ込んでいたり、棘のある植物が生えていなかったりする。
まるで自然が俺のために道を開けてくれているようだ。
「……貴方のその歩きやすそうなルート選び、本当に羨ましいです」
カエデが少し恨めしそうに言った。
彼女の足元には、時折小さな枝や石が転がっているようだ。
「運がいいだけだよ。こっちを歩けば?」
「いえ、結構です。貴方の後ろをついていくのは、なんとなく癪に障りますから」
彼女は強情に自分の道を進んでいく。
まあ、それも彼女らしい感じだと俺は思った。




