始まりの日 その5
本日も宜しくお願いします。
維の絶望を断ち切るように、一華は自らの左胸にそっと右手を当てた。高鳴る鼓動を抑えるように、一度、深く息を吸い込む。初めての実戦、初めての《実装》。その唇が、わずかに震えた。
「——よしっ」
覚悟を決めた彼女の瞳が、強く輝く。
「実装——【八咫鏡】!」
その言葉が引き金だった。
一華の胸の『聖痕』が爆発的な光を放ち、光の粒子が奔流となって彼女の背後へと集束していく。
闇を払う光の中、神聖な幾何学模様の魔法陣が展開され、その中心に一つの「物」が形作られていく。
光が収まった時、その背中に、太陽を模した巨大な円形の鏡が、後光のように静かに浮かんでいた。古びた黄金の縁には神代文字が刻まれ、磨き上げられた鏡面は、周囲の闇を吸い込むかのように深淵を湛えている。
呆然とそれを見上げていた一華が、素っ頓狂な声を上げた。
「これが、私の『神律武装』……? ……ホントに鏡なんだぁ」
どうやって戦えっていうのよ、と彼女が思ったのも束の間。
歪象が再び襲い掛かろうと空間を歪ませた瞬間、一華の脳裏に閃光が走った。
「——いや、分かる……!」
鏡でどうやって、じゃない。鏡だからこそできる。
この武装の使い方が、その力が、まるで最初から自分の身体の一部であったかのように、手に取るように理解できる!
彼女の瞳に、揺るぎない自信の光が灯った。
彼女が背後の【八咫鏡】に意識を向けると、それはまるで手足のように、寸分の狂いもなく意のままに動く。
「さーせーるーかぁっ!!」
維を絶望させた空間の歪みが、再び津波のように押し寄せる。万物を侵食し、存在そのものを削り取るエネルギーの塊。
だが、今の一華は恐怖しない。
「うわっと!」
咄嗟に背後の八咫鏡を前面に展開し、盾にする。鏡面が歪象の攻撃を真正面から受け止めた。
しかし、鏡は砕けない。それどころか、水面が波紋を広げるように、鏡は空間の歪みを静かに吸い込んでいく。
「これが、Sランクの《神律武装》……!すごい、攻撃をそのまま吸収してる……!」
鏡が持つ規格外の性能に、一華自身が驚愕する。だが、感心している暇はなかった。吸収したエネルギーが鏡の中で暴れ、早く解放しろと訴えかけてくるようだ。
「うう……!反動がすごくて、全然制御できない……!」
鏡を持つ腕がビリビリと痺れる。狙いを定めるどころか、ただ向けるだけで精一杯だ。
「こうなったら、ヤケクソだあっ!」
一華は叫ぶと、制御を半ば放棄して、吸収したエネルギーを歪象に向かって叩きつけるように解放した。
鏡から放たれたのは、先ほど吸収した歪象の力そのもの。純度も威力も増した漆黒のエネルギーの奔流が、狙いも滅茶苦茶に辺りを薙ぎ払う。
『■■■■■■■■■────ッ!?』
直撃ではなかったが、掠めただけで歪象の身体が大きく削り取られ、苦悶の叫びを上げた。
一華自身も、凄まじい反動で後方へ吹き飛ばされそうになるのを必死に堪える。
「はぁ……はぁ……!なんてパワーなの……。でも…うん!いける!」
戦い方は分かった。精密な操作なんて、今の自分には無理だ。
だったらやることは一つ。あの化け物の力が尽きるまで、吸収と解放を繰り返す。ゴリ押しのパワー勝負!
一華は再び鏡を構え、歪象の次の攻撃を待ち構えた。
何度かの攻防が続く。
一華のデタラメな反撃は、周囲のアスファルトや壁を派手に破壊したが、同時に着実に歪象の身体を蝕んでいった。
そして、ついに歪象の動きが鈍り、その身体が崩壊を始めた。
あと一撃——!
誰もがそう確信した、その時だった。
「ぐ……っ、あああああああっ!?」
維が、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。
痛い。痛い。痛い。
金槌で内側から頭蓋を滅茶苦茶に殴られているような、激しい痛みが脳を焼く。視界が明滅し、耳の奥で、歪象が発するのと同じ不快なノイズが鳴り響いていた。
「えっ、君!?しっかりして!」
歪象に集中していた一華の意識が、一瞬、維の悲鳴に気を取られる。その、ほんのわずかな隙。
それが、命取りだった。
断末魔を上げていたはずの歪象が、最後の力を振り絞り、その巨体を構成する全てのノイズを一点に収束させる。狙いは、気を逸らした一華ではなく、無防備に蹲る少年。
「え、しまっ——!」
一華が気づいた時には、全てが遅かった。
度重なる反動で体勢も万全ではない。今から鏡を操作しても間に合わない。
彼女に残された選択肢は、たった一つ。
思考より早く、身体が動いていた。
「——させない……っ!」
一華は、迫る攻撃と維の間に、自らの身体を割り込ませた。
鈍い、肉を抉る音が響く。
「……かはっ……!」
一華の可憐な身体を、歪象の最後の一撃が深々と貫いていた。
口から鮮血を吐き出し、力なく崩れ落ちていく夕陽色の髪の少女。その瞳から、生命の光が急速に失われていく。
「……あ……東雲……?」
激痛の中で意識を朦朧とさせていた維の目に映ったのは、自分を庇い、血の海に沈んでいく、今日会ったばかりの少女の姿だった。
血溜まりの中、人形のように動かなくなった一華。
割れるような頭の痛みに耐えながら、維はか細い声を絞り出した。
「どうして……!」
自分は、不合格者だ。彼女に酷い事も言った。守られる価値などない、ただの一般人。それなのに、なぜ。
「……あちゃー。油断、しちゃった……」
息も絶え絶えなはずなのに、一華は困ったように笑って見せる。その精一杯の明るさが、維の胸を締め付けた。
「どうしてだよ……!なんでアンタら適合者は、そう簡単に命を懸けられるんだよ!?」
維の叫びに、一華は、まるで当たり前のことのように即答した。
「……それが、私達の……義務だから。………力を持つ私達が……、守るべき人の為に命を懸ける。………たとえ、ここで生命が……尽きたとしても、守れた命が…あ……る…なら無駄なんかじゃ…ない。……それが、私たち《適合者》、らしいよ?」
どこか他人事のように、でも、確固たる信念を込めて彼女は告げる。そして、薄れゆく意識の中で、維の目を見て微笑んだ。
「それに、言ったじゃない……挽回させてって」
その言葉を最後に、彼女の瞳から光が失われかける。
それと時を同じくして、崩れかけた体を引きずるように、歪象が一華へとゆっくりと近付いていく。止めを刺すつもりなのだろう。
(ああ、まただ)
維は運命を呪う。
力がない自分を。
守られるだけの存在である自分を。
(やめろ……やめてくれ……!)
この鬱陶しい頭痛が、自分に何かを訴え掛けているというのなら、さっさと話を聞いてやる!
どんな対価だって払ってやる!
……だから!!
目の前のその子だけは、この世界から消さないでくれ!!!
たった今、命を救ってくれた、恩人なんだ!!!
祈るような叫びは、声にならない。
一華へと伸ばした手が、虚しく宙を掻く。
プツリ、と。
まるでテレビの電源が切れるように、維の意識は深い闇へと溶けていった。
聖痕とは、神律武装の待機状態です。人によって身体に刻まれる箇所は違います。
ちなみに、一華は胸の中心です。




