始まりの日 その4
本日もよろしくお願いします。
「――……まずいって! 早く逃げるぞ!」
佐藤が俺の腕を掴んだ。
武田も、顔を蒼白にさせて頷く。
そうだ。逃げなければ。
ここにいてはいけない。
俺の理性が、そう叫んでいる。
なのに、俺の足はまるで、地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
目の前で、世界の理が悲鳴を上げている。
夕暮れの美しいはずの空気が、まるで熱せられたアスファルトの上の陽炎のように、ぐにゃり、ぐにゃりと歪んでいる。
テレビの砂嵐のような黒い粒子状の「ノイズ」が、俺たちの視界の端で明滅し、キィンという耳鳴りが、脳を直接揺さぶる。
「――な、なんだ、あれは……!」
誰かが叫んだ。
その指さす、先。
学園の巨大なゲートのその真ん中で、空間そのものが黒く染まっていく。
そして、その黒い染みから、まるでこの世界を拒絶するかのように、一体の異形が「生まれ出て」きた。
それは、狼の形をしていた。
だが、生き物ではない。
その身体は、光を吸収する、黒い無数の結晶質の粒子の集合体。
その輪郭は、常に不安定に揺らめき、身体の縁が常にざらつき、崩壊と再生を繰り返している。
まるで、三流のホラー映画のCGのように、カクカクとした非連続的な動き。
その、あまりに異質で、冒涜的な「命の模倣品」。
俺は、それが『歪象』と呼ばれる、人類の天敵であることを、本能で理解した。
『■■■■■■■■■■■■ッ!!』
それが放ったのは、咆哮ではなかった。
壊れたラジオと、ガラスを引っ掻く音を、同時に再生したかのような、ただ不快な音の塊。
その音を聞いた瞬間。
それまで遠巻きに見ていた人々の、理性のタガが外れた。
「――ひっ!」
「――うわああああああああああああああああああっ!!」
悲鳴。
絶叫。
怒号。
人々は、我先にとその場から逃げ出そうと、殺到する。
押され、倒され、踏みつけられていく人々。
平和だったはずの広場は一瞬で、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わった。
「維! 行くぞ!」
武田の絶叫が、俺の耳元で響いた。
彼は、俺の腕を掴むと、人の波を掻き分けるように、必死に反対に向けて走り出す。
俺も無我夢中で、その背中を追った。
だが。
数メートル走った、その時。
俺は、強烈な違和感に、足を止めた。
(……待て)
(……何か、おかしい)
三人。
そうだ。
ついさっきまで、俺たちは三人でいたはずだ。
俺と、武田と、そして――。
「――佐藤は!? 佐藤は、どこだ!?」
俺は、叫んだ。
はぐれたのか!?
まさか、あの人混みの中で転んだんじゃ……!
俺の必死の問いに。
俺の腕を掴む武田が振り返った。
その顔には、俺が今まで見たこともない純粋な「恐怖」と、そして「困惑」の色が浮かんでいた。
「――は!? 何言ってんだ、こんな時に!」
「……!」
「佐藤って、誰だよ!?」
――え?
俺の思考が、凍りついた。
何を、言っているんだ、こいつは。
佐藤だ。
さっきまで一緒に馬鹿な話をしていた、俺たちのダチだろうが。
俺は、武田の掴む手を振り払うようにして、振り返った。
そして、見た。
地獄を。
一体の黒い「歪み」が、全てを蹂躙している。
その足元で、逃げ遅れた数人の民間人が、その黒い結晶の身体に触れられ、まるでデータが破損したかのようにピクセル化し、悲鳴すら音にならず、黒い砂の粒子となって消えていく。
そして。
その、砂の中に。
俺は見つけてしまった。
見覚えのあるリュックサックと。
その半分が、既に黒い砂へと還りかけている、制服の袖を。
それは、つい数分前まで、「佐藤」という名前だった、何かだった。
それが意味するものを、俺の脳は理解することを拒絶した。喉の奥から、ひび割れた音が漏れる。
「あ……ああ……あああああああああっ!」
絶望が、叫びとなって迸った。
同時に、胃の腑が痙攣し、せり上がってきた胃液が地面を叩く。ビチャビチャと汚らしい音を立て、一度吐き出すと、もう止まらなかった。
「う、おええぇ……っ!げほっ、ごほっ!」
これが、死。
人が死ぬ瞬間を、初めて見てしまった。
「維!見るな、走れ!」
武田の怒声が耳を打つ。だが、腰が抜けて立てない。ガクガクと震える膝が言うことを聞かない。
そんな維の姿を、武田は一瞥し、そして——。
「……すまん!」
苦虫を噛み潰したような顔で一言だけ残し、彼は背を向けた。
自分を見捨てて走り去っていく武田の背中。それが、維が見た最後の友の姿だった。
「え——?」
次の瞬間、武田の身体が、まるで巨大な何かに殴りつけられたかのように真横へ吹き飛んだ。否、違う。彼の身体が、ぐにゃりと歪なテレビのノイズのように乱れ、空間に溶けるように侵食されていく。
「が……っ、ぁ……!」
声にならない悲鳴を上げ、武田がもがき苦しむ。その身体は端から砂のように崩れ、輪郭を失っていく。薄れゆく意識の中、彼は最後の力を振り絞って、維へと手を伸ばした。
「……に、げ……ろ……ニ、ゲロ……ッ!」
その言葉が最後まで紡がれることはなかった。武田だったものは完全に消失し、後には不気味な静寂だけが残された。
「た、武田……? 武田あああああっ!」
維は、ただ友の名を叫ぶことしかできなかった。
頭が真っ白になる。武田という人間の存在が、記憶が、自分の中から急速に色褪せ、希薄になっていく奇妙な感覚に襲われる。大切な何かが、根こそぎ奪われていくような喪失感。
絶望に染まった湊の瞳に、再び空間の歪みが映る。
歪象が、次の標的を定めたのだ。逃げ惑う獲物より、恐怖で動けなくなった獲物の方が、狩りやすいと判断したのだろう。
(ああ、終わるのか)
何者にもなれなかった自分の人生は、こんな得体の知れない何かに喰われて、こうもあっけなく幕を下ろすのか。
維がぎゅっと目を瞑り、死を覚悟した、その時だった。
ふわりと、身体が浮遊感を覚える。
柔らかい感触と、嗅いだことのない甘い香りに包まれ、気づけば維の身体は真横へと吹き飛ばされていた。
先ほどまで自分がいた場所に、空間を歪ませる歪象が襲いかかり、アスファルトを抉り取る。
「……え?」
何が起きたのか分からず呆然とする維の目の前に、一人の少女が立っていた。
夕陽を溶かし込んだような、深いオレンジ色の髪が揺れている。その凛とした瞳に、見覚えがあった。
無数の報道関係者に囲まれ、毅然とインタビューに応じていた少女。
「立てる!? 怪我はない!?」
首席合格者、東雲一華。彼女が、そこにいた。
その華奢な背中が、空間を歪ませる不気味な歪象から維を庇っていた。
「私は東雲 一華!ここにいるって事は、君も適合者…?闘える!?」
「あ、いや……俺は…!」
「あちゃー、民間人だったんだね!ごめん、今のナシ!忘れて!」
テヘッと舌を出す一華。こんな状況でなければ、その屈託のなさに毒気を抜かれたかもしれない。彼女は気を取り直したように、ニコッと笑いかける。
「ま、まあ今はそんなことより!だーいじょうぶ!学園の防衛部隊も来てくれたから!そしたら、こんなのチャチャッとお片付けだよ」
その軽口が、逆に維の中に燻っていた感情の堰を切った。
「……遅いんだよ……っ!」
項垂れたまま、維は絞り出すように叫ぶ。涙がぼろぼろと地面に染みを作った。
「大勢の人が、友達が……佐藤が、武田が……死んだんだ!こんなことになるまで、なんで誰も……!力がある奴らが、力のない俺たちを守れなくてどうするんだよ!」
八つ当たりだと分かっている。目の前の可憐な少女にぶつけていい感情ではないことも。だが、一度溢れ出した慟哭は止まらなかった。
維の叫びを、一華は真正面から受け止めていた。彼女の表情から、先ほどの明るさがすっと消える。
「そうだよね、うん……ごめんね」
静かに、しかし心の底から絞り出すような声だった。
「本当に、ごめん。君の言う通りだよ。だから、ここから挽回させて。世界と人々を守る《適合者》として——私が君を、ここで助ける。それで、許してくれなんて言えないけど…」
一華は決然と言い放ち、歪象に向き直る。その姿は、まるで英雄のように格好良かった。
しかし、維にはそれが無謀な行為にしか見えなかった。
「何もそこまで……!?防衛部隊の人たちが来たなら、プロに任せればいいじゃないか!」
「防衛部隊?」
一華は一瞬だけ振り返り、悪戯っぽくぺろっと舌を出した。
「うーん、まだ来てないんだ、それが。だから、私が時間を稼ぐしかないかなって!」
その言葉に、維は思考の矛盾を突かれる。
まだ来ていない?そんなはずはない。さっき言ったじゃないか、来てくれたって…!
それなのに、まだ来ていない、ということは。
(まさか……防衛部隊は全滅したのか……?)
希望が見えたと思った直後、より深い絶望の淵に突き落とされる。助けは来ない。目の前の少女が時間を稼いだところで、その先に待つのは同じ結末なのではないか。
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総人類共通の脅威、ノイズ。
奴らの最大の特徴は、襲った人間や物質を、世界中の人の記憶から認識ごと消し去ることです。
やられた仲間も、民間人も、壊された物も全てが直後に最初から無かったことになります。
おや、維は少し違うようですね…?




