落日 その1
時は少し遡る。
A組とB組の合同実技演習が始まる、数十分前。
女子更衣室のトイレの個室で、東雲一華は便器に顔を埋め、胃の中身をすべて吐き出していた。
「……ぅ……、っ……ごほっ……」
吐き気が止まらない。身体の震えが止まらない。
あの日、維の聖痕に触れた瞬間に流れ込んできた「記憶」。それが、一華の常識を根底から破壊していた。
あれから、一華は必死に調べた。
ネットニュース、新聞、学園のアーカイブ。
どこを見ても、あの入学試験の事件は「東雲一華がノイズを撃退し、民間人数百名を救った奇跡」として称賛されていた。
だが、違う。私の記憶では——手足を捥がれ、喰われ、助けを求めて消えていった人々が、確かにいたはずなんだ。
そして、何より恐ろしい事実。
一華は、震える手でマナデバイスを取り出した。
フォルダには、幼馴染の親友——あゆみと撮った写真が入っている。
一華の目には、ピースをするあゆみが映っている。だが、先日クラスメイトに見せた時、彼女たちは言ったのだ。
『え? 一華ちゃん、なんで一人でピースして自撮りしてるの?』
極めつけは、あゆみの実家への電話だった。
恐る恐るかけた電話に出た彼女の母親は、こう言った。
『ええ? あゆみ? ……ごめんなさいね一華ちゃん。ウチには、娘なんていないわよ?』
(……消えてる)
一華は、絶望に打ちひしがれてうずくまる。
歪象に喰われた人間は、肉体だけでなく、記憶も、記録も、この世界の「事実」から抹消される。
それが、この世界の隠されたルール。
(……だとしたら)
一華の脳裏に、ボロボロになった少年の顔が浮かぶ。
「維くんは……この事実を、この地獄を、ずっと一人で抱えていたの?」
誰に話しても「頭がおかしい」と言われる。証拠もない。世界中が「無かったこと」にしている中で、たった一人、消された人々の痛みを覚えていた。
少なくとも、あの入学試験の時から、ずっと。
「そんな人を……私は……!」
『あなたは私に何を見せたの!?』
あの日、一華は恐怖に負け、維を拒絶した。彼が一番理解者を求めていた時に、彼を「加害者」扱いし、親衛隊に襲わせてしまった。
「許されない。……私が彼を孤立させた。今、世界で彼の味方でいてあげられるのは、私だけだったのに!」
罪の意識が、胸を締め付ける。
だが、ここで泣いていても何も変わらない。
一華は立ち上がり、洗面台へ向かうと、冷たい水で顔を洗った。
両手で頬を強く叩く。鏡の中の自分を睨みつける。
「……行かなきゃ。謝らなきゃ」
この演習が終わったら、すぐに維のもとへ行こう。
土下座してでも謝って、二人で話し合って、学園長にも相談して……対策を練るんだ。
「考えるのは、その後! ……よし、行くぞ一華!」
◇
第一演習場。
A組とB組の生徒たちが入り混じる中、一華は必死に人影を探していた。
そして、集団の隅に、小さくなって立っている三枝いとを見つけた。
「——いとちゃん!」
一華は脱兎のごとく駆け寄り、いとの両肩をガシッと掴んだ。
「あ、あの、東雲さん!?」
「ごめんね! 本当にごめんね! 私、勘違いしてた! 維くんは……彼は、いとちゃんを傷つけようなんてしてないの! 貴女を助けたかっただけなの!」
一華は、なりふり構わず、いとをグワングワンと前後に揺さぶりながら謝罪する。
「だから、お願い! 彼を許してあげて! 彼を信じてあげてぇぇ!」
「ちょ、東雲さん……! 落ち着いてぇ……!」
いとは目を回しながらも、必死に一華を嗜めた。
「わ、分かってます! 分かってますからぁ!」
「へ……?」
「天束くんが私を助けてくれたことくらい、私が一番分かってます。むしろ、感謝してるくらいなんですから……!」
いとの言葉に、一華の動きが止まる。
「ほ、本当……?」
「はい。私が未熟で……彼に迷惑をかけてしまって……」
いとは、申し訳無さそうに、けれどはっきりとそう言った。
「うわぁぁぁぁん! いとちゃぁぁぁん!」
「きゃっ!?」
安堵のあまり、一華は涙を流しながらいとに抱きついた。
よかった。維くんの優しさを、分かってくれている人がここにもいたんだ。
「——東雲さん! 何をしているんですか!」
その時、背後から冷ややかな声が飛んだ。
A組の親衛隊たちが、不快感を露わにして近づいてくる。
「離れてください。彼女は、あの序列外に肩入れして事故を起こした、B組の生徒ですよ?」
「そうですよ。東雲さん、彼女は被害者とはいえ、あなたまで一緒になっては、あなたの『ブランド』が汚れてしまいます。さあ、A組のグループへ戻りましょう!」
彼らは、いとの手を取り、一華から引き剥がそうとする。
その無遠慮な手と、維を蔑む言葉に、一華の中で何かが切れた。
「……いい加減にしてよ」
一華は、いとを守るように前に出た。
「ブランド? ランク? そんなのどうだっていい!」
「し、東雲さん?」
「彼女は私の友達! 維くんも、いとちゃんも、私の大切な友達なの! あなた達にそんなことを言われる筋合いはないわ!」
一華の気迫が、吹き荒れるマナとなって周囲を圧する。
「文句があるなら、私にかかってきなさい!」
その剣幕に、親衛隊たちは「ひっ……」と怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……はぁ、はぁ」
一華が息を整えていると、背後からいとが声をかけた。
「……あの、ありがとうございます。東雲さん」
いとは深々と頭を下げる。
「えへへ……いいよぉ。私こそ、ごめんね」
照れくさそうに笑う一華。
その時、頭を下げたいとの胸元から、銀色の首飾りがこぼれ落ちた。
「ん? なにそれ、綺麗だね」
「あ、これですか?」
いとは首飾りを手に取る。
「マナコントロールを助けてくれるお守りなんだそうです。……先生から頂いたもので」
「へえ、マナコントロール……」
一華は、興味本位でその赤い宝石に指を伸ばした。
だが、指先が触れる直前。直感が、チリ、と警鐘を鳴らした。
(……なに、これ?)
マナの質が、おかしい。温かみがない。まるで、底なしの沼のような——。
その様子を、遠く離れた校舎の屋上から、俯瞰して見ている者がいた。
全身を灰色のローブで包み、フードを目深に被った謎の人影。
「……ああ、美しい。実に美しいですねぇ」
男は、演習場で寄り添う二人の少女を、指で作ったフレームの中に収め、陶酔したように独りごちる。
「すれ違い、傷つけ合い、それでも信じ合おうとする友情。……なんて健気で、なんて脆いんでしょうか」
ククッ、と喉の奥で嗤う音が漏れる。
「ですが、物語には『転』が必要だ。悲劇という名の…スパイスがね」
男の視線が、一華の手が首飾りに伸びる瞬間を捉える。
「おや? 流石は腐ってもSランク。違和感に気づきましたか。野生の勘というやつですね」
彼は、残念がるどころか、さらに愉悦を深めたように口角を吊り上げた。
「ですが、気づいた時にはもう、手遅れなんですよ」
「さあ、芽吹きなさい。嫉妬を糧に、絶望を吸って。……退屈な神話を、惨劇で塗り替えてあげましょう」
男が高らかに宣言し、芝居がかった動作で指を鳴らした。
パチンと乾いた音が、世界の均衡を崩す合図となった。




