悪意の種 その2
学園の喧騒から離れた、木立に囲まれた静寂な別棟。
その一角にあるカウンセリングルームは、病院のような無機質さはなく、柔らかな間接照明とアロマの香りに包まれた、落ち着いた空間だった。
「……失礼、します」
いとは緊張で指先を冷たくしながら、革張りのソファに浅く腰掛けた。
「やあ。初めまして、三枝 いとさんだね?観月先生から聞いているよ。ささ、こっちに座って」
部屋の奥から、紅茶の香りと共に現れたのは、白衣を着た優しげな青年だった。
穏やかな垂れ目と、少し長めの髪。威圧感など欠片もない、柔和な空気を纏っている。
「僕は御巫 鏡也。気軽に鏡也先生と呼んでくれていいよ」
彼は手慣れた様子でハーブティーを淹れ、いとの前に置いた。
「カモミールだよ。リラックス効果があるんだ。……無理に話さなくていい。今日はただ、ここでお茶を飲むだけでもいいんだよ」
「あ、ありがとうございます……」
温かいお茶を一口含むと、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
鏡也はカウンセラーらしく、いとの様子を観察し、他愛のない世間話から始めた。
窓から見える庭の木々の話。最近の学食のメニューの話。
そうして、いとの警戒心が解けるのを、じっくりと、丁寧に待った。
数十分後。
いとは、誰にも言えなかった胸の内を、ポツリポツリと話し始めた。
「……私、自分が情けないんです。ある男の子が、私を助けようとして傷ついたのに……お見舞いを貰っても、素直に喜べなくて」
「それは、どうしてだい?」
彼女は、お見舞いの品に仲の良い女の子の名前が並んでいたこと。
それを見て、安堵よりも先に、黒い感情が湧き上がってしまったことを吐露した。
「……最低なんです、私。一緒に名前が書いてあった、もう一人の女の子のことが、羨ましくて、妬ましくて……。彼女は凄くキラキラしてて、才能もあって……私なんかじゃ、やっぱり釣り合わないのかなって……」
いとは膝の上で拳を握りしめ、涙を落とす。
こんな醜い嫉妬、きっと軽蔑される。先生だって、呆れるに決まっている。
だが、鏡也の反応は違った。
彼は、深く、深く頷き、慈しむような声で言った。
「それは…もしかして、天束くんと、東雲さんのことかな?」
「え……?」
いとは驚いて顔を上げた。
「ど、どうして……?」
「ふふ、僕はこれでも、生徒たちの悩みを聞くのが仕事だからね。学園の人間関係には、少しばかり詳しいんだよ」
鏡也は人の良さそうな笑顔でウインクする。
「三枝さん。嫉妬という感情は、決して悪いことじゃないよ」
「え……」
「君は、自分が最低だなんて言うけれど、僕はそうは思わない。それは『向上心』の裏返しだ。『あの子みたいになりたい』『彼の隣に立ちたい』と強く願う、純粋なエネルギーだ」
鏡也は立ち上がり、いとの前にしゃがみ込んで、視線の高さを合わせた。
「友達に向ける感情としては、苦しいかもしれない。でも、その苦しみが君を育てる糧になる。……その感情を、否定しなくていいんだよ」
「否定しなくて、いい……?」
「ああ。どんな感情であれ、正しく認識すれば、それは君が一歩先へ進む原動力になるはず。君が頑張ることで、天束くんだけじゃなくて、東雲くんにだって追いついて、隣に並び立てるはずさ。……実はね、観月先生も君のことを褒めていたんだよ」
「観月先生が……?」
「ああ。『彼女には素晴らしい潜在能力がある』ってね。ただ、少しマナが不安定なだけだと」
鏡也は、机の引き出しから、一つの可愛らしい首飾りを取り出した。
植物のツタが絡みつくような銀の意匠に、赤い宝石が埋め込まれている。
「これは…?」
「観月先生から預かっていたものだよ。『彼女の不安定なマナを補助する、試作デバイスを渡してやってほしい』とね。まったく…相変わらずだよねぇ、彼女も」
「先生からの、預かりもの……」
「御守りみたいなものさ。劇的な変化は無いかもしれないけど、何かの助けにはなるかもしれない。これを着けて、もう一度頑張っておいで。君ならできると、僕も先生も信じているよ」
観月先生が、そこまで私を。そして、この先生も、私の醜い感情を肯定してくれた。
その事実が、いとの背中を押した。
「……はい! ありがとうございます、鏡也先生!」
いとは首飾りを受け取り、大切そうに胸に抱いた。
これがあれば、変われる気がする。あの日失敗した自分とは違う自分になれる気がした。
いとが、晴れやかな顔で部屋を出て行った後。
鏡也は、ソファに深く座り直し、天井を仰いで呟いた。
「……ああ、青春だなぁ。若いって素晴らしい」
その声は、心底感心したような、どこまでも純粋な響きだった。
そこに悪意があるのか、それとも善意なのか、判別がつかないほどに。
◇
一方。
いとがカウンセリングルームから去っていく廊下の角。
その影に、一人の女性が潜んでいた。
彼女は、胸元の赤い宝石を握りしめ、希望に満ちた足取りで歩くいとの背中を、無表情で見つめていた。
「…………これで、いいんですよね」
誰に問いかけるでもなく、彼女は小さく呟く。
その言葉の意味を知る者は、闇の中にしかいなかった。




