亀裂 その5
泥の味と、鉄錆のような血の味が混ざり合う。
A組の親衛隊たちによる一方的な私刑が終わった後、維はボロ雑巾のように、誰もいない演習場の裏手に放り出されていた。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。身体の痛みなど、どうでもよかった。
もっと深い、胸の奥が抉られるような痛みが、維を支配していた。
いとを助けようとして、傷つけた。
一華を励まそうとして、壊してしまった。
『あなたは私に何を見せたの!?』
あの一華の、恐怖に染まった瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
「……もう、いいか」
何もかも裏目に出る。自分の手は、触れるもの全てを不幸にする。
それなら、いっそこのまま、誰とも関わらずに消えてしまった方が……。
維が、泥に塗れたまま瞼を閉じようとした、その時だった。
「——いつまで寝ておる、馬鹿者が」
ガツッ!!と、強烈な衝撃が、維の脛を襲った。
「ぐっ……!?」
あまりの激痛に、維は反射的に飛び起きる。
涙目で痛む足を押さえながら見上げると、そこに立っていたのは、フリルのついた傘を差した、ゴスロリ姿の少女——常世時子学園長だった。
「が、学園長……? なんで……」
「散歩じゃ。そうしたら、見苦しいゴミが落ちておったのでな」
学園長は、冷ややかな目で維を見下ろす。
「なんじゃそのツラは。友を傷つけ、あまつさえ拒絶され、それだけで終わりか? 『世界を変える』と大見得を切った小僧の覚悟は、その程度で折れる安っぽいものじゃったか?」
「……あんたに、何が分かる!」
維は、激昂して叫び返した。
「俺は……俺はただ、助けたかっただけなのに! なのに、全部壊れた! 俺がいるだけで、みんな不幸になる! だったら……!」
「甘えるなッ!」
乾いた音が響く。学園長が持っていた扇子で、維の頬を強打していた。
物理的な痛み以上に、その一撃に込められた気迫が、維の思考を強制的に停止させる。
「……失敗したなら、償え。壊したなら、直せ」
学園長は、維の胸ぐらを小さな手で力任せに掴み上げ、その瞳を至近距離で射抜いた。
「おヌシがウジウジと腐っている間にも、世界は進む。友は苦しみ続ける。それが嫌なら、立って足掻け! おヌシが選んだ道じゃろうが!」
「……ッ」
その叱咤は、凍りついていた維の心臓を、無理やり再び動かす劇薬だった。
そうだ。ここで腐っていても、いとは目覚めない。一華の涙も止まらない。
維の瞳に、微かだが、光が戻るのを確認すると、学園長は手を離した。
「……ふん。少しはマシな顔になったか」
彼女は背を向ける。
「ついて来い、小僧。おヌシには、知らねばならんことがある」
「……どこへ」
「学園長室じゃ。おヌシのその『右手』の正体と……これからの話をせねばならん」
◇
中央タワー最上階、学園長室。
重厚なデスクに座った学園長は、これまで見たことがないほど険しい顔をしていた。
「さて、単刀直入に聞くぞ」
学園長は、扇子で維の右手——黒い聖痕が刻まれた甲を指した。
「おヌシ……東雲 一華に、何を見せた?」
維は息を呑む。脳裏に、一華の絶叫が蘇る。
『……あの子は、どこに行ったの!?』
『嘘よ……みんな、無事だったはずじゃ……』
「俺は……何も。ただ、彼女が俺の聖痕に触れた瞬間……彼女の中に、何かが流れ込んだみたいで……」
「『忘れていた記憶』が…か?」
「……ッ!」
図星だった。維の驚愕を見て、学園長は深く溜め息をついた。
「やはり…そうか」
彼女は、窓の外に広がる学園都市を見下ろしながら、独り言のように呟く。
「歪象は、喰らった存在を世界から『消去』し、因果を修正する。それは絶対のルールじゃった。……おヌシと儂という例外を除けば、な」
学園長は振り返り、維を射抜くように見据えた。
「小僧。おヌシのその聖痕は、ただ他者の力を真似るだけの便利な代物ではない」
「どういう…ことですか」
「おヌシの聖痕は、世界に『無かったこと』として隠蔽された傷口を、無理やり抉じ開け、再定義する……この理不尽な世界に打ち込まれた、唯一の『楔』かもしれん」
世界の真実を、修復する力。
それが、一華を発狂させ、あの地獄を見せたカラクリ。この右手の聖痕に触れた者は、世界の理から外れ、世界が無くした記憶を取り戻してしまう。
「……じゃあ、一華が思い出したのは」
「真実じゃろうな。彼女が忘れることで守られていた、残酷な過去じゃ」
学園長は、痛ましげに目を伏せた。
「いいか、小僧。このことは、決して他言無用じゃ。もし、天秤がこの事実を知れば、おヌシは実験台どころか、即座に排除対象となるじゃろうて」
「排除……殺されるってことですか」
「世界がひっくり返るんじゃからな、当然じゃ」
学園長は、声を低くして告げる。
「今、この世界が平穏を保っていられるのは、歪象による被害が『最初から無かったこと』にされているからじゃ。人々は、隣人が理不尽に喰われたことすら忘れ、我ら適合者を『世界を守る英雄』として崇めておる」
「……!」
「じゃが、もしおヌシの力で、世界中の人間が『消された記憶』を取り戻したらどうなる? 平和だと思っていた日常が、実は無数の犠牲と隠蔽の上に成り立っていたと知る。死んだことすら忘れ去られていた家族や恋人の記憶が、一斉に蘇る」
学園長は、扇子を強く握りしめた。
「そうなれば、世界は悲嘆と混乱の坩堝と化すじゃろう。そして、人々を守れていなかった我ら適合者への風当たりは、今とは比較にならぬほど強くなる……社会そのものが崩壊しかねん。奴ら——天秤は、そのパンドラの箱が開くことを、何よりも恐れておるのじゃ」
その言葉の重みに、維は戦慄した。
自分の右手にあるのは、単なる力ではない。この世界の安寧という嘘を根底から覆す、爆弾そのものなのだ。
学園長は、デスクの引き出しから、一つの黒い手袋を取り出した。
特殊な繊維で編まれたそれは、微かにマナの光を帯びている。
「これを着けよ」
維に手袋を投げ渡す。
「特製の封印術式を織り込んだ手袋じゃ。それを着けている限り、聖痕が他者に感応することはない。……以後、入浴時以外、片時も外すことを禁ずる」
「……はい」
維は、震える手で黒い手袋を装着した。右手の熱が、遮断されるのを感じた。




