異物 その6
常世学園長に「地獄」を言い渡されてから、維の世界は一変した。
家族には学園長の言葉通り「合格し、通例の早期合宿に入った」と伝えられた。だが、維が連れてこられたのは、他の合格者が集う施設ではない。《天秤》の目を逃れるためであろう、中央タワーの地下深くに存在する、隔離された最高レベルの訓練施設だった。
模倣の使用を固く禁じられた維に課されたのは、ただひたすらに、貧弱な「器」を鍛え上げるためだけの、文字通りの地獄だった。
この半年間、彼が会話を許された人間は、鬼トレーナー陣と観月、そして時折訪れる学園長の三人だけ。
食事は、徹底的に栄養管理されたもののみ。
眠りから覚めれば、すぐに重力室に放り込まれ、意識を失うまで身体を酷使させられる。
この徹底的な「孤独」と、効率だけを求めた「人間性の剥奪」こそが、維の精神を良くも悪くも研ぎ澄ませ、同時に追い詰めていく要因となっていた。
一つは、「高負荷・身体改造訓練」。
演算領域が優れていても、それを支える肉体が脆弱では意味がない
専門の鬼トレーナーたちの下、維はまず重力制御室に放り込まれた。
「う……ぐ……!」
常に身体にかかる3倍の重力。その中で、基礎的な筋力トレーニングどころか、戦闘機動の基礎である受け身やステップを強制される。息をするだけで肺が軋み、骨が悲鳴を上げた。
「立て! その程度で神律武装を扱おうなど、片腹痛いわ!」
罵倒と共に、仮想戦闘シミュレーターに叩き込まれる。
生身のまま、Aランク適合者の戦闘データAIや、仮想ノイズとの模擬戦を繰り返す。
勝てない。
それも当然。目的は「勝つこと」ではなく、回避と防御だけで「1秒でも長く生き延びる」こと。
毎日、毎日、仮想空間で手足を引き裂かれ、貫かれ、「死ぬ」感覚を味わわされた。
それが半年。180回近い「死」の蓄積は、維の肉体と精神を否応なく変質させていた。
疲労骨折寸前の骨が軋み、筋繊維が悲鳴を上げて断裂と再生を繰り返した結果、彼の身体から余分な肉は削げ落ち、全身が鋼のような強靭なバネへと作り替えられていた。
だが、代償はあった。毎日「死ぬ」ことで、維の精神は確実に摩耗していた。痛みへの恐怖は、既に鈍麻している。
それは、異常なまでの「生存本能」の獲得であり、同時に、人としての「何か」が壊れていく感覚でもあった。
重力室で意識を失い、倒れ込む維の姿を、学園長は強化ガラスの向こう側から、ただ黙って「観察」していることがあった。
維が、朦朧とする意識の中で、助けを求めるようにその小さな姿を見つめても、彼女はキャンディを舐めながら冷徹に首を振るだけだった。
「……足りぬな。その程度では、《天秤》の解剖台の上じゃぞ」
インターコム越しに突き刺さるその言葉が、維の脳に「生き残りたければ、この地獄を耐えるしかない」という、絶望的なまでの動機を灼きつけた。
二つ目は、観月千里が直々に管理する、「超並列・演算領域訓練」だった。
「君の演算領域は並以下。お話にならないわ。最低限、並列処理を覚えなさい」
VRゴーグルを装着させられると、維の視界は膨大な「情報」の洪水に呑まれた。
360度から迫りくる無数の数字、色、記号。それらを脳内の演算だけで瞬時に「正解」と「不正解」に仕分け続ける。処理が追いつかず一つでも間違えれば、脳に直接、不快なフィードバックが叩き込まれた。
「集中して! 次はマナフローの解読よ!」
今度は、観月が操作する複雑怪奇な「マナの流れ」の映像を見せられ、その流れが「どこから来て、どこへ流れ、どこで詰まっているか」をリアルタイムで解読させられる。
「違う! もっと根源を読みなさい! それは神律武装本体の動きでしょう! 核の動きを予測しなさい!」
並以下の演算領域で、Sランク級の観測データを無理やり処理させられる。失敗した時のフィードバックは、単なるブザーではなかった。
脳の演算領域そのものを灼き切るような、強烈な偏頭痛と精神汚染が湊を襲う。
観月は、VRゴーグルの外からその苦悶の表情を冷静に見つめていた。
「……頑張りなさい、天束くん」
その声は教師として彼を案じつつも、非情なまでに負荷を下げなかった。
「……ここであなたの『器』の壁を壊せなければ、あなたは《天秤》に連れて行かれる。……私に、学園長に、あんな思いをさせないで」
その小さな呟きは、維の耳には届かなかった。
身体は重力に潰され、脳は情報に焼かれる。
そして何より、維を苛んだのは、禁じられた力への「焦り」だった。
仮想シミュレーターでAランクAIの攻撃を避けきれず、生身の腹が貫かれる寸前。「また死ぬ!」と追い込まれた瞬間、右手の聖痕が疼いた。
——模倣を使えば、勝てる。
その強烈な衝動が頭を支配する。だが、「暴走すれば終わりじゃ」という学園長の言葉が、それを強引に抑え込んだ。
維は、あえてその衝動を飲み込み、生身で「死ぬ」ことを選んだ。
肉体という器は強靭になっていく。だが、肝心の力の制御訓練はゼロ。それどころか、使えない鬱憤だけが、その右腕に溜まっていく。
その危険なアンバランスさに、維自身はまだ気づいていなかった。
友人を失った絶望も、家族に会えない孤独も、感じる暇はない。
だが、勘違いしてはならない。
結局、維はこの半年間で、ただの一度も「AランクAIに勝利する」ことも、「観月の課題を完璧にクリアする」こともできなかったのだ。
彼が得たのは、輝かしい「成功体験」ではない。
「どうすればAIの致命的な攻撃を『掠り傷』でやり過ごせるか」
「どうすれば脳が焼き切れる前に、ギリギリで情報を『受け流せる』か」
そんな、歪なまでの『生存技術』と『回避能力』だけだった。
ただ、喰らいつくしかなかったのだ。
《天秤》に解剖されるか、力に呑まれて自滅するか——その地獄から抜け出す道は、学園長が示したこの「器」を完成させる道しかないのだから。
そして、地獄のような日々が巡り——半年が過ぎた。
隔離された訓練施設の最終測定日。
維は、仮想シミュレーターの中で、AランクAIの猛攻を生身で捌ききり、ついに規定時間いっぱいを「生存」しきった。
「……はぁっ……! はぁっ……!」
シミュレーターから解放され、汗だくで床に倒れ込む維。
コンソールを見ていた観月が、信じられないといった表情で目を見開いていた。
「……信じられない。半年前、並以下だったあなたの演算領域の処理速度が、たった半年で……Aランク適合者の平均値に迫ってる」
鬼トレーナー陣も頷く。
「身体能力も、学園の防衛部隊の合格基準をクリアしています。……潜在能力が開花したのか?」
「……でも」
維は、荒い息の下で呟く。
「結局、一度も……あのAIに勝てませんでしたけど……」
「当たり前じゃ」
その時、解析ルームの入り口に、いつの間にか学園長が立っていた。
「相手はAランクの戦闘データじゃぞ。それを生身で、半年間『生き延びた』こと自体が、おヌシの成果じゃ」
学園長は、カツカツと維のそばまで歩み寄ると、その顔をじっと覗き込んだ。
「……それに、何より感心したのは、おヌシの『精神』じゃな」
「え……?」
「あれほどの地獄を毎日味わわされて、よくぞ壊れもせず、その真っ直ぐな目を失わんかった。普通の人間なら、とうに心が折れて廃人になっておるわ」
観月も、厳しかった教師の顔を緩め、心底感心したように微笑んだ。
「ええ。あなたのその精神的な強靭さこそが、最大の才能かもしれないわね。半年間、本当によく耐え抜きました」
学園長は、ニヤリと意地悪く笑った。
「うむ。及第点どころか、満点じゃ。これでようやく『器』は整った」
彼女は、新しいキャンディの包み紙を破りながら、付け加える。
「……ま、おヌシが望むなら、いつでもこの修行は再開してやってもよいぞ?」
その言葉に、それまでグッタリしていた維が、顔面蒼白になって飛び起きた。
「——絶対に遠慮します!!」
維の必死の即答に、学園長は喉を鳴らして笑った。
半年ぶりに、隔離施設の重いゲートが開かれる。
眩しい光と共に、外の空気が流れ込んできた。
季節は巡り、春。
天照学園の、入学式の日がやってきた。




