1-1 非日常は日常に
「うっ」
思わず声が出た。顔も背ける。でもずっとこのままと言うわけにもいかなくて、仕方なく、本当に仕方なく、勇気を振り絞って薄目を向けた。
私の家、というか敷地内には、生け垣がある。ぐるりと家を囲うように敷かれたブロックがあって、その上に分厚い緑が乗っかったような、いわゆる想像したまんまの生け垣だ。
植物っていうのは定期的に手入れをする必要があるわけで、この日の私は朝食を終えて早々ジャージに着替えた。軍手に剪定バサミを携えて、パチンパチンと道路に飛び出した枝をちまちま切っていた所、ソレが現れたのだ。
名前も呼びたくない、この世で一番嫌いな生命体。
こんな表現して申し訳ないとは思う。でも無理な物は無理だ。ちょっと当たりが強くなるのも許してほしい。よりにもよって、今から丁度切ろうと思っていた枝の近くに居るなんて!
どうしよう。ぼんやりと焦点が定まらない視界でも分かる。まだ確かにそこに居る。細い8本の脚を蠢かせ、枝の間に糸を張っている。これをどうにかしないと先に進めない……でも絶対に、ぜっ、たいに無理!
引き攣った口角を下げ、一歩下がる。やめよう。目を逸らすことにする。別の所に行こう。これはもう、仕方ない。うん。
誰に言い訳するでもなく頷いて、その場を離れるべく足を下げた。あぁでも、アイツがどこに行くか見ておかないと。もし、万が一、最悪の想像だけども、ふとした時にひょっこりと手元に現れでもしたらどうなることか。私はこの静かな午前の住宅街にとんでもない悲鳴を響かせてしまうかもしれない。
そんなわけで、視線だけはその「ク」のつくアイツにやったまま、ジリジリと横移動していると、
「チアキ!」
華やかな声に名前を呼ばれ、思わず振り向いた。
あっ、まずい。アイツはどこに。慌てて視線を戻せば、例のヤツはまだ同じ場所で佇んでいた。良かったような、また見てしまって憂鬱なような。複雑な気分。
思わず顔を歪めた私の視界の外で、シャッシャッと車輪の音が近づいてくる。その姿が到着する場所を予想して、彼女が見えてくるはずの角度まで身体を動かした。……もちろん、例のヤツの様子も同時に窺う。
そうしてとうとう彼女が現れる。
真新しい自転車を立って漕ぐ、ユーリクレマチス。
さらりとしたブロンドが走行風になびき、太陽の光を反射してキラキラと光る。それはまるで、彼女の軌跡を祝福するべく金の粒子が自ら舞い散っているようだった。
彼女は私の側に車体をつけると、デニムに包まれた脚を地に下ろした。自転車の扱い方を教えたのはたったの数分前だというのに、すっかり乗りこなしている様子だ。流石、器用である。
「チアキ、ただいま!」
その笑顔が眩しいくらいに輝いていることなんて、真正面から見なくても分かる。張っていた気が自然と抜け、私は口元を緩めながら彼女を出迎えた。
「おかえりなさい王様。どうでした?」
「すごいわ! 自分の脚の力だけで車輪が回って、どんどん先に進めるの!」
はしゃぐ王様から次々出てくる感想に、うんうん、と頷き返す。
良かった、これはかなりお気に召した様子だ。いつも凛としていてカッコいいのに、こうしているととても微笑ましくて可愛らしい。そこがまたこの王様に魅入られるポイントなのだ。
ユーリクレマチス。彼女は異世界の王様である。
何を言っているか、自分でも未だにあまりよく分かっていない。異世界とか王様とかそんなのとても現実とは思えないけど、それでも事実なのだ。
彼女はある日突然私の目の前に現れた。文字通り「現れた」と言っていい。まるでフィクションの瞬間移動とかテレポートとか──異世界転移みたいに、その場に突然現れた。
彼女は自らを王と名乗り、元の世界、ひいては自らが治める国に帰る方法を探している。私は流れでそれを手伝うことになったのだけど、どんな仕組みでこの世界に来てしまったのかも分からない以上、進捗は芳しくない。
ところがなんと、数週間前に一度だけ帰れそうなタイミングがあったのだ! ……けれども、何故だかそれも上手く行かず、以降ずっと王様は私の家に居候し続けている。
つまるところ、みたい、ではなく、王様はまさしく異世界転移してきた人物であり、私はさしづめその第一発見者ポジションということだ。
異世界転移者に対する第一発見者は何をするかというと、転移者がこの世界に馴染めるようなお手伝いが一般的なんじゃないかなと思う。それは住む場所を提供するだったり、目立たないような服を貸すだったり、飢えを凌ぐだったり……後はそう、この世界の文化を教える、とか。
「貸してくれてありがとう。良かったのかしら、折角あなたが買ったばかりなのに乗ってしまって」
王様が自然な動作で自転車から降りる。私は軽く首を左右に振った。
「全然。買ったばっかりとは言いますけど、もう何回も乗ってますし。なんならあの、買った時に既に乗って帰って来てますから」
「あぁ、そういえば」
「それにまぁ、あんな興味津々に見られちゃったら」
脳裏に過るのは最近の王様の姿だ。
大学に行く私を玄関まで送りに来てくれる王様。「いってらっしゃい」と手を振るその視線が真っ直ぐ私の自転車に注がれている。気になる、気になる、気になる……そんな目を毎日向けられたら、いくらなんでも流石に気付くというものだ。
突然異世界に飛んできてしまった王様だけど、彼女はそれくらいじゃへこたれない。寧ろこの機を余さず活かしつくしてやろうと言わんばかりに、日々この世界のことを学んでいた。その学びを持ち帰り、自国の糧にするのだそうだ。そう言って足を止めない王様の姿を知っているから、私はこうして新品同然の自転車を貸し出したのである。王様が気になることは基本的に全部経験させようの精神だ。……まぁ、SNSで晒されたりしない範囲で。
「私、そんなに分かりやすかったかしら」
「まぁまぁまぁ……」
「否定されない……」
王様の綺麗な眉が寄った、ように見える。絶妙な画角なのだ。王様の顔自体は視界に入っているけれど、焦点は合っていない。そういう位置。
当然ながら目も合わないわけで、まぁどうしたって平常な様子には見えないだろう。案の定、王様の首がこてんと傾げられる。
「ところで、さっきから何を見ているの?」
「あーっ、と、ですね」
「確かあなた、そこの生け垣の剪定をしていたのよね。形を見ているとか」
「ううん違う」
「じゃあ逆ね? どこを切ろうかと考えている」
「それも違います」
「じゃあなに……」
ひょこ、と視界の中心に王様の後頭部がカットイン。そうして私の視線の先を辿って、きっと王様にも例のヤツが見えた。
──瞬間、確かな空気のヒリつき。
ぐっ、と息が詰まった、と思えば即座にその空気は霧散する。途端に息ができるようになった。喉の詰まりを吐くように咳をする私を、王様が振り返る。
「侵略者じゃないわね」
ああ、なるほど。その一言でなんとなく分かった。王様の世界にはク……もとい、例のヤツが居ないんだ。
王様の世界はすごく想像通りの異世界で、テレビも無いし電話も無い。パンはあるらしいけど、クロワッサンは無い。種類によるらしい。後はシュークリームも無い。
世界を脅かす敵はいる。
「侵略者」と呼ばれるそいつらと戦っている最中に、王様はこの世界へ転移してきた。
私自身、この目で見た。王様と共に転移してきた「侵略者」とやらを。そのビジュアルがあまりにも今目の前にいる例のヤツに似ていたことまで、ハッキリ覚えている……正直、忘れたくはあるけども。
そんなわけで、王様からしてみればアレは侵略者に見えたらしい。即座に臨戦態勢に入るのも流石だ。カッコいい。その上ですぐに「あれは違う」と気付くのもすごい。賢い! ……とか言ってる場合ではなく。
「そうですそうです。あれはその、虫です」
「ふぅん?」
「の中でも、あの、すごい、ヤバイ奴です」
じり、じりと王様の側ににじり寄って、不敬にもその背中に身を隠す。王様はきっと気付いているだろうけど気にした様子はなく、ちらりと背後の私に視線を向けた。
「あなたに害をなす存在?」
「そ」
そうです、が本音だけれど。
アイツだって生きているだけで、別になにかしようとしているわけではない。それを私が勝手に嫌がって苦手に思っているだけだ。
と、いうことで、
「……そう、ではないです」
私は項垂れる。
駄目だ、流石に嘘は言えない。実際に侵略者と戦っている王様相手に、攻撃されているわけでも命を脅かされているわけでもないヤツを害とかそんなこと……どれだけ嫌な存在でも流石に言えない……!
ぐう、と喉を鳴らす。まぁそもそも、例のヤツは本当になにも悪くなく、これは私自身の問題だ。それは分かる、分かるんだけども、じゃあどうするのかと言えばこうしてただただヤツに怯え続けることしかできない。これはもうどうしようもないのだ。だって苦手だから。私は、弱い……。
そうして私がうだうだしていれば、不意に目の前の王様が動く気配を感じた。
顔を上げると、王様は生け垣に近寄っていた。王様愛用の汚れ一つない白い手袋に包まれた手がすっ、と上がり、生け垣に伸ばされる。そして――その指先がヤツに触れた所で、私はもう見ていられなくなって目を閉じてしまった。
「チアキ、チアキ」
強く目を瞑った、ほの暗く赤い世界に、王様の声がかかる。
「もう良いわよ。逃がしておいたから」
「……本当ですか?」
「えぇ」
そろり、と目を開けると、王様は柔らかく微笑みながら生け垣の葉を見ていた。私の視線に気付いてこちらを向く。
「害ではないと言うから、ここから道の方に降ろしたのだけれど、どう?」
「……王様」
「なに?」
「ほんっ、とうに……ありがとうございます」
溜めに溜めた感謝の言葉に一体どれだけの感情が籠っているか、王様に伝わっているだろうか。
王様は微笑んで胸を張る。そして一言。
「王が民の憂いを排除するのは当然のことよ」
ほう、と息を吐く。まさか虫を取ってもらう場面でこんな台詞が出てくるとは。
この王様ムーブにももう慣れた、つもりだったけど、未だにちょっと圧倒される。王様相手なのだしまぁそうか。寧ろ気圧されるのが当然かもしれない。
「本当に王様のおかげです、これでこの辺りを切れますよ」
「それは良かった。他にはなにか、私ができることはある?」
「いえ、もうここで終わるので。ちょっと待っててもらって」
「分かった」
王様が頷いたのを見て、私は改めて剪定を再開する。刃を握っていた剪定バサミをくるりと回して持ち直し、飛び出た枝に狙いを定めた。




