ヘンピ島の春2
首筋から血を流しながら白髪の老人の海賊船長はよろめき、島長の屋敷の塀にもたれかかる。
着地したジエルは、微かに生きている海賊船長にトドメを刺そうと思うが、背後からした物音に振り向くと、配下海賊がパニック状態で弾丸を装填しようとしている事に気が付く。
「ひぃぃぃ……!」
配下海賊は手が震えて弾丸を地面に落としてしまう。配下海賊が拾おうと手を伸ばした時に、突然現れたアーサーに切られ、配下海賊は頭を縦に真っ二つにされて死んだ。
ジエルはいきなり姿を見せたアーサーに驚く。
「屋敷の裏から入ってきたの? 銃を持った海賊が2人いるはずだけど」
「もう殺してきた、屋敷の裏の海賊も、港の海賊も全てな」
アーサーは両手を触手にしているジエルを睨む。ジエルはたじろいだが、アーサーは視線を海賊船長に移す。
「……見覚えのある顔だな」
息も絶え絶えの海賊船長は自虐気味に笑みを浮かべる。
「アーサーか……王都で会ったきりだな……」
「俺と同じく王家直轄の超常者だったあんたなら、銃を持ち出して海賊どもに渡す事が可能か。死ぬ前に教えろ、何故このような事をした?」
「北部の戦線で超常者達に嫌気が差して、王都に移った……ここまではお前と同じだが、俺は……人間そのものに嫌気が差してしまってな……同じ超常者であるお前なら、俺の気持ちが分かってくれるだろう……?」
白髪の老人の言葉に、アーサーは不愉快だという顔をする。
「俺は疲れて倒れ込むのなら、自分1人で倒れようと決めている。あんたと一緒にするな」
首筋から流れる血で、白髪の超常者の服は真っ赤に染まっている。今にも呼吸が止まりそうな体で、白髪の老人は悲しそうに微笑む。
「俺も……そうしようと……思って……いた……ん……だが……な……」
老人の頭が力無く落ちた。大きい生命力が入ってくるのをジエルは感じる。
『すごい……超常者を倒すと、ここまでも生命力を得られるんだ……』
『生命力を吸収できて喜ばしい事だけど、今はそれどころではないわ』
アーサーは海賊船長の死を見届けると、ジエルを睨みつける。
「お前、まさかその姿で自分は人間だと言うつもりはないよな? やはり魔族だったか」
アーサーから発せられる生物としての圧倒的な強さにジエルはたじろぐ。アーサーは先ほど海賊を切り殺した時から剣を抜いたままで、ジエルが自分の頭を真っ二つにされる光景を想像した直後、シルバーの声が響く。
「待って下さい! アーサーさん!」
窓から飛び降りたシルバーが、ジエルを庇うようにアーサーとの間に割り込む。シルバーの行動を見たアーサーは苦々しい目をする。
「どけ、そいつは魔族だ、見て分からないか?」
「……確かにジエルは魔族なのでしょう。しかしジエルは私達を助けてくれました、殺さないで下さい」
魔王は好機だと判断する。
『ジエル、シルバーを人質に取りなさい! この場を抜け出すにはそれしかないわ!』
ジエルは自分を庇っているシルバーの背中を見るだけで動こうとしない。魔王は言う通りにしないジエルを見て苛立つ。
『何やっているの、早くシルバーを人質に取れ! アーサーには確実に勝てないのよ!? そうしなきゃ殺される!』
魔王は早くシルバーを人質にしろとジエルに怒鳴るが、ジエルは魔王の指示を無視した。アーサーはゆっくりとジエルとシルバーに向かって歩いてくる。
「この南の海域では魔族の脅威はほぼ無いが、魔族が人間の絶対的な敵であるという価値観はあるはずだ。それなのに何故その魔族を庇う」
「確かに、この島にも魔族は問答無用で人間の敵だという考えが浸透していて、もしこの場に知らない魔族が1人現れたのなら、私は躊躇なく武器を向けられますし、殺せと島民達に指示を出す事に戸惑いはありません。ですが、私はジエルには武器を向けたくないし、向けさせたくもありません」
ジエルを庇うシルバーの発言に、アーサーが目を細める。
その時、たくさんの人々の足音が聞こえてきた。
港で戦っていた島民達が戻ってきたのだ。武器を抱えて笑顔で歩いている人々の中には島長の姿もある。
「勝った勝った! 海賊を追い払ってやったぞ!」
「アーサーさんが1人でほとんど倒してくれたけどな」
「でも俺も海賊に一撃を食らわしてやったぜ! 嫁に自慢できるよ!」
嬉しそうに賑わっていた島民達は、ジエルの両手が触手になっている姿を見ると、不気味なものを見たという反応をして騒ぎ出す。
「何だあの腕? 青くて長くて化物みたいじゃないか」
「超常者は腕があんなふうになるのか? でもアーサーさんの腕は普通だぞ?」
島民達に不気味なものとして見られたジエルは、能力を使用して触手を縮め、右手は刃の付いた状態、左手は人間と変わらない状態にする。島民達は両腕の形が変わったジエルを見て更に騒ぎ出し、悲鳴をあげる人もいた。
人混みの中から島長が歩み出てくるとアーサーに尋ねる。
「アーサー、一体何事だ?」
「青い鎧は魔族だった、シルバーは今こうして庇ってしまっている」
ジエルが魔族だと知った島民達は一斉にざわめき出す。島長も驚いた様子を見せた後、残念だという顔をする。
「そうか……シルバー、こっちへ来なさい」
「お断りします父上」
アーサーはシルバーに近付く。シルバーはジエルを守るように立ち塞がったが、アーサーに腕を掴まれて簡単に引き剥がされてしまう。
「ジエルは私達を助けてくれました、悪い魔族ではありません! 一緒に海賊退治をしたアーサーさんなら知っているはずです!」
シルバーはジエルの前から離れたくないと抵抗し、刃の付いているジエルの右腕を掴む。アーサーが剣を振り下ろすと、シルバーに掴まれていたジエルの右腕が切断された。断面から血が飛び散り、ジエルと魔王は動揺する。
『言わんこっちゃない! 早くシルバーを人質にしなかったから!』
『だって! でも、今のなら……』
ジエルの右腕が再生を始めるが、生え終わる前にアーサーはジエルに切りかかり、生えかけの右腕を再び切断した。今度は血は吹き出さない。ジエルはある事に気が付く。
『アーサーの動きが微かに見える! 昔は全然見えなかったのに、今はちょっぴりとだけど見る事ができている!』
『海賊の生命力を吸収する事で強化されたのよ。今のあなたならばアーサーに一瞬の隙を作れるかもしれない。いえ、作るの!』
ジエルは背後に飛んでアーサーとの距離を取ろうと足を屈めるが、動きを見たアーサーにジエルの右足は切断される。
ジエルは左の手のひらをアーサーに向け、アーサーがジエルの動作に疑問を持った時、ジエルの左手の付け根から銃弾が発射される。魔王の計画通りだ。
『片手銃の銃弾はまだ1個残っていて、ジエルの左腕の中に隠していた。今までの時間を使って、左腕の中に銃弾を発射するための構造を作っていた』
銃弾はアーサーのアゴに命中するが、肌に傷は付いていない。
『両手銃の弾丸を弾くアーサーの肌ならば、片手銃の弾丸も当然弾く。でも衝撃は伝わる。アゴに強い衝撃を受けた事でアーサーの意識は一瞬飛ぶはず、今のうちにシルバーを人質に取りなさい!』
魔王の推測通りにアーサーは一瞬意識を失い、右足を失って尻餅を付いたジエルへの追撃はない。シルバーを人質に取って、アーサーの動きを封じられる絶好のチャンスが訪れる。
しかし、ジエルは動かない。魔王はジエルを怒鳴る。
『何故シルバーを人質に取らない!?』
アーサーの視点が定まり、意識が戻った。ジエルはアーサーを見上げて声をかける。
「アーサー、待って……」
アーサーはジエルの呼びかけを無視して、ジエルの左腕を切断する。魔王はすぐさま能力を発動してジエルの右足を再生しようとするが、生えかけの時点でアーサーに切断されてしまう。
『この化物! これじゃあ何もできやしない!』
魔王は手足を生やそうとしても切られてしまうと判断して再生を諦め、断面から流れている血も止める。
両腕と右足を切断されてしゃがみ込んでいるジエルは、恐怖の顔でアーサーを見上げた。圧倒的な武力を前に、ジエルは反撃する気力を完全に失ってしまっている。
シルバーは島長と島民達に引っ張られてジエルから離された。ジエルは震える唇で、アーサーに恐る恐る声をかける。
「アーサーは……ボクをどうするつもりなの……?」
地面に座り込んでいるジエルを、アーサーは見下ろす。島に上陸したジエルの兜を切った時よりも冷酷な目だ。
「殺す。人間の生活圏に入り込んできた魔族は殺すに決まっている」
アーサーの殺害宣言を聞いたジエルの目に涙が溜まっていく。
「ひどいよ……この服、シルバーに買ってもらったのに切っちゃって……切られる前から海賊に撃たれて穴が空いていたけど、更に切るのはひどいよ……」
ジエルの目から涙が流れ、鼻水も垂れ出す。
「ひどいよぉぉぉ……魔族だと隠していたのは悪かったよぉぉぉ……撃ったのも反省しているよぉぉぉ……どうしてボクを殺すの? ボクは人間は海賊しか殺していない、悪い人間しか殺していないんだよ? アーサーも海賊を殺しまくったじゃないかぁ……やめてよぉぉぉ……お願い殺さないでぇぇぇ……」
ジエルの悲痛な声を聞いたシルバーは居ても立っても居られなくなる。
「ジエルを殺すだと!? 何故そんな事をする、なんの権利があってジエルを殺すんだ、ふざけるなぁ!」
怒声をあげてジエルの元へ行こうとするシルバーを、島長が口を押さえ、島民達が必死に体を抑えつける。シルバーはそれでも暴れるのを止めない。
いつアーサーがジエルを殺してもおかしくない状況なのに、シルバー以外の島民達は誰1人ジエルを助けたり庇う発言をしない。ジエルに冷たい目や、軽蔑の目を向けている人達もいる。
「腕の断面を見てみろ、青色だ、化物の肉の色だ」
「魔族が忍び込んできて、何をしようとしていたのやら、恐ろしい」
「アーサーさんがいてくれて良かった」
アーサーは表情を押し殺しながら剣を掲げた。そのまま剣を振り下ろしてジエルを切り殺すつもりだ。
泣きじゃくるジエルの体から魔王の霊体が出てくる。魔王は赤い髪に赤色の目で、ジエルは青い髪に青色の目なので2人の色合いは違うが、ジエルは人型になった時に魔王の姿を参考にしたので、魔王とジエルは顔立ちが似ていた。
霊体の魔王はジエルを守るように両手を広げて、アーサーの前に立ち塞がる。
『やめなさい、誰の許しを得て人間ごときが私の配下を殺そうとしているの。こいつを殺したら末代まで祟ってやるわよ』
アーサーに魔王の姿は見えていない。魔王はアーサーの視線から自分の姿が見えていない事を知ると、下唇を噛みしめた。見えていないのなら触れられもしない。魔王はどうすればジエルを守れるのか必死に考えたが、解決策は思いつかない。
その時、女性の声が響く。
「やめてアーサーさん!」
ブルーが叫び、屋敷から飛び出してジエルの元へ駆け寄ってきた。アーサーは慌ててブルーの腕を掴んで、ジエルに近付くのを阻止する。
「何をしている! 近付くな!」
娘のブルーの行動に島長も目の色を変える。
「アーサーの言う通りだブルー! 魔族は危険だ、近寄るな!」
「何が危険だと言うのですか、父上!」
アーサーに腕を掴まれているブルーは、堂々とした顔を島長と島民達に向けて、芯の通った声で問う。
「ジエルさんが今まで私達のためにどれほど戦ってくれた事か、思い出して下さい! 海賊にさらわれた兄上を救出してくれて、私達が平穏に暮らせるようにと海賊退治をしてくれて、そしてついさっきも屋敷に残っていた私達を守るために、危害を加えようとしてきた海賊達と戦ってくれたんです!
私達はジエルさんに助けられた事はあっても、危害を加えられた事はありません。それなのに魔族というだけで冷たい目を向けて、殺そうとまでするんですか!? ジエルさんと貴方達のどちらが人間らしくて、どちらが化物なんですか!」
ブルーはいつしか泣き出していた。島民達は気まずそうにうつむく。
ブルーの泣き顔とジエルの怯え切った姿を見て、アーサーに北部での記憶が蘇える。人間の軍人に酷い目に遭わされて泣いて怒り、人間の超常者に怯えて震え上がっている魔族達の顔が、アーサーの頭の中にたくさん浮かび上がってきた。
アーサーが戸惑っているのが見て分かったブルーは、アーサーに声をかける。
「アーサーさん、剣を収めて下さい。ジエルさんを殺してしまうと、この場にいる全員が後悔します」
島民達の視線がアーサーの剣に集まり、剣を握るアーサーの手が緊張したように震えた。決意したような目をアーサーがした事から、アーサーがこれから何をするつもりなのかシルバーとブルーは気が付き、呼び止めようと口を開く。
「やめ……」
声が発せられる前に、ジエルの首はアーサーによって切断された。ジエルの頭が地面に落ちて転がるのを見て、ブルーは両手で口を覆い、シルバーは信じられないという顔で目を見開く。
ジエルの名を呼ぶシルバーの叫び声が響いた。
葬祭会場には負傷者が集められ、臨時の病院となっている。海賊のほとんどはアーサーが1人で倒したが、少ないながらも島民の間に死傷者が出ていた。包帯を巻いて横たわれる島民達の姿を見て、島長は胸を痛める。
「アーサーがいなければ被害はもっと大きくなっていただろう、感謝する」
「世話になっている礼だ、気にするな。シルバーはどうしている?」
「あの魔族の首を森に埋めにいった後、部屋に戻って塞ぎこんでいるが、お前は正しい選択をしたと私は思っている。シルバーもじきに分かってくれる、気にするな」
暗い表情をしている島長とアーサーに、1人の中年男性が声をかける。
「この度は助けて頂いて感謝します」
海賊を皆殺しにした後、海賊船の中を調べてみると捕まっていた徴税官を発見した。詳しく話を聞くと、王都から税の徴収のために船に乗って南の海域に来た所を、海賊に襲われて身代金目的で誘拐されてしまったという。
島長が礼を言ってきた徴税官に返事をする。
「私達は海賊退治をしただけです。この海域の島長の1人として、海賊の頻出する今の状況を恥じております」
「悪いのは海賊です、お気になさらず。王都から派遣された徴税官である私が被害に遭った事で、王都はこの海域の海賊退治を考えるはずです。私は王都に戻ったら、超常者を含む討伐隊を送るようにと進言するつもりです。これで助けられたお礼になると良いのですが」
超常者を含む討伐隊という言葉にアーサーが反応をする。
「そうなってくれると助かる。俺はいつまでこの島に居られるか分からないからな」
島長も明るい表情になる。
「それは助かります。この島でゆっくりと休んでいって下さい」
海賊との戦いを終えたヘンピ島の陽が落ちていく。
満月の夜。島の海岸の人目に付かない一角に、岩礁が天然の港となっていて船を接岸できる場所がある。
1隻の帆船が岩礁に接岸されていて、船の手前にはフードを被って顔を隠している男性が立っていた。フードからはシルバーの声が聞こえてくる。
「屋敷を襲撃した海賊の船がまだ残っていて良かった。海賊の乗ってきた船は島の所有物という扱いになっているが、島の恩人であるジエルになら渡しても良いはずだ。今夜は満月が出ていて雲に隠れていないから、月の明かりで島を離れる事ができると思う」
シルバーと面を向けて、フードを被っている身長180cmぐらいの女性がいた。シルバーはフードの女性に悲しげな顔を向ける。
「勇者への復讐の旅、どうしても諦めるつもりはないのかい?」
フードの女性は頷いた。月の明かりがフードの中を照らし、暗闇の中にジエルの顔が見える。
「どのみちボクはもうこの島にはいられないよ。生きているのがアーサーにバレたら今度こそ殺されてしまう」
「生きていてくれて本当に良かった。私の力が足りないばかりに、島から追い出すような形になってしまってすまない」
アーサーがジエルの首を切断した後、シルバーはジエルの首を供養したいと申し出た。島長にジエルの供養を許されたシルバーが、ジエルの頭部を抱えて森の中を歩いている時に、頭だけとなったジエルがまだ生きている事に気が付いたのだ。
ジエルは能力で胴体を再生すると森の中に隠れ、シルバーは秘かにジエルを島から脱出させる準備をして、今に至る。
「船をもらって、服を買ってもらって、ボクはシルバーにもらってばっかりだ」
「私も命を助けてもらった、おあいこだ」
ジエルとシルバーが微笑み合った時に、木の枝が踏まれて折れる音が聞こえた。2人が足音のした方を見ると、アーサーがいる事に気が付く。フードを被ったジエルと、アーサーの目が合う。
「……やはり生きていたか、超常者を殺したにしては生命力が入ってくる感覚が無かったからおかしいと思っていた」
ジエルは怯えて一歩後退り、シルバーは守るようにジエルの体を隠して立つ。
「アーサーさん、ジエルはもう島から出ていく所です、殺す必要はありません」
「早とちりするな。殺すつもりならとっくに殺している」
ジエルは恐怖で強張った顔でアーサーに尋ねる。
「ボクを見逃してくれるって事?」
「魔族は絶対の悪という価値観の結果が、今の北部の惨状だ。俺は人間が正義で魔族が悪という価値観を信じられなくなってしまった。お前の首をはねた時に俺は後悔をして、お前が生きていると知って時にはホッとした。頭だけで生きているというのは驚きだがな。
お前を本当に殺してしまうと俺は更に後悔をする事になる。だから今の所はお前を殺さない」
「首を切る前にそう思って欲しかったものだよ。今の所は殺さないという事は、まだボクを殺す事を諦めていないという事なのかな?」
「お前が無差別に人間を殺したのならば、俺はお前がどこにいようと必ず見つけ出して殺す」
アーサーならば本当に世界のどこに隠れても、見つけ出されそうだとジエルは思う。
「……ボクは仲間達を殺した勇者への復讐を止めるつもりはないよ」
「お前なりの善悪の基準を持て、無差別には人間を殺すな。分かったならとっとと島から出ろ、誰かに見つかると厄介だ」
ジエルにとっての善でも、アーサーにとって悪ならば、アーサーは自分を殺しに来るのだろうかとジエルは思う。ジエルは尋ねる気にはなれずに不機嫌な目でアーサーを見ると、大げさにアーサーから顔を背けて船に乗り込んだ。
アーサーは船上のジエルを見上げて声をかける。
「勇者へ復讐するとお前は言うが、勇者は俺よりずっと強い。本当に覚悟ができているのか?」
ジエルはアーサーに向かってしかめっ面をして舌を見せた。シルバーもジエルを見上げて声をかける。
「ジエルへの恩はまだ返し終えていない、この島に戻ってきてくれたら嬉しい。いつでも良いから、明日でも良いから戻ってきてくれて構わないから」
ジエルはシルバーに向けて笑顔で大きく手を振ると、船の帆を張った。海岸から離れていく船の上から、海岸にいる2人に聞こえるようにジエルは少し声を張る。
「ありがとう!」
ジエルのお礼の言葉を聞いたシルバーは嬉しそうに笑い、アーサーは波の音で聞こえない振りをした。
朝日が水平線から昇ってくるのを、舵を握っているジエルが眺めていた。ジエルは口を大きく開けて欠伸をする。
「眠いぃ……」
『我慢しなさい、できるだけ早くヘンピ島から離れた方が良い。アーサーの気分が変わって追ってくるかもしれないから』
眠そうな目で舵を握っているジエルから、魔王の霊体が出てきた。魔王は船の縁に座ると、様子をうかがうような目でジエルを見る。
『……ジエル、あなた、今のあなたで幸せ?』
『なにそれ、どういう意味?』
『私があなたに憑依した事で、あなたは知性を得て様々な事を知った。でもそれは様々な不幸を知ったという事になる』
『ボクの頭が良くなった事を、ボクは幸せに感じているかという事?』
魔王はジエルに怒られるのを怖がるような表情を見せたが、すぐにいつもの太々しい態度になる。
『魔王であるこの私に憑依されたんだもの、幸せと思っているに決まっているわよね』
ジエルは水平線に島影を見つける。
「島がある、食料を確保できるかも」
『島長の小僧からある程度はもらっていたでしょう。今は一刻でも早くヘンピ島から離れときたいんだっての』
「あれっぽっちじゃ足りないよ、能力を多用したからお腹も空いているし。少しぐらいなら寄り道しても良いでしょ? ね、ね、お願い魔王様」
魔王は子供のわがままを聞いたような顔をして微笑む。
『仕方ない、短時間だけよ』
魔王の許可をもらったジエルは島に向かって舵を取った。
船が島に近付くと、島には数えきれない程の桜の木が生えているのが見えた。花を咲かせた無数の桜の木々が朝日に照らされている。
海が桜色である事を不思議に思ったジエルが目を凝らしてみると、桜の花びらが一面に浮かんでいる事に気が付いた。
幻想的な風景にジエルは目を奪われるが、桜色に埋め尽くされた景色を見ると一転して、勇者によって故郷のスライム達が皆殺しにされた血まみれのイメージに変わってしまう。
激しい怒りを感じたジエルは、桜の花びらが舞っている光景から、シルバーと一緒に桜の咲く海岸を歩いた時の事を思い出す。
ジエルの血まみれの真っ赤なイメージは、1枚の桜の花びらをきっかけに消えていき、現実通りの桜の花だらけの景色にジエルは目を奪われる。
『ボクは魔王様に憑依されて、知性を得て幸せだよ。だって昔のボクだったら、この風景の素晴らしさを分からなかっただろうから』
ジエルの言葉を聞いて、魔王は安心したように微笑んだ。
海風がたくさんの桜の花びらを船まで運んできて、1枚の花びらがジエルの鼻の上に落ちる。ジエルが息を吹くと花びらは宙に舞い、海風に乗ってどこかへと飛んでいった。