ヘンピ島の冬
南の海域に存在するヘンピ島。島の管理をしている島長の屋敷は広く、数人の客人が軽々と滞在できる。
現在屋敷には2人の超常者が宿泊していた。島長と古い友人で40代前半の剣士アーサーと、人間に化けていて魔王の怨霊に憑依されている超常者のスライムのジエルだ。
朝。客間の1つにてジエルが寝ている。布団は畳の上に敷かれていた。ジエルの部屋の前に、島長の娘で紺色の長い髪のブルーがやって来た。
「ジエルさーん、朝だよー」
室内からの返事はない。ブルーは再び声をかける。
「ジエルさーん、起きてー、もう朝だよー」
ブルーの声でジエルは目覚め、まだ寝たいと言いたげに体をよじらせると、掛け布団を抱きしめて再び目を閉じた。
ジエルの視界に表示されているワイプには魔王の肩から上の姿が映っている。ジエル本来の視界とワイプは二重構造になっていて、ジエルは同時に視認できるのでワイプは視界の邪魔にはなっていない。
ジエルと魔王は他人には聞こえない念話で会話ができた。魔王は念話でジエルを怒鳴りつける。
『起きろ!』
ジエルにしか聞こえない魔王の声が頭の中で強く響き、ジエルは魚のように飛び起きた。ちょうど部屋の扉を開けたブルーは驚く。
「そんなに驚かなくても……」
ブルーはジエルの大げさな起き方に苦笑いをした。
『不審に思われる事をするんじゃないの』
『今のは魔王様が悪いんじゃないか、びっくりさせないでよ』
ジエルは気怠そうに枕を抱きしめると目を閉じた。なおも起きようとしないジエルの姿を見て魔王は厳しい目を向けて、ブルーは苦笑いをする。
「ジエルさん起きて、朝ご飯が冷めてしまうよ」
「ご飯が冷めるのは嫌だ、でも起きたくはない、だって起きても何もやる事がないから」
しぶしぶ起きたジエルが屋敷の廊下をブルーと歩いている。身長が180cmあるジエルはひと際背が高い。ブルーは寝間着からきちんとした服に着替えていたが、ジエルは寝間着である浴衣のままだ。
寒そうに体を震わせるジエルをブルーは見る。
「もう冬だから浴衣のままでいると風邪をひいちゃうよ? 兄上が職人に仕立てさせた服は着ないの? もう出来上がっていると聞いたけど」
「あれは大事にしまっているよ」
「着てあげて?」
ブルーは苦笑をした。2人は廊下でブルーの兄のシルバーと出くわす。
「おはよう兄上」
「おはようブルー、ジエル……ぅ!?」
ブルーは兄の不思議な態度から、ジエルの胸元がはだけていて胸の谷間が露わになっている事に気が付くと、慌ててジエルの浴衣の帯を締め直してあげる。
「もうジエルさん、男の人の目もあるんだから気を付けないと」
「少しぐらい見えても構わないでしょ」
「駄目! ジエルさんは自分の魅力を自覚しないと危ないよ! 兄上の鼻の下を伸ばした顔を見たでしょう? 浴衣だから胸元が見えてしまうんだよ、きちんと服を着る事、わかった?」
妹に指摘されたシルバーは苦笑いをした。
「でも汚したら悪いし、シルバーもお金を出して作らせた服を汚して欲しくないでしょ?」
シルバーはジエルの少しズレた気遣いに対して微笑みを返す。
「服は消耗品だから汚れたり痛んで当然だ、私としてはジエルの好みに合うのなら着て欲しいと思っている」
「そうなんだ、じゃあ着るよ」
シルバーとブルーの兄妹は笑顔を向け合った。
居間にて島長、アーサー、シルバー、ブルーが1つのテーブルを囲んで座って朝食を食べている。ジエルも同じテーブルに座り食事をとっていた。
ジエルはアーサーに冷たい目を向ける。アーサーはジエルの視線に気が付く。
「何か言いたそうだな、不満でもあるのか?」
「ボクが常に文句を言うと思わないでよ。冬は流氷があるから船を出せないのは分かるけど、海賊退治にはいつになったら行けるのか気になっただけ」
アーサーは味噌汁をすする。
「春になれば海流の向きが変わって流氷が南に流れていくから、それまで待て」
「春までって長い、頑丈な船なら流氷のある海に出られるんじゃないの?」
ジエルは流氷のせいで船が出せないと分かっていながらも不満げだ。ヘンピ島の島長がジエルの疑問に答える。
「今までにもそう考えた人達が、流氷に耐えられる船を造ろうとしてきたが全て失敗に終わった。人間は自然の前には無力という事だ、大人しく春まで待つしかないのだよ」
それでも不満を顔に出すジエルを見て、アーサーも島長に続いて説得をする。
「船が沈没して冬の海に投げ出されれば超常者だって死んでしまう。早く海賊退治を再開させたいのは俺も同じだが、今は待つしかない」
「わかったよ……待つ」
ジエルは面白くなさそうに味噌汁をすすった。
朝食を食べ終わったジエルは自室に戻り、タンスに入っている服を手に取る。シルバーに作ってもらった服だ。
ジエルがコートを羽織り、釣り道具一式を持って屋敷から出ようとしていた時に、シルバーに声をかけられる。
「釣りにいくのかい? 私も御一緒していいかな?」
「良いよ、たくさん釣れる場所を教えて」
「任せてくれ、伊達にこの島で生まれ育っていない」
シルバーは少し驚いた。ジエルがいきなりコートの前を開いたからだ。その理由をシルバーはすぐに分かった。シルバーに買ってもらった女物の服をジエルは着ていた。
「似合っているよ、ジエル」
嬉しそうに顔を赤らめるシルバーに向かって、ジエルは自慢げな顔をした。
一緒に釣りをする事になったジエルとブルーは、道具を持って島の海岸線を歩く。ジエルの羽織っているコートはシルバーに貸してもらった物だ。道中、すれ違った島民達はジエルに向かって笑顔を向けてきた。島民の態度を見てジエルは意外だという顔をする。
『ボクが島に来たばかりの頃とは島民の態度が違っている』
ワイプの中の魔王は鼻で笑う。
『あなたに愛想を振りまいたのは、おだてれば海賊を退治してくれると思っているからよ。人間が超常者と接する態度は2つに分かれる。恐れて遠ざかるか、媚びを売って利用しようとするか。人間はそういう薄汚い考えをする生き物なのよ、油断しては駄目』
魔王の忠告を聞いたジエルは不愉快な気分になった。先程の友好的に接してきた島民の態度を少しだけ嬉しいと感じていたのに、裏切られたと思ったからだ。
島を散策し、美しい入り江を発見したジエルはそこで釣りをしようと思い立つ。
「あそこでしようよ」
「いや、あの入り江で釣りをしては駄目なんだ」
「どうして? あそこで釣りをしたら楽しそうなのに」
ジエルは不満げな顔でシルバーを見つめた。シルバーは困った顔を浮かべた後、表情を沈める。
「あの入り江にはこの島の御先祖様達が眠っているんだ、私の母も眠っている」
「海の中で寝ているって事? 何それ、助けた方がいいんじゃない?」
シルバーは微笑みながら首を横に振る。
「ゆっくりと寝かせてあげてくれ、釣りは別の場所でしよう、私のお勧めの場所があるんだ」
そう言うとシルバーはジエルを先導するように歩いていった。
釣りに良さそうな場所を見つけた2人は、適当な所に座ると釣り糸を垂らした。明るい太陽に照らされた綺麗な海で、ジエルと肩を並べて釣りをしている光景にシルバーは頬を染める。
「釣りが好きなのかい? 船に一緒に乗っていた時も風がなくなったら釣りをしていたが」
「別に、他にやる事がないだけ。風がないと船は動かせないから、釣りをして風が吹くのを待つしかなかったんだ。ようやく風が吹いたと思ったら強風すぎて船が沈みそうになったけど」
「あったな、そういう時が」
静かなままの釣り糸を眺めて、ジエルは退屈そうな顔をする。
「早く春になって欲しいよ、とっとと海賊退治をしたい。この島の人達は冬の間に船を出せなくてよく平気な顔をしているよ、ボクは既に退屈で嫌になってしまっているというのに」
「毎年の事だから慣れているんだよ。それに船に乗るのは楽しいけど、同時に大変でもあるから休みたいと思う時もある。冬の間に船を出せない事で、春になったら船に乗る楽しさを思い出す事ができるのだと私は思っている」
「美味しい食べ物もそればかりだと飽きるのと同じか」
横でのん気に釣り糸を垂らしている女の子は、春になれば海賊と殺し合いをするために海に出るのだとシルバーは思う。
「ジエルが海賊退治をしてくれている事には感謝している。できれば私も一緒に海賊退治に行きたいと思っているのだが父上に反対されてしまってな。ジエルにだけ危険な事を押し付けてしまって情けない話だ」
「シルバーは島長の息子だからこの島を所有する予定なんでしょ? 死んだら皆が困るんじゃない? 参加しない方が良いよ」
「違うよジエル、この島は王様の領地であって、島長は王様の代理として統治しているだけだ。年に1回大陸からやってくる徴税官に税を払っている」
「ふーんそうなんだ、この島をシルバーのポケットに入れられなくて残念だね。でも重要っぽい立場みたいだし、やっぱりシルバーは海賊退治に参加しない方が良いよ。シルバーは弱いから海賊に簡単に殺されてしまうだろうから」
面と向かってジエルに弱いと言い放たれたシルバーだが、不機嫌にはならない。素手で釣り竿を持っているジエルに、シルバーは自分の手袋を外して差し出してあげる。
「手が寒いだろう、つけた方が良い」
手袋をつけたジエルは暖かさに笑顔になったが、何かに気付いたように表情が曇る。シルバーが海賊退治をさせるために媚びてきたとジエルは思ったのだ。
「媚びを売らなくても、海賊退治はしてあげるよ」
「媚び? どういう事だ?」
「島民も、きみもブルーも、ボクが超常者で海賊退治をして欲しいから優しくしているんでしょ? そんな事しなくても海賊は殺してあげるから安心しなよ」
釣り竿を剣に見立てて軽く振ったジエルを見て、シルバーは悲しそうな顔をする。
「初めは、海賊から助けてくれた恩人という事でジエルに優しい態度を見せていた。だけど今は違う。恩人だからとか、超常者だからという理由でジエルと一緒にいるわけではない」
シルバーは顔を赤くして言ったが、ジエルは冷めた目をシルバーに向ける。
「また優しい言葉をかけちゃってさ、ボクは魚と違って釣り針には食いつかないから」
猜疑心たっぷりの目を向けてくるジエルに、シルバーは苦笑する。
「釣り糸を垂らしているつもりはないよ」
ジエルは何やら気付くと、釣り糸を眺める目が鋭くなる。
「……シルバーは釣り針にかかったら、どう思う? やっぱり嫌かな」
真剣なジエルの声色に、シルバーはジエルの横顔を見つめた。いつもの飄々とした態度のジエルではない事にシルバーは気が付き、何を言うべきか少し考えてから口を開く。
「釣り竿を持っている人に悪意がないのなら、釣られたとしても謝ってくれるのなら私は許すよ。ひょっとして、ジエルは何か隠し事をしているのかな?」
シルバーの心を読んだかのような発言に、ジエルはシルバーの顔を凝視する。2人は顔を見合わせ、シルバーの包み込むような表情を見たジエルは意を決したように口を開く。
「ボクは、実は……」
『ジエル……』
ジエルの口が固まった。魔王が能力を発動してジエルのアゴの関節を硬質化させたのだ。動かせない口と視界に移る魔王の厳しい顔を見て、ジエルは内面の恐怖を自覚して身をすくませる。ワイプの中の魔王は厳しく問う。
『何をしようと思ったの、正直に言ってみなさい』
『ごめんなさい……魔族である事はもう絶対に言おうと思わないから、許して……』
謝ったジエルに、魔王は表情を和らげてあげる。
『人間に心を許しすぎよ、以後は気を付けなさい』
アゴが動くようになったジエルは安心して溜め息を吐いた。シルバーは不思議そうな顔でジエルを見ている。
「ジエル? どうかしたのか?」
「何でもない、気にしないで」
2人は釣りを続けた。釣りを始めてから魚は1匹も釣れない。1人の島民がシルバーがいる事に気が付くと近付いてきた。シルバーより確実に年上の年配の男性で、重々しい表情でシルバーに声をかける。
「ここにいたんですかシルバーさん、探していたんですよ」
「何かあったんですか?」
島民は言いにくそうな態度をとってから口を開く。
「ソルトさんがお亡くなりになったんです、島長がシルバーさんを探していました、戻った方が良いかもしれません」
死の知らせを聞いたシルバーは目を見開いたが、納得した様子になると静かに微笑んだ。
「わかった。すまないジエル、私は今から家に戻らなければいけない、ジエルはどうする?」
「何があったの? ソルトって誰?」
「ソルトさんはこの島の名家の人で、もういい歳のお婆さんだから最近は体を壊していて、いつ死んでもおかしくない状態だったんだ」
「その人の事、嫌いだったの?」
ジエルの質問を聞いてシルバーは困惑した顔をした。その場にいた島民も妙な事を聞いたという様子だ。シルバーの反応を見たジエルは質問をなおもぶつける。
「だってその人が死んだと聞いた時に笑っていたから、嫌いな人が死んだから嬉しくて笑顔になったんじゃないの?」
ジエルの言いたい事が分かったシルバーは笑みを浮かべる。
「違うさ、嫌いというわけではない、満足して安らかに旅立てた事だろうと思ったんだ」
ジエルは何故そのソルトという人間が満足して死ねたのだとシルバーに分かるのか疑問に思った。しかしシルバーの顔を見ると疑問を尋ねる気はなくなる。
「ボクはまだ帰らない、魚が釣れていないし」
「そうか、暗くなる前には家に帰ってきてくれ、夜にはソルトさんの通夜が開かれるからジエルも出席して欲しい」
島民と一緒にシルバーは屋敷へと戻っていった。シルバーの背中をジエルは見送る。
「ツヤってなんだろ、美味しいのかな」
『食べ物じゃないわ、死を見送るための儀式で、人間の死体を前に一晩飲み食いをした後に死体を焼くの』
『それは豪華なものだ』
その後ジエルは夕暮れまで釣りを続けたが魚は小魚が1匹しか釣れず、焼いて食べはしたが、食べた気がしないまま落ち込みながら屋敷へと帰った。ブルーがジエルを出迎える。
「おかえりジエルさん。ソルトさんという名家の人がさっき亡くなって、夜には通夜が開かれるからジエルさんも参加してあげて。兄上は今、葬儀の手伝いに行っているよ」
通夜に誘われたジエルは喜び、自分の部屋にて夜を待つ事にした。夜を通して開かれると聞いたジエルは今のうちに寝ておこうと目を閉じる。いつの間にか寝ていたジエルはブルーの声で起こされる。
「起きてジエルさん、もう通夜が始まっているよ」
ジエルは目をこすりながら起きると、ブルーが黒ずくめの衣装に身を包んでいる事に気付く。
「いつもと違ってカラスみたいな格好」
まるで葬儀の風習を知らないようなジエルの言葉に、ブルーは不思議だという表情をした。ブルーは黒い喪服をジエルに差し出す。
「葬儀の時には喪服を着るものでしょう? ジエルさんの故郷では違うの? ジエルさんの背丈に合う喪服を探してきたから、通夜にはこれを着て出て」
ジエルは黒い喪服を受け取ると納得した様子で頷く。
「なるほど、食べる時に汚れても良いように黒色の服なんだ」
「へ? まあ、黒色は汚れが目立ちにくいけど? とにかく喪服を着て通夜に行こう、父上と兄上は先に行っているから」
喪服を身に纏ったジエルはブルーと一緒に亡くなった葬儀会場へと向かった。村には葬祭会場があり、老婆ソルトの遺体はそこに運び込まれ、通夜が開かれる事となった。葬祭会場は島長の屋敷ほどではないが村の中では大きい方の家で、多数の人を受け入れる余裕がある。
老婆ソルトの遺体は会場の中の一室に安置され、そことは別の空間である広間には、人々が集まり飲み食いを開始していた。その中にはアーサーの姿もある。アーサーは酒の入った盃を手に持っているが満杯のままだ。アーサーはブルーとジエルが来た事に気が付く。
「お前も来てくれたか」
「なにその態度、ボクは来たら駄目ってわけ?」
「いつ俺が来たら駄目だと言った、こういう場でも相変わらずだな。俺達は今ヘンピ島の世話になっている身で、ソルトさんは島の名家の人。お前も葬儀に参加した方が良いはずだ」
葬儀の場でも喧嘩腰なジエルにアーサーは溜め息を吐いた。ブルーは注意をする。
「今夜は葬儀なんだから、喧嘩は止めてよ?」
「ああ、俺の方でも気を付ける。お前も今夜ばかしは喧々とした態度は抑えてくれ」
アーサーは普段ジエルの喧嘩腰をまともに相手しようとしないが、今夜は更に半ば無視していた。アーサーの元気が無いようだとジエルは感じたが、もし喧嘩されたら堪らないと思ったブルーに手を引かれて、ジエルはアーサーから遠ざけられた。先に葬儀会場に来ていたシルバーがジエルの元に近付く。
「来てくれてありがとうジエル、ソルトさんの顔を一目見てくれ」
シルバーとブルーに連れられ、ジエルは別室に安置されている老婆ソルトの遺体と対面した。遺体を見たジエルは残念だという顔をする。
『あまり美味しそうではない』
『あなたまさか、この人間の死体を食べられると思っていたの? 焼くのは灰にして墓に納めるためで食べるためではないわよ』
魔王からそう教えられたジエルは少し悲しく感じたが、どのみち食べても美味しくなさそう見えるので簡単に諦めた。他に美味しそうな食べ物が会場にはあるのに、この人間の死体に執着する必要はないと考えたのだ。
飲み食いを始めたジエルは、酔っぱらっている老人にアーサーが絡まれている事に気が付く。
「ソルトが死んであんた悲しいだろ。島の連中が超常者のあんたを恐れる中で、島長の次にあんたを認めてくれた恩人だもんな、良い女だったよソルトは。実は俺も昔っからあんたの事は認めていたんだぞ? 言わなかっただけでな」
「……ああ、ソルトさんには感謝しているよ」
アーサーに絡む老人を見て、島民達が慌てて駆け寄る。
「爺さん、アーサーさんに絡むなよ、葬儀が始まる前から飲み始めてんだからまったくもう。すまなかったアーサーさん」
泥酔している老人は島民達に引っ張られてアーサーから離された。老人がアーサーに言った事をジエルは気になったが、尋ねる気にはならなかった。
ジエルは通夜に参加している人々が時たま笑顔を見せている光景を見て、まるで老婆ソルトが死んだ事を悲しんでいないようだと思う。
一夜明け、老婆ソルトの遺体は村の外れにある火葬場まで運び込まれる事となった。島民達が棺を担いで火葬場まで運ぶのが習わしだ。
棺の担ぎ手は遺族がおこない、島長の一族であるシルバーも加わり、アーサーも参加する事となった。
これから実際に棺を火葬場まで運び始めるという時になり、アーサーが遺族に頼み事をする。
「棺を担ぐのをジエルにも手伝わせても構わないか?」
遺族は少し戸惑いながらも了承したが、ジエルは何故という顔をしてアーサーに尋ねる。
「ボクが手伝わないといけない程重いの? それ」
「お前も手伝って人の死の重みというのを感じておけ」
しぶしぶ手伝ってあげる事にしたジエルは、数人の島民達と一緒に棺を担ぐ。複数人で担いでいる事もあり棺は軽く感じる。ジエルは何故アーサーが自分に手伝わせたのか疑問に思う。
ジエルは一緒に棺を担いでいる人の顔を横目で見てみると、泣いている人がいる事に気が付く。棺が運ばれていくのを見守っている人々も、悲しそうな顔をしているようにジエルには見えた。
火葬場に着くと、遺体は大きな専用の窯の中に入れられた。その光景を見てジエルはとある印象を受ける。
『窯の中に入れるって料理をするみたいだ、やっぱり皆で食べるのではないの?』
『燃えている所を見なくて済むように窯の中に入れて焼くのよ。一晩中飲み食いしたのにまだ食べ足りないの?』
『人の目がある前では満足に食べられないんだよ、食べ足りない』
窯に火が入れられる。遺族や島民達の中には泣き出した人がいる。ジエルはシルバーとブルーも重々しい表情になっている事に気が付く。
煙突から昇っていく煙を眺めるアーサーの目から、涙が流れ落ちるのを見てジエルは驚いた。たくさんの海賊を殺しまくったアーサーが、たった1人の人間の死をここまで悲しんでいる事が意外なのだ。
ジエルは火葬場の煙突から出ている煙を見た。獣や魚を焼いている時の焚火の煙と見た目は同じなのに、違う煙であるように感じる。
『やっぱり、あんまり美味しそうではないな』
しばらく経った後、火葬場の火は収まり、窯の中から老婆ソルトの遺灰が取り出された。
葬儀の一行はとある海岸に移動する。そこは今朝ジエルが釣りをしようとしてシルバーに断られた入り江であった。シルバーはジエルに釣りをしては駄目な理由を説明してあげる。
「ここで釣りをしては駄目な理由が分かったかな? ここはヘンピ島に唯一ある墓で、死んだ人が最後に辿り着いて安らかに眠る場所なんだ」
遺灰を持った遺族が海上に突き出ている岩礁に進み出る。遺族は遺灰の入った木箱の蓋を開けると、水平線に向かって箱を差し出した。
少し経つと海風が吹いて箱の中の遺灰をさらい、遺灰の乗った風が大海原に向かって飛んでいった。遺族が空になった木箱を海に浮かべると、木箱は大海原に向かってゆっくりと流れていく。
シルバーがこの動作の理由をジエルに説明する。
「この入り江で流したものは絶対に海岸には戻ってこない。だからここが遺灰を撒く場所にされているんだ、死んだ人の魂が迷わずに死後の世界へ旅立てるようにと」
「ふーん、今は流氷があるからぶつからないと良いけど」
ジエルの言葉に周りにいた島民達が笑みを浮かべた。ブルーも微笑みながらジエルに声をかける。
「流氷にぶつかっても、その流氷に乗って旅立てるよ。春になったら流氷は南に流れていくんだから」
翌日。墓場の入り江に釣り竿を抱えたジエルの姿があった。遺族が遺灰を流した突き出た岩礁にジエルは歩み出ると、岩礁の先に座り込んで釣り糸を垂らし始めた。
ここで釣りをしては駄目という事は人間の風習ではあるが、魔王は一応注意してあげる。
『島民に見つかったら怒られるわよ』
『海は人間だけのものじゃないよ』
ジエルはしばらく釣り糸を垂らしていたが、背後から足音が近づいてくるのに気が付いた。ジエルの背後から聞き覚えのある声が響く。
「おい、ここは釣り禁止だぞ」
背後から聞こえたアーサーの声にジエルは振り返ると、得意げな顔で反論をする。
「ここには死んだ人が眠っているから駄目と言うけど、死んだ人はここから死後の世界へ旅立つとシルバーに教えてもらった。という事はこの入り江には誰も眠っていないから、釣りをしても大丈夫なはずだよ」
アーサーは鼻で笑った。立ち去ろうとするアーサーにジエルは声をかける。
「ねえ、昨日あの人の死体が燃やされている時に泣いていたけど、知り合いだったの?」
アーサーは立ち止まると、ジエルの顔は見ずに海を眺めながら口を開く。
「超常者は人から疎まれやすいというのはお前も知っているな? 俺がこの島に訪れたばかりの頃、島民達は俺を恐れて島に入る事を禁じようとしてな。そういう時に俺を庇ってくれて、島民達が俺を受け入れられるように努力してくれたのがソルトさんだったんだ」
「島長とは昔から仲が良かったんでしょ? 島長は庇ってくれなかったの?」
「もちろん庇ってくれたさ。だが島長の一族といえども1人の発言力というのは弱い。ソルトさんが俺を庇う側にまわってくれた事で風向きが変わったんだ。俺がこの島に受け入れられていなければ、お前も今こうして釣りを出来ていなかっただろう、ソルトさんに感謝するんだな」
アーサーはジエルの持っている釣り竿を指差した。遠まわしにここでの釣りは止めろと言ったのだがジエルには通じない。ジエルは老婆ソルトへの感謝に疑問を持つ。
「超常者は恐れられるか、媚びを売られて利用されるかのどちらだと聞いた事がある。ソルトという人は、きみを利用しようと思って優しくしただけとは思わないの?」
アーサーは怒ったようにジエルを睨みつけたが、ジエルがたじろいだのを見て視線を逸らす。
「正直、何度かその可能性は考えた。だが例え利用されたにしても、損をしていないのなら恩人である事に変わりはないと思う事にして、恩返しのために海賊退治に励んでいる。その方が満たされた気分になれるし、期待ができるからな」
ここでの釣りは止めろと言い残して去っていったアーサーの背中を見送りながら、ジエルはシルバーと自分の関係について考える。
「釣られた魚は、考えようによっては幸せという事か」
ジエルの呟きに魔王が付け加える。
『それで損をしなければの話だけどね』
ジエルは毎日のように、釣りをするために海岸に出かけ、島の近くに浮かんでいる流氷を眺めながら釣り糸を垂らした。
やがて、流氷が少なくなってきている事にジエルは気が付く。そしてある朝、ジエルが釣り竿を抱えて海岸に行ってみると、流氷は1つも見つけられない。
ヘンピ島に春が訪れようとしていた。
時間は遡り、南の海域にある無人島。
その島の一部の岩礁は船を接岸できる天然の港であり、古くから海賊の拠点に使われてきて、現在も何隻かの海賊船が海岸に繋がれていた。
島の奥に少し入った所の森の中には、簡素な小屋が建てられており、中には海賊達が寒そうに火鉢を囲んでいる。室内の一角には1人の海賊が寝っ転がっていた。外から1人の海賊が入ってくると、恐る恐る寝っ転がっている海賊に声をかける。
「船長、もう食料が残り少ないです」
食料が少ないという発言に、室内にいた海賊達が動揺するが、寝っ転がっていた海賊がひと睨みすると静まり返った。
「春までは持ちそうか?」
「持ちますが、春から先はどうします? 海に出て島を襲って調達しようにも、目立つ行動をしたらヘンピ島にいる化物に真っ先に矛先を向けられるかもしれません。ったく、何だって大陸から超常者とかいう化物が来てやがるんだか」
化物という単語に、寝っ転がっている海賊は反応して睨みつける。他の海賊達は我先にと寒い屋外へと逃げていった。化物と言ってしまった海賊の背中に、冷たい風が吹きつける。
「すいません! 船長の事を化物だと言ったわけではありません!」
「……春になって船を出せるようになったら、ヘンピ島に向かう」
海賊船長の考えに海賊は困惑する。
「しかし、ヘンピ島には大陸から来た超常者がいるようですが」
「何も超常者本人を倒す事だけが勝つ方法ではない。超常者はお前の言うように化物だが、中には化物になりきれていない人間のままの奴がいる。弱みを握れば良いのさ、例えば人質とかな。今ヘンピ島にいる超常者は島長と仲が良い。島長本人かその子供を捕まえて人質にすれば、超常者といえども手のひらの上だ」
「さすがです船長! 強いだけでなく頭まで良いとは! 尊敬します、さすがは俺達の船長で超常者サマです、一生ついていきますよ!」
あからさまに媚びてきている汚い作り笑顔を見て、白髪の老人の超常者は鼻で笑った。