ー楽土の章19- 御館の乱(おたてのらん) その影響
脇道にそれる話であるが、もう少し、御館の乱について、状況を説明していく。
この戦いは、上杉景勝と上杉景虎との間に起こった、上杉謙信の跡目争いである。
景勝は謙信の叔父の長尾政景のひとり息子であった。だが、長尾政景は謀反の心ありと視られ、宇佐美定満により誅殺されたのだ。謙信はその遺児である景勝を自分の養子として育てることとなる。
一方、景虎は北条氏康が武田信玄が甲相駿三国同盟を破壊したことによって、氏康が怒り、その勢いのまま、謙信と同盟を結ぶために自分の息子である三郎を謙信に人質として越後に送ったのだ。
だが、謙信はこの三郎をいたく気に入り、なんと自分の養子としてしまうだけでなく、自分の昔の名であった景虎まで与えてしまったのだ。この時点で謙信は景勝と景虎の格付けを行っておくべきであった。だが、謙信の平等主義が災いしたのか、はたまた、他に思惑があったのかは知らないが、ついには謙信は彼らを同列に扱ったことが大失敗となった。
「ぷぷぷ。義理の親には感謝しなければいけないぴょん!景勝と同列に扱ってくれたおかげで自分も上杉家の跡目争いに参加できるぴょん!」
景虎はほくそ笑んでいた。最初の奇襲で春日山城を手に入れることができた。これで景勝との戦いにおいて、大きなアドバンテージを得られたと想っていたのだ。だからこそ、景虎は油断していた。
彼は春日山城に入らず、自分の嫁の屋敷を拠点としたのだ。景虎の嫁は上杉謙信の姉の娘である。ここでややこしいことに、謙信の姉は謙信の叔父であった長尾政景の嫁なのである。だから、景虎の嫁と景勝は兄妹なのだ。
景虎が跡目としての権威を持っているのは、これがおおいに関係するのである。景虎が長尾政景の娘に婿入りしたからこそ、血筋においても、景勝と同列になってしまったのだ。
「ぷぷぷ。最初、父上の氏康に越後に捨てられた時は人生、これまでだと想っていたぴょん!だけど、義理の父上の謙信さまは大層、優しかったぴょん!おかげで、越後をまるまる手に入れられるぴょん!」
喜ぶ景虎にとって、さらに運が良かったことは、御館の乱が起きたとほぼ同時期に北条氏政が、景虎は自分の可愛い弟だと言い出して、景虎が上杉家の支援を行うことを表明したのである。
もちろん、氏政は弟のためだけに協力を申し出たわけではない。景虎が上杉家を手に入れれば、実質、越後は北条家のモノとなるのだ。北条家の兵を使わずに長年苦しめられてきた謙信の領地のほぼすべてが入るのである。こんな美味しい話に協力しない理由など存在するわけがない。
さらには武田勝頼までもが甲相同盟に従い、景虎に協力を表明する。ここにおいて、景勝は上杉家から追い出されるだけではなく、その命まで風前の灯となっていたのだ。
「……。これはもうダメで候。白装束に身を包むので候。義父上。今、それがしも極楽浄土に旅立つので候」
景勝は自分は潔く死のうと越後と越中の境にある寺のお堂で白装束に身を包み、正座をし、まさに自分の腹をかっさばかんとしていた。その時、彼の懐刀である兼続がその寺のお堂に飛び込んできて、景勝の切腹を止めたのだ。
景勝がそこで、兼続に策を示せといって、兼続が、春日山城の埋蔵金4万を使って、この混乱を大混乱に発展させると言い出したのだ。
「愛愛愛!景勝さま、お待たせしたのでしゅ。春日山城を奪い返す日が決まったのでしゅ!今夜、警護のモノに春日山城の裏門を開けてくれるように話をつけてきたのでしゅ!」
「……。……!?今夜で候!?ここから、春日山城までいったい、どれだけの距離があると想っているので候!?」
「愛愛愛!ざっと、30キロメートルでしゅね?今からここを出発すれば、ちょうど夜中でしゅ。やったでしゅよ!さすが僕なのでしゅ!計算通りなのでしゅ!」
「……。わかったので候。お前に自分の命運を託したので候。お前の言いに従うので候。全軍、出陣で候!一路、春日山城を攻めるので候!」
景勝の判断も早かった。彼は兵1000という、少ない兵数であったが、それでも果断に春日山城へと進発したのである。春日山城の警護たちによる手引きもあって、すっかり油断していた景虎から、見事、春日山城を奪い返すことに成功する。
さらに兼続は止まらない。さっそく、春日山城の地下奥底に眠る金4万を掘り返し、それを全部、武田勝頼に贈ったのだ。
「おいおいおい!この金の量はなんなのだぜ!こんな黄金の量、いくら、武田領地でも手に入れることはできないんだぜ!」
「ううう。眼が眩むばかりの黄金なのでございます。これだけの金があれば、沈みゆく武田家も再興を果たすことができるのでしゅ!」
金4万に色めき立ったのは勝頼だけでなかった。武田四天王と謳われた最後の生き残りであった高坂昌信すらも、この黄金の量に眼をやられたのである。
しかもだ。信玄が死んだと同時に、武田家の甲府では金山から金が取れなくなったのである。といっても、この当時の採取法での話であるのだが。それは置いておいて、金山からの収入が見込めなくなった武田家の財政は火の車と化しており、この上杉景勝からの金4万は喉から手がでるほどに欲しいものであった。
「愛愛愛!勝頼さま?もし、景勝さまを応援してくれれば、この金4万を進呈するのでしゅよ?それだけじゃないでしゅよ?先年、信玄が死んだ時にどさくさに紛れて、謙信さまが奪った信濃北部を武田家に返すのでしゅよ?」
「ま、まじかなのだぜ!これは、是非とも、景勝のやつに手を貸してやらないといけないんだぜ!なあ、高坂。お前から異論はないのか?だぜ!」
「ここまでされて、景勝殿に手を貸さない道理はないのでございます。金4万と信濃の北部。これさえあれば、北条家との同盟を切ったとしても充分おつりがくるのでございます!」
武田家と上杉景勝との同盟に声高に反対するモノなのどいなかった。それほど、武田家はひっ迫する状況へと追い込まれていたのだ。長篠の戦いで大惨敗を喫したあと、徳川家相手にすら、全戦全敗するほどに国力を落としていたのである。
ここに武田家は北条家との同盟を切り、上杉景勝の協力を表明する。景虎は謙信の居城であった春日山城を失い、さらには協力者である武田家を失った。上杉家掌握まであと一歩まで行っていたというのに、景虎は景勝に大逆転を許すことになったのだ。
兼続の策は甲斐、信濃、越後、相模全てを混乱に渦に巻き込むことに成功したのである。いくら、上杉家の家督を景勝が手に入れようが、北陸道を上がってくる織田家に対抗するのは難しい。ならば、死なばもろともとばかりに武田家・北条家を巻き込んだ。これが御館の乱の全容であったのだ。
話を1578年3月に戻そう。謙信の死を知った織田・北陸方面軍の指揮官である勝家は一気に加賀・能登へと兵2万を率い突き進んでいく。上杉家は家督争いが勃発し、まともに動くことすらできない。その機を見逃すほど、勝家は凡将ではなかったのだ。
「ガハハッ!まるで無人の野を突き進むが如くでもうす!いやあ、謙信との一騎打ちを楽しみにしていただけあって、残念至極でもうす!」
「御山御坊はあとひと月も囲んでいれば、向こうから降伏するッスね。田植えの時期が差し迫っているッス。ここで無理に戦えば、向こうは飢え死に確定ッス。一向宗といえども、喰わねば死ぬッス」
「ん…。利家の言う通り。御山御坊を落とせば、加賀の一向宗も戦う意思を失くすはず。さっさと降参してくれないかな?」
「佐々殿。それに勝家殿。それがし、少々、暇でござる。先に能登へ攻めていっていいでござるか?」
「おおう?不破よ。抜け駆けしたいでもうすか?それは殊勝な心掛けでもうす。では、加賀と能登の境あたりを抑えておいてくれでもうすよ?」
「ははっ!わかったのでござる。ついでに越中から上杉家が侵攻してこないか、見張りをしておくでござる!」
不破の言う通り、加賀と能登の境は地形的に細くなっており、しかも、その地のすぐ東は越中へと通り抜けるための道が出来ていた。その道は石動と呼ばれており、遠く昔、源氏と平氏が一戦構えた土地である。
牛の角にかがり火をつけて、平氏の陣に突っ込ませたという戦いがそう、この石動で起きたのである。石動はちょうど北陸道の中間地点であり、この地を抑えることは織田家が越中に侵攻するためにも必須であったのだ。
不破は兵5000を預かり、御山御坊の地から北上を開始したのだった。だが、それでもやはり、上杉家側が目立った動きを見せることはなく、不破はあっさりと能登・加賀・越中の境の地を抑えることに成功するのであった。




