ー長篠の章21- 死にゆくモノたち
設楽原に鳴り響いていた織田・徳川軍の3000丁以上の鉄砲の射撃音が鎮まり、同時に、この地にも静寂が訪れる。
織田・徳川軍の陣は、あまりにもの鉄砲の発砲により、霧が立ち込めたかのように煙で包まれることとなった。その煙が段々と晴れ渡り、戦場に集まる兵たち全てに、武田軍の惨状が見て取れるのであった。
織田・徳川軍の兵たちはこの大戦果と言うべき状況にうれし涙をこぼすのである。対して、武田軍は主力部隊を失い、戦意は地に堕ちたのであった。
だが、それでも、武田勝頼だけはまだ勝負を捨てていなかった。武田本陣では竹束の用意に入る。この太さ1メートルはあろうかという竹を束にしたものを抱えて、敵の鉄砲を防ぎ、突貫するという策に出る。
武田軍は自慢の馬を使えない故での最後の抗いであった。勝頼は各兵に激を飛ばし、織田の将を討ち取ったモノには想いのままの褒賞を与えると宣言する。
だが、それに喜ぶモノなど、武田軍の兵士にはひとりもいなかった。ただ、家族を人質に取られた状態で、この戦場から逃げ出せば、待っているのは家族たちへのつらい罰だけだったからだ。
武田軍の足軽たちは敵陣に無理やり突っ込み、鉄砲の弾に穿たれ、死ぬ道以外、選択肢は残されていなかったのだ。
「お前ら。武田家の意地を見せつけてやるんだぜ!この戦はもう負けが決定したのかもしれないんだぜ。だが、ここで黙って信長に背中を見せて撤退することはできないんだぜ!全軍、突貫しろだぜ!」
無謀とも言える策を勝頼は兵士たちに提示する。打開策とは言えぬシロモノだ。だが、それでも、誇りのために、勝頼は突貫せよと命じるのである。
武田軍の残された兵士たちの約半数に匹敵する足軽隊8000が、うおおお!と半ば焼けグソ気味に雄たけびを上げて、設楽原を横断していく。
あるモノたちは竹束を抱え、あるモノたちは木杭を抱え、あるモノたちは長槍を手に持ち、目の前の馬防柵を超えるために設楽原を突っ切って行く。
「まだ、やる気なんっすか。ここまでくると勇敢を通り越して、ただの馬鹿っす。全軍、よおく狙えっす!竹束を破壊するほどに鉄砲の弾をくれてやれっす!」
武田軍の足軽隊が馬防柵手前、400メートルにまで接近する。だが、鉄砲隊総取締役の滝川一益は、そんな彼らの気概を無視するかのように、鉄砲隊に射撃命令を出す。
それと同時に再び、設楽原の地に幾千もの神鳴りが堕ちたかのような音が轟き渡る。
織田・徳川軍の鉄砲隊による5射目あたりには、武田軍が用意した竹束は全て粉砕されることとなる。だが、それでも武田軍はその足を止めずに、馬防柵へと一直線にひた走る。
鉄砲の弾により肩をえぐられ、腹をえぐられ、眼を片方えぐられても、武田軍は、ひた走る。鉄砲がどおおおん!と音を立てるたびに、隣に居たはずのモノたちが自分の視界から消えていく。鉄砲から弾が1発、発射されるたびに、どんどん周りのモノたちが地面に倒れていく。
それでもなお、彼らは走って行く。浄土に向けて走って行く。走り抜けていく。そして、彼らが気づいた頃には、走っている場所は設楽原ではなく、浄土であったのだった。
再び、織田・徳川軍の鉄砲の射撃音がやむ頃には、勝頼が突貫を命じた8000の武田軍の兵士たちのことごとくが死に至る結果が残されていただけであった。
「ふううう。さすがにあれだけの足軽が突っ込んでくるとは思いませんでしたね。危うく、馬防柵を抜かれるかと想いましたよ。まあ、想っただけですけどね?」
「ガハハッ。馬防柵の手前100メートルの地点で、武田軍の兵のほとんどが死んでしまったようでもうすな。さすがにもう、あちら側としても、こちらをどうにかできるほどの戦力は残っていないはずでもうす」
「まあ、そろそろ、鉄砲の弾も尽き始める頃でしょうねえ。あれだけ撃ったんですから。いやあ。しかし、今の攻め方は良かったんじゃないんですかね?最初から馬に乗って戦うことを放棄してただけ、賢いと言えます。惜しむべきは2倍の兵力があれば、馬防柵を抜くことが可能だったでしょうねえ?」
「ガハハッ!今回の突撃ではあちらは1万ほどの足軽隊を突っ込ませて、それで全滅したのでもうすよ?そもそも、向こうは総勢2万と5000ほどなのでもうす。それを言うなら、最初から馬に乗らずに全軍玉砕で向かってくればよかったのにと言っているのと同じでもうすよ?」
「あれ?意識はしてなかったのですが、勝頼くんに対して、嫌味になってしまいましたね?まあ、先生も、ここまで上手いこと、武田軍の馬が無意味となるなんて予想してませんでしたから。いやあ、うちの用意した馬も使い物にならなくなりましたけど、まあ、良いでしょう」
信長はもしものためにと騎馬2000を準備していたのであったが、散々に音に慣れさせる訓練はしていたが、結局のところ、織田軍側の馬も暴れ馬となってしまったのであった。
「さて、総仕上げと行きましょうか。全軍に通達してください!武田勝頼を討ち取ったモノには城代に取り立てると!手柄は取り放題です!馬防柵より前に出て、武田軍の兵士、全てを殺し尽くしてください!」
信長は長篠・設楽原の地での戦いを終わらせるべく、鉄砲隊に対して長槍に持ち返るよう指示を飛ばす。そして、待機させていた羽柴秀吉、丹羽長秀、佐久間信盛、さらには柴田勝家にまで、出陣を命じるのである。
武田軍残り8000余りに織田・徳川軍の3万の軍勢が一斉に襲い掛かるのである。
馬防柵を蹴り倒し、織田・徳川軍は潰走していく武田軍を追走していく。ここに来て、勝頼はこの戦において、負けを認めることとなる。
「くやしいんだぜ!しかし、武田家はこれで終わらないんだぜ!いつか、きっと、信長の首級を取って見せるんだぜ!」
「そんなことを言っている暇があったら、さっさと逃げるのでごじゃる!殿はこの内藤昌豊に任せるのでごじゃる!」
「内藤、すまないんだぜ。お前の命、使わせてもらうんだぜ。兵を2000ほどしか残せないが、これでなんとか、俺が本国に逃げ切るのを援護してくれなんだぜ!」
「わかっているのでごじゃる。さあ、早くお逃げくだされでごじゃる。勝頼さまが生き残れば、この戦、負けではないのでごじゃる!」
「生き残れば負けじゃないのかだぜ。へっ、なら、俺は生きて生きて、生き延びてやるんだぜ!内藤、世話になったんだぜ!あの世で俺の代わりに父・信玄に怒られてくれだぜ!」
「はっ!しかとその命令、承ったでごじゃる!さあ、皆のモノ、勝頼さまを死地より救うのでごじゃる!向こうは勝ち戦に溺れて、引き籠ることをやめたのでごじゃる!ひとりがひとり殺す覚悟で対峙するのでごじゃる!」
内藤は殿軍としてあてられた兵2000にそう激を飛ばす。だが、誰もが顔を下に向けたままで、まったくもって士気は上がらなかった。
それでもなお、内藤はその士気が落ち切った兵たちを使い、迫りくる織田・徳川軍3万とぶつかりあうのであった。
内藤が救われたことはただ一つ、大敗を喫したとしても、彼の率いる足軽たちが我先と逃げ出さなかったことだけである。まあ、逃げ出したくても逃げれないだけのことなのだが。彼らは残された家族を守るためにも主君を救う必要があっただけなのだ。
彼らは奮い立たぬ心を持ちて、勝ち戦に乗りまくる織田・徳川軍3万と対峙する。あるモノは、自分の運命をあざけるように笑いながら死んでいく。あるモノはいっそ、産まれた土地を捨てれればと、自分の生まれを呪いながら死んでいく。またあるモノは、織田側に寝返ってしまえば良いのではと疑問に想いながら死んでいくのであった。
内藤に付き従うモノたちは、何もかもを諦めていた。生きて、本国に帰ることを諦めていた。家族が幸せに暮らしていけることを諦めていた。このまま、ただ蹂躙されるだけだと諦めていた。だが、それでも、手に持つ槍を投げ捨てることはなかった。
ただただ、手に持った槍を力なく、目の前に迫る敵に対して突き立てる。だが、その槍の穂先は届くことはない。織田・徳川軍の長槍は3間半の長さを誇り、2間程度の長さしかない武田軍の足軽隊では、まともに槍合わせをすることも叶わない。
騎馬軍団による突撃により、敵方を混乱の渦に叩き落とし、その後、足軽隊を突っ込ませ、さらに混乱状態を悪化させてきた戦法に頼り切ってきた武田軍にとって、足軽の長槍の長さを伸ばすという工夫はおざなりにされてきたのである。
武田軍が織田・徳川軍に抗う手など、何一つ残されていなかった。いや、自分の命を盾に使い、勝頼が逃げる時間を稼ぐことだけが残されていた。
「ぐぬぬぬ!なんという長さの槍でごじゃるか!これでは、まともに槍を合わせることもできないのでごじゃる!ええい、こうなれば、相手の槍の穂先を自分の肉で受け止めることだけでごじゃる!皆のモノ!ぼくちんの真似をするのでごじゃる!」
内藤はそう言い放つと、周りから群がる敵に対して、両手を広げて立ちふさがるのであった。何度も長槍でぶっ叩かれようが、彼はへこたれず仁王立ちしつづける。対処に困った織田・徳川軍の兵たちは、内藤の身体めがけて、槍の穂先を突き刺すのである。
内藤の身体を10数本の槍が突き刺さる。内藤はぐふっ!とうめき声を上げるが、へこたれずに、自分の肉をしめあげる。それにより、槍を抜けさせなくして、相手の武器を奪うという、あまりにも愚策と言ってよい方法をとったのだ。
「さあ、武田の兵たちよ!ぼくちんの真似をして、織田・徳川軍の長槍を使いものにならなくするのでごじゃる!」




