ー長篠の章19- 三段撃ちの真意
1575年5月21日、朝7時50分。山県は内藤昌豊の隊が自分の後詰として配置されたことだけでなく、全軍突撃命令が主君である武田勝頼から出されたことに、おおいに動揺するであった。
「な、な、何が起きたので候?わざわざ、敵の馬防柵に突っ込めとの命令とはどういうことで候!?内藤殿、説明を求めるので候!」
「すまないのでごじゃる。長篠城攻略は失敗したのでごじゃる。それだけでなく、長篠城周辺の砦を全て落とされてしまったのでごじゃる」
内藤は本当にすまなそうに山県に詫びるのである。山県はわなわなと震えながら
「長篠城の周りの砦が全て落とされたので候!?敵はどれほどの数を、そちらに回してきたので候!?」
「す、すまないのでごじゃる。数は不明なのでごじゃる。だが、織田・徳川軍は砦方面に1万以上を回したとしか想えないのでごじゃる。いくら朝駆けと言えども、日が昇り始めてから1時間や2時間で砦が4つも落とされたのでごじゃる」
内藤の言いに山県はぐぬぬと唸る。
「わかったので候。すでに退路は断たれたということで候か。しかし、長篠城に1万もの兵を回すということは、正面の織田・徳川軍の兵力は、最初の4分の3にまで、減らしてくれたということで候」
「山県殿。前向きな意見で助かるのでごじゃる。山県殿たちが馬防柵を破壊したのち、ぼくちんの足軽6000で一気に敵方を崩してくれるのでごじゃる」
「頼むで候。我が隊が全滅しようとも、あの馬防柵は破壊しつくしてくれるので候。後は頼むで候!」
山県はそこまで言うと、両眼を閉じて、息をすうううと吸い込み、はあああと吐き出すのであった。そしてそのあと、自分の隊に向かって大声を張り上げる。
「皆のモノ!全軍、突撃で候!目の前の馬防柵を破壊しつくし、後詰隊の道を開くので候!武田最強騎馬軍団の力を織田・徳川軍に見せつけるので候!」
山県の叫びに呼応するように、重装騎馬兵たちは手に持つ槍を上下に振り上げ、うおおお!うおおお!と鬨の声を上げるのであった。
時は朝8時を回っていた。武田軍は突撃のために、陣太鼓をどんどんっどっどん!と叩き始める。南では原一族と山県の騎馬3000が、北では真田一族が騎馬2000が、中央では土屋一族の騎馬1000が織田・徳川家を粉砕すべく、突撃を開始するのであった。
武田軍は織田・徳川軍からの矢と鉄砲を警戒し、蛇がうねるように騎馬軍団を前進させていく。武田家は騎馬兵だけで構成された純粋な騎馬軍団である。そのため、その速度は他家の騎馬隊とは違い、騎馬隊の進軍速度と機動力は他家とは2倍以上の開きがあった。
だからこそ、少々の鉄砲や、矢の雨如きではまともに討たれたりすることはなかったのである。そう、今までは。
「うひょおおおっす!武田軍の侵攻が始まったっす!まだ、撃つなっすよ!充分に引きつけるっす!」
そう叫ぶは織田軍の鉄砲隊・総取り締まり役の滝川一益であった。彼は鉄砲隊の一斉射撃のために銅鑼をぶっ叩く準備をしていた。河尻秀隆から借りた金砕棒を手に持ち、今か今かと、じっくりと武田騎馬軍団の接近を待っていたのである。
設楽原全体に、武田騎馬軍団の馬のいななきと蹄が地面をえぐる音が響き渡る。まるで地獄から魔物が出現したかのように重低音が織田・徳川軍に届くのである。
武田騎馬軍団はどんどん織田・徳川軍に接近していく。500メートル、400メートル、300メートルと。
そして、ついに武田騎馬軍団は馬防柵まで残り100メートルまで接近するのであった。
「今っす!全軍、鉄砲を発射するっす!」
一益は手に持つ金砕棒を振り上げ、銅鑼に向かってフルスイングする。そして、銅鑼はどごおおおん!と大きな音を立てるのであった。
その次の瞬間であった。設楽原の全土に神鳴りが堕ちたかのような音が轟く。その神鳴りのような音はひとつふたつどころではなかった。幾千もの落雷が起きたかのようであった。
それは総数3000に達する鉄砲による射撃音であった。この世界が体験したことのない砲撃音であったのだ。それは世界が変革するための音であった。世界全体が新たな世へ向かうための扉が開いた音でもあったのだ。
その音がもたらしたモノ。それは武田騎馬軍団を無力化したのである。確かに武田騎馬軍団は1射目において、蛇行することにより、鉄砲の弾に当たることはかなり防げたのだ。だが、信長が本当に狙っていたことは、この世界を変革する大音量の鉄砲による射撃音により、武田軍の馬が行動不能にすることであった。
馬は音に敏感である。ちょっとした金属の擦り合う音にすら過剰に反応し、暴れ馬と化す。だからこそ、騎馬を運用する際は、馬たちを音に慣れさせる。武田軍もそこそこは鉄砲の音には慣れさせていた。
だが、さすがに設楽原全土を埋め尽くすように堕ちた神鳴りの音までは耐えきれるものではなかったのである。
世に名高い織田・徳川軍 対 武田軍の戦いは実は、この一射目で決着がついていたのである。
織田・徳川軍に突撃していった武田騎馬軍団6000の馬が全て、暴れ馬と化した。あるモノは暴れ馬から放り出され、あるモノはその暴れ馬に踏みつぶされることとなる。
そして、次の突撃のために待機していた騎馬軍団の馬までも、暴れ馬と化したのである。3000もの鉄砲による射撃の1発目で、武田軍の7割近くが暴れ馬により、まともに行動することが不可能となったのである。
「うひょおおお!敵さんたちの馬が全部、暴れ馬と化しているっす!こりゃ、とんでもないっす!続けて2射目、3射目と行くっす!」
一益は昂る心を抑えきれず、手に持つ金砕棒で銅鑼をガンガンガンッ!と叩き続ける。その銅鑼の鳴り響く音に合わせて、織田・徳川軍が2射目、3射目と連射していく。
織田・徳川軍の鉄砲隊の前列は、鉄砲を構え、発砲する。そして、発砲し終わったあと、後ろの列のモノに撃ち終わった鉄砲を渡す。後ろの列のモノは弾込めの終わった鉄砲を前列のモノに渡す。その後、前列から渡された鉄砲に弾を込めていく。
それを連続で行い、落馬した武田兵たちを次々を討ち果たしていく。大量の鉄砲の一斉射撃により、敵の騎馬軍団の馬自体を無力化、または暴れ馬化させる。2射目、3射目で、落馬した兵たちを討ち尽くす。これぞ、信長の【三段撃ち】の真意であった。
「これは外したら恥ッスね!うっしゃあああ!落馬した兵を狙うッス!皆、殺してやれッス!」
「ん…。相手はもう馬は使えない。皆、じっくり狙って撃て。特に走ってでもこちらに近づいてくるやつを率先しろ」
「これは見事としか言いようがないのでござる。信長さまはここまで読んでいたというのでござるか?ええい、今はそんなことを考えている時ではないでござる。皆!敵を撃つのでござる!ひとりたりとも生きて返すなでござる!」
鉄砲奉行である前田利家、佐々成政、塙直政が吠える。武田家、許すまじとばかりに率いる鉄砲隊に連続射撃を命じ続けるのであった。
織田・徳川軍の鉄砲の射撃音は留まることを知らなかった。この日のために信長は堺に入る火薬の全てを占有したと言っても過言ではなかった。
織田家・徳川家から東の国では、ほとんど火薬が出回ることができなくなっていたのである。そのため、それらの国々は馬を火薬の破裂音に慣れさせることが充分にできなかったのである。
しかし、例え、充分に馬の音に対する訓練ができていたとしても、織田・徳川軍の3000を超える鉄砲の一斉射撃音に耐えられる馬など居ようものなのか?この時代の鉄砲の射撃音は1キロメートル先まで届いたと言われている。
たかだか1発でそれなのだ。それが3000発分となれば、どうなるのか?結果は一目瞭然である。設楽原に集まっていた武田軍の所有する馬が全て使い物にならなくなったのだ。
まさに馬防柵の100メートル手前でその音を喰らった武田軍の面々は手に持つ槍を馬防柵に届かせることは一切できなった。馬から振り落とされ、さらにその馬に踏みつぶされる。混乱状態に陥った武田軍の最前線に向かって、さらに鉄砲の弾が雨となり降り注がれる。
馬から堕ち、鉄砲の弾に穿たれた彼らの悲鳴は全て鉄砲の射撃音にかき消される。何事かを喚き散らすモノが居た。卑怯だぞ!となじるモノが居た。死にたくないと嘆くモノが居た。その全ての声が神鳴り以上の音にかき消される。
「……!」
「……!!」
馬防柵の奥より雷鳴が轟くたびに、設楽原の地から命の灯が消えていった。それも一方的な暴力で彼らの命は消えていった。
「全軍、あの馬防柵を壊せ候!あの音を止めさせろで候!」
その射撃音の間を縫うように山県昌景が叫び続けていた。彼もまた、馬から投げ出され、しこたま身体を地面に打ち付けた。それにより、左腕の骨が折れてしまった。
彼は骨折による激痛に耐えながら、落馬した兵たちに激を飛ばす。だが、続けての射撃音により、周りにいる兵たちが次々と落命していく。
その地獄のような光景を山県は苦々しい顔をしながら、視ていた。そして、彼は腰に佩いた刀をすらりと抜き
「皆のモノ!我に続け!あの馬防柵を我らの死体の重みで潰してやるので候!全軍突貫!で候!」
山県は走った。その身に銃弾を受けても走った。身体から血を吹きだしながらも走った。必ず、目の前の要塞に穴を開けてやるぞと走った。
そして、彼は身体に31発目の銃弾を受けた時、ついに力尽き、その場で絶命するのであった。彼は馬防柵の手前、10メートルにまで接近したのであった。武田軍において、山県が馬防柵に一番近く接近できた男であったのだった。