ー長篠の章12- 勝頼、動く
1575年4月21日、三好政康は織田家との和議を申し出ることとなる。その仲介役として塙直政が選出していた堺の奉行、松井友閑であった。織田家と三好家の戦いは決着に向かっていく。
残りは、頑強に反抗を続ける本願寺家だけだったが、それの相手は細川藤孝、明智光秀、筒井順慶、それに荒木村重に任せて、信長、佐久間信盛、柴田勝家、それに塙直政は京の都へ戻ることになる。
「さて、計画通り、大坂での戦いは終結に向かってくれましたね。信忠くん、東の情勢はどうなっていますか?」
「父上。家康殿の報告では甲斐の国で武田勝頼が2万を超える大軍勢を集めている最中とのことでござる。家康殿の書状がこちらに届く日数を考えれば、今まさに進軍を開始していてもおかしくないのでござる!」
「ふむ。勝頼くんはやはり、本願寺顕如くんと呼吸を合わせていたということですね。ここまでは先生の読み通りです。ちなみに、勝頼くんの向かう先はすでに判明していますか?」
「そ、それはまだでござる。だが、数日中には家康殿から次の書状が届くはずでござる。続報を待つのでござる」
「わかりました。ありがとうございます、信忠くん。ちなみに織田家の兵はどれほど集まっていますか?」
「こちらは兵3万に鉄砲約4000と言ったところでござる。そのうち鉄砲1000は、長篠に向かう途上の鍛冶屋で直接受け取る予定でござる」
「まあ、多く見積もりすぎると、失敗の元となるので、各地で手にはいる鉄砲は少な目に800と見込んでおきましょうか。しかし、家康くんに先に送った鉄砲1000と換算すると、約5000もの鉄砲が集まりましたかあ。これはすごいことになってきましたね」
「各領地のあがりがほとんど鉄砲量産に消えてしまったほどなのでござる。これで、武田家に織田家が負ければ、しばらく鉄砲を作るだけの金がないのでござる」
「まさに織田家の運命を賭けた1戦となるわけですね。これは先生でも武者震いがおさまりませんよ」
「その割には父上の顔が喜色ばっている気がするのでございます。とてもではないでござるが、武者震いをしているようには視えないでござる」
「ふふっふふっ。この心が湧き立つ感じ、久しぶりですね。今川義元の本陣に斬り込んだ時以来かも知れないですね!」
父上が笑っているのでござる。そう想った信忠はごくりと唾を飲み込むのであった。
信長が万全の構えで京の都で出撃の準備を整えつつあった頃、武田勝頼は総勢2万4千の兵を率いて、甲斐の国よりすでに出陣していたのであった。彼は自分の父親である信玄が没したおりに、火事場泥棒のように家康に盗られた、長篠城を奪還するべく進軍を開始していたのだった。
その長篠城へ向かう途上、信濃の高遠城辺りで武田本隊が休憩中の一幕である。
「あーははっ!高天神城も手に入れ、武田家は先代の父上よりもその領地を広げたんだぜ!この勢いを買って、長篠城を落とし、さらにそこから南下し、徳川家を滅ぼしてくれるぜ!」
「拙者、うまく行きすぎで心配でござる。殿、別に急いで三河へ侵攻する必要なぞなかったのではござらぬか?」
主君の勝頼に諫言するのは馬場信春であった。彼は主君が本願寺顕如に呼応し、兵を三河に進軍させるには反対であった。
「何を言っているんだぜ。せっかく、顕如殿が武田家のために西でかく乱をしてくれいるのに、この機会を失ってはいけないんだぜ!」
「それはごもっともでござるが、武田家は近年、領土拡大のために民に重税を課しすぎでござる。ここは一旦、民のためにも戦をやめるべき時なのでござる」
「うるせえんだぜ!なんで、勝てる時に大人しく領地の統治に邁進しなきゃならんのだぜ!勝てるとふんだら、どんどん攻めるべきだぜ!侵略すること火の如しと言う言葉を知らないのか!だぜ」
「お言葉でござるが、動かざること山の如しと言うモノがあるのでござる。じっくりと領地を整備し、国力を高めることも大事なのでござる」
「馬場、なんで、てめえは口を開けば文句ばっかりなんだぜ!勝てる時に勝つ。これのどこが間違いだって言うんだぜ!」
「確かにそれは間違ってないのでござる。だが、領民を苦しめてまで勝ちにこだわるのは間違っていると言っているのでござる!」
勝頼と馬場信春の言い合いは止まることを知らなかった。見かねた内藤昌豊が横から口を挟む。
「まあまあまあ。勝頼さまも、馬場殿もその辺で喧嘩をやめるのでごじゃる。主君と家臣が言い争っていては、下々の者たちが不安に駆られるのでごじゃる」
「ふんっ。良い子ぶりおってでござる。内藤、お前はさっき、俺の意見に賛成していたではないかでござる!」
「ああん?何を言ってやがるんだぜ。内藤昌豊は俺の意見に賛成していたんだぜ!内藤、どういうことなんだぜ?」
内藤はしまったと想う。自分としては不満のガス抜きのために、2人の意見を聞き、そうでごじゃるな、わかるでごじゃる、きみの気持ちを等とやっていたのであった。だが、それは周りから視れば、ただの八方美人である。
「ぼ、ぼくちん、用事を想い出したのごじゃる!ああ、高坂が居ないと仕事が増えて大変なのでごじゃる!」
内藤はそう言いながら、ぴゅーーー!と勝頼と馬場信春の目の前から消えていくのであった。
「ふううう。内藤は八方美人で候。あんなことをしていれば両方から恨まれるで候」
そうひとり呟くのは、今までのいきさつを黙ってみていた山県昌景であった。
「ふんっ。内藤め。殿を焚き付けているとは想わなんだでござる。まったく、武田四天王として、殿を諫める気がないのでござるか?」
馬場は気が削がれたとばかりに主君・勝頼との言い争いをやめて、山県の元へとやってきて愚痴を言い始めるのである。面倒くさいやつがこちらに来たものだと山県は想う。
「まあまあ。落ち着くので候。内藤殿は戦う前から主君とその家臣が相争わぬようにと想ってのことで候。いくら、馬場殿が殿の諫め役といえども行き過ぎてはいけないので候」
「しかしでござる。武田家は古来より、自らが決めて、自らで戦を起こしてきたのでござる。それを顕如殿の要請で戦をするのは間違っているのでござる」
「確かに、此度の戦は顕如の手のひらで候。だが、長篠城を落とせば、そこを足がかりに、一気に徳川家を滅ぼせることになるので候。武田家にとっては至れりつくせりで候」
「殿や山県殿の言う通り、此度の戦、得るモノは確かに大きいのでござる。しかし、それによって戦費は膨れ上がるのでござる。近頃、急に甲斐の国では金が掘れなくなってきたのでござる。それに頼ってきた武田家としては手痛いのでござる」
山県の言う通り、昨今、甲斐の金山では金が掘ってもなかなか出てこないという事態が発生したのである。信玄の代ではまず起きえなかったことであるが、勝頼に代替わりした途端に起きてしまった。
これにより、高天神城攻めにおいて、勝頼は領民に重税を課せ、それを戦費に充てたのである。今回の戦も同じく運びになった。それで、馬場信春はこの事態を危惧し、領土の拡大を一旦中止し、領内の商業を発展させるべきだと勝頼に散々、進言したのである。
だが、勝頼はそれを無視する。これにより、勝頼と馬場の関係は急激に悪化することになったのだった。
「しかし、此度の戦、それにしても大規模すぎるので候。高坂は、上杉の抑えのために1万の兵を率いて、防波堤となるべく進軍。そして、甲斐より三河攻略のために2万4千の兵で長篠へで候。これがもし失敗に終われば、武田家の屋台骨を揺るがすばかりの債務となるので候」
「だからこそでござる。ここは領土拡大を一旦やめて、国内の商業を発展させるべきなのでござる。しかし、殿や、お前、内藤、高坂はそれを良しとしなかったのでござる。一体、何を考えているのでござるか!」
「商業の発展に力を注ぐのは間違っていないので候。だが、それに何年かかると想っているので候。5年?いや10年で候?10年先、織田家はどうなっていると想っているので候?信長包囲網が崩れた今、織田家を抑えれるのは、武田家しかいないので候」
山県の言いに馬場がぐうううと唸る。馬場にもわかっていたのだ。商業の発展など待っていれば、織田家は手がつけられなくなることくらい。だが、そのために本国の甲斐の民にまで重税を課すのは間違っている。そんな気がしてならない馬場なのである。
「いい加減、腹を括るので候。武田家は前を向くことしかできないので候。我らが立ち止まる時、それはすなわち、武田家の崩壊となるので候」
「わかっている。わかっているのでござる!だが、それでも、亡き信玄さまが愛した甲斐の民たちを苦しめるのは、拙者にはつらいのでござる!」
馬場が歯をぎりぎりと噛みしめる。その肩を両手でぽんぽんと叩いてなだめる山県なのであった。