ー浄土の章 5- 織田家と本願寺の和議
1573年10月半ば。義昭を京の都から追放することに成功した信長は、下京の再建を村井貞勝、前田玄以、そして丹羽長秀に一任する。
そして、彼は軍勢を整え、5万の大軍を率いて、南近江、岐阜、尾張を通過し、因縁の地、伊勢長島へと到着する。
「ちょっと!九鬼くん。舟を調達できていないってどういうことですか!これじゃあ、台風シーズンの増水した木曽川にどうやって、軍を展開しろと言うんですか!九鬼くん、いっぺん、死んでみます?」
「も、申し訳ないんだオニ。周辺の商人たちが手を結んで、大きな船を織田家に貸しださないようにしているんだオニ。信長さまにそいつらを締め上げるための裁可をいただこうにも、信長さまはお忙しいので、やりとりもできなかったのだオニ」
「そんなこと、書状1枚で済む話でしょうが!まったく、しっかりしてくださいよ!ああ、これじゃあ、伊勢長島の包囲すらできません。ちょっと、その結託している商人たちを火祭りにしましょうか。せっかく用意した薪が全て無駄になりましたし!」
信長は怒っていた。次こそは、宣戦布告も大義もなく、一方的に反旗を翻して、自分の弟・信興を殺した憎き伊勢長島の一向宗どもを完膚なきにまで叩きつぶす予定が、海の藻くずへと消えてしまったからだ。
「仕方ありません。九鬼くん。これはツケにします。ですが、舟の調達を邪魔してくれた商人たちを拷問にかけなさい。それでも、従わないと言うのであれば、全員の首級をはねて、火をつけなさい。今度は信長が許さないと言う意思を徹底的に教え込みなさい。これで、舟の調達を失敗したら、今度こそ、九鬼くんには切腹を命じますからね!」
「わ、わかったんだオニ。優しさは捨てるんだオニ。必ず、商人たちの協力を取り付けてくるんだオニ。寛大な処置、ありがとうございますだオニ」
九鬼はひたすら、信長に対して平伏していた。信長は、面白くないと言った感じで、伊勢長島から岐阜へ軍を引き揚げさせる。九鬼は汚名返上とばかりにその後、協力を拒んだ商人たちを締め上げていくのであった。
激動の10月は終わりを告げ、11月に入ると同時に、伊勢長島を攻められそうになったことにより、たまらず本願寺顕如が動く。
「顕如くんから和議の使者が来ているんですか?よっぽど、伊勢長島攻めが恐ろしかったと言うことなのでしょうか?」
「ガハハッ!あそこを落とされれば、顕如にとっては、織田領への嫌がらせを行うための土地を失ってしまうのでもうす。まあ、あんな顕如にとって飛び地である領地に意味があるかどうかは、わからないのでもうすがな」
「うーーーん。何を考えているんでしょうね?伊勢長島には、顕如くんの親族でも居るんですかね?そうでもなければ和議を向こうから申し出てくる意味がわかりませんよ」
不思議がる信長と勝家であったが、使者を待たせるのも悪いと想い、岐阜城の屋敷へと顕如からの使者を迎え入れるのであった。
「信長さまのお顔を拝謁できて、大変、光栄なのでございます。拙僧、本願寺の高僧の下間頼廉と申します。このたびの和議についての内容をまとめさせてもらいたいのでございます」
「頼廉くん自ら、お出でになるとは思いませんでしたよ。あなた、大坂の地で散々、織田家を苦しめていた一向宗側の大将を務めていましたよね?なるほど、顕如くんは頼廉くんを送ることで、この和議は意味あるものだと言いたいわけですね?」
「そう受け取ってもらえると、嬉しい限りでございます。さて、長年、本願寺と織田家では、行き違いがあり、戦が勃発してしまったわけでございますが、ここで一旦、双方、頭を冷やし、和議を結びたいと想うのでございます」
頼廉の言いに信長の側に仕えていた、信盛と勝家が太刀の柄に手をやり、今まさに、目の前でふざけたことをほざく坊主に斬りかからんとしていた。それを、信長が、待ちなさい!との一言で抑える。
「頼廉くん?織田家の将たちは、気性が荒いのですよ?発言には充分、注意したほうが良いですよ?なんですか?和議を申し出に来たと想えば、喧嘩を売りにきたのですか?」
「はははっ。そんな喧嘩を売るなど、めっそうもございません。しかし、信長さまが本願寺の教えを捨てろと言ったのも事実。それなら、こちらとしても戦うしかなかっただけだと、それだけなのでございます」
「てっめええええええ!やっぱり喧嘩を売りにきたんじゃねえかよ!」
「のぶもりもり、控えないさい!」
信盛はギリギリと歯がみしながら、太刀の柄にかけた手をカタカタと振るわせる。
「のぶもりもり!」
信長に叱責されたことにより、信盛は太刀の柄から手を放し、どかりとあぐらをかく。何か言いたげにプルプルと身体を震わせはしたが、ここで使者を斬れば、それこそ、本願寺との全面戦争だ。信盛は深呼吸を3回おこない、なんとか、心を落ち着かせることに成功する。
「で、100万歩、譲って、先生が本願寺へ、そのようなことを言ったとしましょうか。まあ、言ってないんですけど。で?そんなとんでもないことを言っている相手と、なんで、本願寺側は和議を申し出ているんですか?そこがそもそもおかしくないですか?」
「いやいや。問題はまさにそこなのでございます。言った言わないと水掛け論になっている今だからこそ、一旦、双方、矛を収めて、冷静になろうと言う提案なのでございます」
頼廉の言っていることは筋が通っているが、所詮、それは詐術の一種であると、信長は想っていた。信長はこの和議を受ける気はさらさらなかったのである。こんな、ふざけた言いよう、とてもではないが許すわけにはいかなかった。だが、頼廉は、秘策を用意していたのである。
頼廉は、木箱からひとつの茶碗を取り出し、信長の前へと差し出すのである。
「こちら、顕如さまより、信長さまへとの贈り物でございます。灰被天目でございます」
「えええええ!名物も名物である、あの灰被天目ですか!?利休くんですら、あれで一度、茶を飲んでみたいと、よだれをダラダラと垂らしていた、あの灰被天目ですか!?」
「ええ。その通りでございます。これで、顕如さまがどれほど、この和議を本気で考えているのか、わかってもらえたはずなのでございます」
「なあ、殿。その灰かぶっいてっ!舌をかんじまった。灰被天目ってのは、そんなにすごい名物なのか?」
「いやあ。すごいってもんじゃないですよ。この茶碗、ひのもとの国では2つしかないのですよ。そのひとつを顕如くんが所持していると言う噂だけは聞いていましたが、まさか本当に持っているとは想いませんでしたよ。先生、殺してでも奪い取ると想っていたのですが、まさか、こんなにあっさりと手に入るなんて想ってもいませんでしたよ!」
信長が畳の上に置かれた灰被天目をまじまじと、それも絶世の美女でも見ているが如くの眼つきでそれを視る。頼廉はしてやったりとニヤリと口の端を歪ませる。
「さあ、これで、顕如さまがどれほどまでに、今までの織田家のいきさつに心を痛め、仲たがいを止めたいのかと言うのはわかってくれたかと想うのでございます。信長さま、ご返答のほどをお願いしたします」
「はいはい、わかりました。顕如くんとの和議、この灰被天目を証として、受け入れます。いやあ、さっそく、利休くんを岐阜に呼び出さないといけませんね。利休くんのことだから、涙とよだれと鼻水を垂れ流しながら、お茶を淹れてくれそうですよ」
「ううむ。殿がそれで良いって言うのなら、俺からは何も言うことは無いぜ。なあ、勝家殿?」
「ガハハッ!殿の名物好きにも困ったものでもうす。だが、頼廉殿、この和議、もしや、嘘だとわかったときは覚悟するのでもうす。本願寺の一向宗どもをひとりたりともこの世から消してやるのでもうす!」
勝家はそう言いながら、頼廉を睨みつける。
「はははっ。心配めされるなでございます。顕如さまは開祖・親鸞さまから連綿とその血を引き継ぐ生き仏なのでございます。顕如さまが約束を反故にすること、ないのでございます」
「まあ、そう願っていますよ。さて、和議の内容を詰めていきましょうか。頼廉くん、本願寺家が織田家に望むことは何ですか?」
「長島及び、大坂、それに畿内各地の一向宗を保護してもらうことにございます。彼らは一心に仏のために、極楽往生のために祈っているだけでございます。彼らに危害を加えぬことを約束してほしいのでございます」
「はいはい。こちらとしましても、顕如くんと和議を結ぶ以上は、無碍なことをするつもりはありませんよ。あと、こちらからも言わせてもらいますけど、本願寺家に対して、織田家から教えを破却しろなどと一度も言っていないことをそちらの信徒に知らしめてください」
「はははっ。互いに不幸な行き違いがあったようでございますな。わかりましたのでございます。顕如さまにしかと、その件、伝えさせてもらうのでございます。信長さま、これからは本願寺と仲良くしていこうではないかでございます」
「そうですね。これで、本願寺とのいざこざは一件落着とします。のぶもりもり、利休くんを探してきてくれますか?この灰被天目でさっそく、お茶を立ててもらいましょう」




