ー浄土の章4- さらば足利義昭。毛利家へ行く
義昭は床の上で大の字になり天井を見上げていた。細川藤孝にぶん投げられたからだ。義昭はただただ、呆然としていた。
「ま、まろが手を出されたのでおじゃる。まろが藤孝にぶん投げらたのでおじゃる。あのお手と言えば、お手をして、まろが暇だと言えば、どじょうすくいをしはじめる、あの藤孝がまろに手をあげたのでおじゃる」
義昭は両の眼からうっすらと涙を流す。
「藤孝が、まろをぶん投げたでおじゃる!まろは藤孝を本当の父親以上に慕っていたのでおじゃる!まろは、藤孝が居なければ、奈良から脱出もかなわかなったのでおじゃる!」
義昭は赤子のように泣きじゃくる。
「まろは何一つ、ひとりではできなかったのでおじゃる。諸国を渡り歩いている時も、まろの横には藤孝がいてくれたのでおじゃる。朝倉家に居る時も、藤孝がいつか将軍になれると毎日、勇気づけてくれたのでおじゃる!」
義昭は失っていくものに向かって泣きじゃくる。
「まろは藤孝のおかげで、信長に出会えたのでおじゃる。まるで夢でも見ているかのように、まろは将軍の座につくことができたのおじゃる。藤孝のおかげで、まろはまろはまろはああああああ!」
義昭は自分にとって、何が1番大切だったのかを想い出しながら泣きじゃくる。
「まろは大馬鹿者だったのでおじゃる。まろは何が大切なのかを見失っていたのでおじゃる。まろは藤孝が1番欲しかったのでおじゃる。でも、藤孝は行ってしまうのでおじゃる。まろが大馬鹿だったから、まろを見限って、信長のもとへと行ってしまうのでおじゃる」
「義昭さま。申し訳ないのでござる。私は決めたのでござる。真にこのひのもとの国の民を救いたいと想っているのでござる。それは、義昭さまの幕臣のままでは出来ないことなのでござる」
「そうでおじゃるか。そうなのでおじゃるか。わかったのでおじゃる」
義昭は泣きじゃくるのをやめて、力なくよろよろと身を起こし、あぐらをかく。そして、泣き腫らした顔で藤孝に言う。
「藤孝。その方の今日までの奉公、ありがたく受け取るのでおじゃる。今、この時点で、将軍・足利家より、藤孝を追放するのでおじゃる。藤孝、大義であったのでおじゃる」
「ははあっ!義昭さま。これが今生の別れとなるのでござる。義昭さま、どうかお身体を労わってほしいのでござる!これにて、藤孝、義昭さまから巣立つのでござる!さらばでござる、義昭さま!」
藤孝は叫びながら、両の眼から涙を流した。あああああと口から嗚咽を漏らしながら泣いた。今まで、仕えてきたものへの別れを惜しむかのように泣いた。義昭もまた、同じく泣いた。父であり、母であり、そして、兄弟でもあった、藤孝の別れを惜しんで泣いたのだった。
藤孝が二条の城から退出した次の日の朝10時。義昭は太刀や鎧も身につけず、平服姿でわずかの側付きと共に、二条の城の門から外に出て行こうとしていた。二条の城の周りには、京の民たちが群がっていた。どの者の眼も義昭を呪い殺さんとばかりに憎しみの炎が宿っていた。
義昭にはその視線が自分を焼き尽くすのではないのかさえ想えていた。自分の意固地が結果的に京の都の半分を焼き尽くさせたのだ。
「将軍さま。お久しぶりですね?随分、顔色が悪いようですが?曲直瀬くん作の薬でも飲みますか?」
そう言いながら、義昭に近づくものが居た。それは銀色に鈍く輝く南蛮製甲冑に身を包ませた、信長であった。信長は兜を左脇に持ちながら、礼もせずに義昭に声をかけたのである。
「ふふっふふっ。まろは夢を持っていたのでおじゃる。しかし、それはただの間違いだったのでおじゃる。まろはこれほどまでに民に恨まれていることすら知らなかったのでおじゃる」
「まあ、そう仕向けたのは先生なのですが、義昭くん自身の行いも手伝ってか、予想以上の結果となってしまいましたねえ」
「信長殿。まろをこのまま行かせて良いのでおじゃるか?きっと、まろはそちの障害となり続けるのでおじゃるよ?」
「ええ。構いませんよ?抗うのは生きている証拠なのです。義昭くんは抗い続けてください。それがどのような結果になるかまでは、先生にはわかりません。ただ、義昭くんが望むことをすれば良いと想いますよ?でも、先生は義昭くんが望む全てを破壊します。それが先生の望みですからね」
「ふっ。最初から水と油でおじゃったか。それに気づかなかった、まろが大馬鹿者であったのでおじゃる。今まで、まろを良い気分で将軍職に就かせていてくれて、ありがとうなのでおじゃる」
信長は想わず、へっ?とすっとんきょうな声をあげる。
「あれ?義昭くん。何か憑き物がとれたような顔をしていますね?しかもありがとうなんて、義昭くんは、今まで、先生に言ったことがありましたっけ?」
「ぬかせなのでおじゃる。散々、言ってきたのでおじゃる。御父と呼んだのも、嘘偽りのない言葉だったのでおじゃる。だが、貴様には空虚な言葉に映っていたのでおじゃるよな?」
「そりゃあ、3歳しか違わない義昭くんに御父とか言われたら、こそばゆいやら、気恥ずかしいやらありませんでしたよ。良いですか?先生、まだまだ若いのです。今年でちょうど40歳なのですよ?義昭くんみたいな大きな子供なんていりませんよ」
「減らず口ばかり叩くやつなのでおじゃる。まあ、その減らず口を聞けなくなると、少し寂しい気分なのでおじゃる」
義昭はそこで一度、信長から視線を外し、晴れ渡る大空を見上げる。
「まろはこれから先、死ぬまで、信長、貴様の邪魔をするのでおじゃる。それが、まろがこの時代に産まれてきた意味なのでおじゃる。信玄はきっと、貴様を食い破らんとするのでおじゃる。せいぜい、震えあがると良いのでおじゃる」
「あれっ!?もしかして、藤孝くん、義昭くんに信玄くんがすでに死んでいることを言い忘れてました?」
信長の言いに大空を見上げていた義昭がうえええええええええ!?とすっとんきょうな声をあげて、信長の顔を再び見るのである。
「ど、ど、どういうことなのでおじゃる!?信玄が死んだとは本当なのでおじゃるか?」
「はい。とっくの昔に死んでいますよ。半年前の4月中頃に、ぽっくりと逝ってくれました。だから、先生、ここまでの逆転劇をかますことができたのです。いやあ、いくら、信玄が死んだことを武田家自らが秘匿していたと言っても、義昭くんにだけは伝えるべきだったでしょうよ。信玄くんは死んでからが1番の大失敗をしましたねえ?」
「な、な、なんたることでおじゃる。では、まろが貴様に対して蜂起したこと自体が無駄だったということでおじゃるのか?」
「無駄ではありませんよ?おかげで、義昭くんは周辺大名を焚き付けてくれたではありませんか。おかげで、ここまで見事な大逆転劇なんて出来ませんでしたからね。いやあ、義昭くんまで京の都から追い出すことができて、済々しましたよ。あっ、毛利家では、少しは大人しくしておいてくださいよ?」
「ま、まろは、まろは何ということしてしまったのでおじゃる。三好三人衆を、朝倉義景を、浅井長政を失ったのは、まろの所為になってしまったのでおじゃる。あやつらにどう詫びれば良いのでおじゃる?」
義昭はわなわなと震えていた。自分が引き金となって起きた、この第2次包囲網をまたしても自分の手でぶち壊してしまったことに後悔の念が彼の胸中に渦巻くのであった。
「まあ、実際、見事な手腕だったと想いますよ。今回の包囲網は。さすがに武田家が、信玄くんが裏切るなんて想ってもいませんでしたからね。でも、信玄くんが死んだことが明暗を分けただけです。義昭くんには半分くらいしか落ち度はありません。だって、義昭くんは信玄くんが死んだことを知らなかったのですから」
「まろは、貴様を追い詰めることが出来ていたと言うのでおじゃるか?」
「はい。義昭くんは立派にこの信長を奈落の底に落としかけていました。でも、あと一手が足りなかったんですよ。その一手が全てをご破算させたのです。次があるとしたら、もっとすごい手を考えておいてくださいね?まあ、叩きつぶしますけど」
信長はそう言い、ニヤリと口の端を上げる。義昭はその信長の顔を見て、ふうううとため息をつき
「次があれば良いのでおじゃるがな。まろは下手をすれば隠岐に流されるでおじゃる。そこで余生を過ごすハメになるかもしれないでおじゃる」
「隠岐に流されて、それでも倒幕を果たした帝がいたのですよ?もしかしたら、義昭くんもそこで生まれ変わって、先生を苦しめる可能性だって捨てきれませんよ?人生、何があるかわかりませんし、まあ、泥船に乗った気分で毛利家に行ってみるといいですよ?」
「ふっ。泥船でおじゃるか。まさに、今のまろにとってはふさわしいのかも知れないのでおじゃる。さて、まろと長話をしている暇は信長殿にはないでおじゃるよな?そろそろ、お別れの時間なのでおじゃる」
「はい、そうですね。下京の再建に取り掛からないといけませんし。義昭さま。今生の別れになりそうですが、お達者で。今まで、ありがとうございました」
「そうでおじゃるな。では、再会しないことを願って、さよならなのでおじゃる。次、会う時は閻魔大王の前でおじゃる。精々、頑張ると良いのでおじゃるよ」
義昭はそこまで言うと、とぼとぼと歩を進め始めたのであった。それから彼はゆっくりと、ただただゆっくりと、中国地方の毛利家に身を寄せるべく、歩いて向かっていったのだった。




