ー浄土の章 2- 燃え行く下京
「いやあ。よく燃えますねえ!自分で再建しておきながら、自分の手で焼くなんて、こんなに心が湧き立つことなんてないですよ!」
1583年10月10日、信長の宣言通り、京の都、正確には下京が業火に包まれていた。焼かれることはないだろうと想っていた民たちは、信長の兵たちにより放火された家から飛び出し、火の海に包まれる下京を必死に逃げるのであった。
「はははっ!まるで民が火だるまのようですよ!さあ、どんどん、燃やしてください!あっ、上京に延焼したら、あなたたち、切腹ですからね?」
松明を持つ兵たちが信長のドスの効いた言葉に震えあがるのである。
「あと、殺人、略奪は禁止ですからね?まあ、燃えたらしょうがありませんけど、刀傷がついている死体がありましたら、犯人を徹底的に探し出して、首級をはねるので、注意してくださいね?」
兵士たちは、信長の言いにごくりと唾を飲みこむのであった。
「さあさあ。まだまだ火が足りてないところがありますよ?じゃんじゃん、燃やしてください!さあ、行った行った!」
朝9時から始まった、信長の兵たちによる放火は、10時を回るころには下京の半分を業火に包むのであった。
だが、それでも、二条の城では、義昭は信長の降伏勧告を聞きいれることはなく、頑なにその城門を閉めて、抵抗の意思を見せていた。
時間が経つにつれ、京の都に住む民たちの怨嗟の声は膨れ上がって行くのであった。焼きだされた民たちが向かった先は、焼きだされた民たちを救うために待機していた佐々や利家の方向ではなく、二条の城の周りに集まりだしたのであった。
「将軍さまは、おらたちを見捨てただあああ!あんなの将軍でもなんでもないだあああ!」
「わたしの家を家族を返してけんろおおお!あんたが無能だから、悪いんだけろおおお!」
「おらああああ。義昭、出てこいやあああ!京の都が焼かれたのは、あんたの所為だろがあああ!」
二条の城の周りは義昭憎むべし!との形相で鍬や鋤を手に持った民たちが殺到していた。
城を包囲していた織田軍5000は、何の因果か、民たちが義昭に対して暴動をおこさぬように抑える側にまわることになる。
「落ち着け、貴様ら!義昭は、必ず、信長さまが罰を与えてくれるでござる!この細川藤孝を信じてほしいのでござる!」
細川藤孝は摂津から呼び出され、民たちが暴徒化しないように、上京の警護を信長から任されていた。だが、藤孝の脳裏には、このまま、義昭が頑強に籠城を続けるならば、民たちを抑えきれずに、上京へとなだれ込み、略奪、殺人、放火をしだすことになるのは明白であった。
「私の言葉が聞けぬのならば、斬るのでござる!全員、抜刀しろでござる!乱暴狼藉を働こうとする者を見つけたら、斬り殺せでござる!絶対に、上京に手を出させるなでござる!」
藤孝の判断は正しかった。下京の民たちの一部が暴徒化したとの情報を聞き、素早く、軍を動かし、暴徒たちを次々を切り伏せていったのだ。そのおかげで、下京の民たちがそれ以上、暴徒化することは抑えれたのであった。
下京につけられた火は益々、その勢いを強め、次の日も業々と音を立てて、下京を焼き続けたのである。民たちの住んでいた家は焼け落ち、寺はその形を歪めくずれていく。さらに、商人たちの屋敷も同様に炎に包まれたのであった。
だが、それでも、義昭は降伏を受け入れない。決して、信長の言う通りにはならないと頑迷さを極めていくのであった。
「あーあ。こりゃ、二条の城に火をつけたほうが良いんじゃねえのか?義昭があそこまで馬鹿で頑固者だなんて想わなかったぜ?」
「二条の城に火をつけたら、帝のおわす御所にまで延焼する可能性があるじゃないですか?のぶもりもりはそんなに切腹を命じられたいのですか?」
「い、いや?そんな腹を切る望みなんて、まったくないよ?で、でもさ。このままじゃ、下京が全部、燃えたところで、あの馬鹿将軍は決して、折れることはないぜ?それに、細川殿が暴徒を必死に抑えているようだけど、かなり厳しいみたいだし」
「まあ、下京の民から見れば、上京は金持ちが住んでいるとでも思っているんじゃないんですか?それこそ、宝の山が目の前にあるんです。善良なひとでも、あわよくばって思うんでしょうね。仕方ありません。光秀くんと秀吉くんにも上京の警護を任せましょうか」
「まあ、それが妥当だろうなあ?で、殿はもちろん、義昭を降伏させる決め手を隠し持ってるんだろ?」
「もちろんですよ。そのために、貞勝くんに動いてもらっています。いくら、動きが鈍い朝廷でも、明日には何かしら、判断を下してくれるんじゃないですか?まあ、下京がこんなことになっているのに、朝廷が動かないようなら、いっそのこと、この世から消してやってもいいんですがね?」
「それができないところがつらいところだよなあ。殿が義昭を、いや、将軍の権威を利用しないってことは、次に利用するのは、朝廷と帝の権威だもんなあ。だから、上京へ絶対に延焼させるなって命令だしなあ」
「本当にめんどくさい話ですよ。権威、権威、権威。どこに行っても権威です。先生、いまだに自分自信の権威なんて、吹けば飛ぶシロモノですからね。いくら領土を増やそうが、権威だけは増えません」
「畿内のほぼ全土を手中におさめて、尾張、岐阜、伊勢、さらに若狭、越前まで織田家の領土って状況なのになあ?こんなに広い領土を治めている大名なんて、北条家、武田家、毛利家だけなのになあ?」
「正直、権威だけで言うなら、その中で一番権威を持っているのは、清和源氏の本家筋の武田家ですね。先生、平氏の血筋で、さらには越前の守護大名土岐氏に仕える守護代の家老の家格ですからねえ?この先、どれだけ、朝廷から官位をもらおうとも、権威ある方々からは、影で嘲笑されることになるでしょうねえ?」
「しかも、斬り捨てれば済む話ってわけじゃないもんなあ?ったく、誰だよ、こんなめんどくさい制度?ってか、体制を作り上げたのは!」
「そこに怒ってもしょうがありませんよ。それこそ神代の時代からの風習ですし。そこに歴史が積み重なっての権威なんですからねえ?ひのもとの民たちが自ら望んだことです。そこに文句を言っても始まりませんよ」
「結局、農民の子はしょせん、農民の子としか見られないのかねえ?そんな世の中、ぶち壊してやりたい気分だぜ。なあ、殿。なんとかならんのか?」
「まあ、それこそ、新たな権威を偉業を農民の子がその手で築きあげるしかありませんねえ?例えば、秀吉くんが人身位を極めるくらいの偉業がいるんじゃないんですか?」
「秀吉かあ。確かに、あいつは農民の子だしなあ。今や城を任されるまでの身分までに登ってきたわけだけど、それでも世間様は認めてくれないんだろうなあ」
「まあ。先生が天下を治めて新たな将軍にでもなって、織田家の家臣の皆さんで朝廷の官位を全部、奪っちゃうくらいすれば、さすがに権威は充分に高まるでしょうね?まあ、それでも関白、帝の権威を超えることは難しいでしょうけど」
そこまで信長が言うと、信長は豪華に包まれている下京を眺める。
「よくよく燃えてくれていますね。この業火と風の音はまるで、京の都の民たちの怨嗟の声が乗り移っているようにも見えます。いやあ、先生が焼かれる身だったら、二条の城の天守から身投げしてしまってますよ」
「嘘つけ。この程度の怨嗟の声で、殿がおかしくなるんだったら、とっくに身投げしてんだろ。それこそ、ひのもとの国全ての民たちの怨嗟の声でもなけりゃ、殿はびくともしない気がするぜ?」
「さすがに買い被りすぎでしょ、のぶもりもりは。先生だって人間ですよ?辛いことがあったら泣いて、嬉しいことがあったら泣いて、楽しいことがあったら泣いて。あれ?なんだか泣いてばっかりですよ?先生、めっちゃくちゃ人間らしいじゃないですか!」
信長の言いに信盛があほくさっと言う顔付きになる。
「まあ、殿のたわごとは無視するとして、義昭が腹を切ったら、どうするんだ?いくら直接、殿が手を下さなくても、将軍殺しの汚名は、殿が手に入れることになっちまうけど?」
「もう、ここまできたら、しょうがないんじゃないですか?義昭がこの焼け崩れていく下京の光景を見せつけられても、正気を保っていられるのなら、先生、義昭くんを1家臣として召し抱えたくなりますよ?」
「まあ、普通なら狂ってしまってもおかしくないもんなあ。でも、最初から狂っていたらどうするんだ?義昭はどこか、そんなところがあるような気がしてたまらないぜ?」
「うーーーん。あんまり褒められた狂い方ではないですねえ?やっぱり、義昭くんを召し抱えるのはやめましょう。どこかの孤島に島流しにでもしますか。隠岐、佐渡、どっちが良いと想います?」
「淡路とかどうよ?ああ、だめか。本願寺顕如が近すぎるなあ。じゃあ、隠岐が良いんじゃね?誰がそこまで連れていくかまでは知らんけど」
「では、毛利くんにでも頼みましょうか。馬鹿をひとり送るから、隠岐にでも閉じ込めておいてほしいと。あの馬鹿さっぷりなら、毛利くんが振り回される可能性も出てきますからね?少しは、中国覇王にも将軍を扱う厄介さを経験させておきましょうか」
「お優しいことで。まあ、将軍なんか奉戴した日にゃ、明確に織田家と敵対することになるからな。毛利との大義名分を得るためにも、いい案かもしれないなあ?」
「義昭が片付けば、本願寺顕如、武田勝頼だけです。その後に控える毛利家とは必ずぶつかることになるでしょう。何年先になるかわかりませんが、種火をくすぶらせておくことは必要ですからね?」