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ー崩壊の章 7- 長政と市

「さて、軍議を始めるのだぞ。朝倉殿にはすでに救援要請は出しているのか?だぞ!」


「ははっ!もちろん、南近江で織田軍が東進を始めた時にはすでに朝倉家に早馬を飛ばしているのでござる!遅くとも8月8日の朝には、ここ、小谷城の西に辿り着くはずでござる!」


 長政の問いかけに海北綱親かいほうつなちかがそう応えるのである。


「よしっ!それでは、朝倉殿が到着するまで、織田軍の動きを警戒しつつ、防衛をするのだぞ!そして、俺はかわやに籠るのだぞ!」


「ちょっ、ちょっと、待ってほしいのでござる!そりゃあ、朝倉殿が救援に来るまでやることがないと言えばないでござるが、それで軍議を終えてもらっては困るのでござる!」


「ううう。大声を出すのはやめてほしいのだぞ。腹がしくしくするのだぞ。便意が小波から大波に変わっていくのだぞ」


 長政は自分の腹を両手で抑えて、そう言うのである。


殿との。お言葉ながら、鮒寿司が原因ではないのでは?じゃ。鮒寿司は発酵を重ねれば重ねるほど美味くなるのは間違っていないのじゃ。別で殿とのは腹が痛いのではないかじゃ?」


 赤尾がそう疑問する。だが、長政はそれを否定する。


「俺の胃と心臓には毛が生えているのは、お前たちが一番良くわかっているはずなのだぞ。飛ぶ鳥落とす勢いの義兄・信長を裏切るほどの男なのだぞ、この俺は」


 うーん。そうでござるよなあ?と想う海赤雨うみあかあめ3将である。


「一応、侍医じいを呼んでくるでおさる?何かの病気だったら大変でおさるし。この浅井家の一大事に殿とのが動けないとなると、大変になることでおさる」


「うむ。弥兵衛やへえ殿の言う通りでござるな。殿との、少し、お待ちくだされ。侍医じいを連れてくるのでござる」


「ちょっと、その前に大きな波がきたのだぞ。かわやに行ってくるから、侍医じいを部屋で待機しておいてほしいのだぞ」


 長政はそう言い残すとまた1時間、かわやにて籠ることになる。


「ふう。出す物出してきたのだぞ。腹が減って仕方ないのだぞ。遅くなったが、昼メシにするのだぞ」


「それよりも先に侍医じいに身体を診てもらってほしいのでござる!昼メシなど、あとでいくらでも食べられるのでござる!」


 綱親つなちかが口うるさく言うので、仕方なしに長政は従うことになる。そして侍医じいは長政の身体に指をはわせていき、時折、指先でトントンと叩いて行く。10分後、侍医じいの診断結果が発表されることになる。


「ただの便秘だったのが、鮒寿司の力によって、お通じがよくなりすぎてしまっただけですな。まあ、しばらくはみずっぽい何かが尻の穴から噴射されることになるかもですが、2,3日安静にしていれば、良くなるでしょう」


「ほっ。ただの便秘でござったか。それなら安心でござる。殿とのは野菜を採らないからすぐに便秘になるのでござるよ。これからは食生活に注意してほしいのでござる」


「はははっ。すまないのだぞ。いやあ、野菜は最近取ってなかったのだぞ。市との仲が悪くなってからは、市が手料理を作ってくれなくなったのだぞ」


 長政の言いになんと言ったものかと3将たちは逡巡する。奥方のお市さまとの仲が悪くなったのは長政さま本人の取った行動だとは言え、浅井家には独立機運の志を持った将たちも多く、織田家との同盟が段々、自分たちの行動を制限するもののように見えていたのも事実だったのだ。


 だからこそ、長政さまが信長から離反した時に、喜んだ者たちも多くいたのだ。だが、その者たちは今や、消えつつある浅井家の命に悲観し、何故、あの時、反旗を翻したのだと恨み事を言いだす始末である。


 なるべく、その声が主君の耳に入らぬよう3将たちは気をつけてきたが、時間が経てば経つほどに、その怨嗟の声は膨らんできていた。


「うーん。この黒豆を煮たものがすごく美味しいのだぞ。こんなに上手い黒豆は久しぶりなのだぞ。今年は暑いゆえ、豆類がよくよく育っているのかだぞ」


 長政は3将たちの気疲れも知らずに、もくもくと昼メシを喰っていた。


「しかし、この黒豆を煮たのは誰なのだぞ?こんな腕があるのであれば、一度、料理を担当する者の顔を見ておきたいのだぞ」


 長政がそこまで感心するので、3将たちも膳の上の小鉢に乗せられていた黒豆に箸をつける。そして、その美味さにほおおおと想わず感嘆の声をあげるのであった。


「ううむ。これほどまでに美味い黒豆は、自分も初めてなのでござる。これは、料理した者を褒めねばならないのでござる。誰か、炊事場に行って、その者を呼んできてくれなのでござる」


 綱親つなちかが側付きにそう伝える。側付きは、はっ!と応え、炊事場へと料理人を探しにいくのであった。


 そして10分後、その側付きが連れてきた料理人を見て、長政だけでなく海赤雨うみあかあめ3将まで驚くことになる。


「あらあらあら。皆さん、そんなに眼を丸くしてどうしたのですわ?わたくしが作っていたことにそんなに驚いてしまったのですか?」


 側付きがつれてきた料理人はお市であったのだ。こればかりは誰も想像などしていなかったのである。


「お、お市。どうしたのだぞ。お前が炊事場に立つなぞ、3年振りではないのかだぞ!」


「あらあらあら。長政さま。失礼ですわ?これでも、こっそり、部屋を抜け出しては長政さまのために料理を作っていたのですわ?」


 な、なんだと?と想う長政である。半ば軟禁状態にしていたため、城と城内にある大屋敷以外への移動は制限していた。まあ、炊事場は大屋敷にもあるので、そこは制限内なのではあるが。


 しかし、長政が義兄・信長に対して離反してからは長政はお市から距離を取っていた。夫婦の会話も少なく、もちろん、夜のイチャイチャもここ数年、すっかりしていない。


 それなのにだ。お市は自分の眼を盗んで、こっそりと自分のために手料理を作っていたのだ。長政は手に持っていた黒豆の入った小鉢をポトリと畳の上に落としてしまう。


「あらあらあら。せっかく、丹精こめて煮た黒豆を落としてしまって。もしかして、お口にあいませんでした?」


「違うのだ。違うのだ。俺はショックを受けてしまっただけなのだ」


 長政はそう言った瞬間、大粒の涙をぼろぼろと両眼からこぼれ落とす。その姿を見たお市は


「うふふ、美味しすぎて、ショックを受けてしまったのですわね。これは頑張って作った甲斐がありますわ!これは母から念入りに教わったのです。あなたがどこかの大名家に嫁ぐことがあったら、その男の胃袋をこれで掴みなさいと」


 お市がほほ笑みながら、そう言うのである。長政はお市の言葉を聞けば聞くほど、涙が両眼から溢れてくる。ああ、俺はこんなに自分を想っている女性を3年近くもほったらかしにしてしまったのだぞと。


「市、すまないのだぞ。すまないのだぞ!」


 長政はひぐっうぐっと嗚咽を漏らしながら泣く。お市は長政の横に歩を進め、長政の脇で座り、よしよしと長政の頭を撫でる。


「長政さまは本当に子どもで世話が焼けるのですわ。わたくしが、長政さまの舌に合わせて手料理を作っていたと言うのに、全然、気付いてくれてませんでしたし。しかも、今は大の大人が子供のように泣いているのですわ?」


 長政は市に抱き着き、わんわんと泣き続けるのであった。


 それから10分後


「やっと、落ち着いたのだぞ。市、今まで済まなかったのだぞ。お前ほどの良い女をほったらかしにしたこと、詫びるのだぞ」


 長政はあぐらの状態に座り直し、市に深々と頭を下げる。


「あらあら。改まって、どうしたのですか?今夜は久しぶりにイチャイチャでもします?」


「ああ、いや、まあ、それはイチャイチャはしたいんだぞ。だが、今はいくさ中なのだぞ。さすがに俺でも立たないのだぞ」


「それは残念なのですわ。まあ、仕方ありませんわ?いくさが終わったあとに、市を求めてほしいのですわ?」


 市がそう言うが、しかし、長政は返答に詰まる。この小谷城での籠城は、いや、広い意味でのいくさはいつ終わるのだろうか?


「どうしたのですか?長政さま」


「ああ、このいくさ、いつになったら終わるのだろうかと想ってしまったのだぞ。義兄・信長はどこまで戦いつづけるのだろうと想ってしまったのだぞ」


「うーーーん、そうですわね。きっと、このひのもとの国の全てのいくさが終わるまで戦いつづけると想うのですわ?女の勘ですけどね?」


 お市の応えに、想わず長政がははっははっと笑ってしまう。


「あら?何か、市はおかしなことを言ってしまいました?」


「いや。そうではないのだぞ。お市の言う通りなのかもしれないのだぞ。義兄・信長は、立ち止まることを知らぬ男なのだぞ。きっと、市の言う通り、その命が尽きようとも、ひのもとの国からいくさがなくなるその時まで戦いつづけるはずなのだぞ」


 長政はそう言い、姿勢を正して、市を見つめ直す。長政にはある想いが去来する。そして、ついに決める。


「市。この10年余り、俺に尽くしてくれて、感謝するのだぞ。俺は市に救われたのだ。今日、この日、市と離縁するのだぞ」


 市は、えっ?どういうことですか?と長政に聞く。長政はにっこりと笑い


「俺は死ぬ覚悟ができたのだぞ。だが、市。そなたには生きていてほしいのだぞ。この長政に代わり、このひのもとの国からいくさのない時代を生きてほしいのだぞ」


 長政はそう言うと、市に対して頭を下げる。市からは恨まれるであろうと、そう覚悟していた。しかし、市は、はあああと深いため息をつき、そして言う。


「まったく、長政さまはひどいのですわ。市は長政さまの妻なのですわ。離縁を言い渡されても、私は長政さまのお側に居させてもらうのですわ?」


 そして、市は下を向いている長政の右手に自分の両手を添える。そして、長政の右手をそっと、自分の左ほほに当てて言う。


「私は長政さまと共に逝きます。それが例え、地獄だとしても。それが長政さまの妻としての役目なのですわ?」


 市は左眼から涙を流していた。その涙は長政の右手に伝わっていく。長政はただ、ただ、その流れる涙が暖かいと感じるのであった。

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