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ー狂喜の章18- 勝家と香奈

「おお、香奈。大事ないかでもうす。ほら、京の都の医聖・曲直瀬道三まなせどうさんの薬でもうす。これを飲めば、すぐにでも元気になれるでもうす!」


 勝家かついえは嫁の香奈の容態が悪化したことを聞き、信長から許しをもらって、岐阜の自分の屋敷へとすっ飛んで行ったのである。道すがら出くわす鹿や熊、そして猪たちを香奈の大事な栄養源でもうすとばかりに生け捕りにしつつ、屋敷へとたどり着いたのである。


「こほんこほん。一体、血相を変えて、どうしたのじゃ。わらわにそんなに会いたかったのかじゃ?」


「そんなの当たり前でもうす!殿とのに無理を言って、1カ月、休暇をもらってきたのでもうす。さあ、鹿鍋、熊鍋、猪鍋、好きな方を言うのでもうす。我輩みずから包丁を握って、香奈に振る舞って見せるのでもうす!」


「そんなにたくさん食べれないのじゃ。わらわの身体をねぎらうのは嬉しいのじゃが、加減と言うものを知らないのかじゃ」


 香奈が布団の中で伏せながら、勝家かついえの脇を見る。そこには鹿3匹、熊1匹、そして猪5匹が縄につながれて、涙を流しているのである。いつ、食材にされるかと動物たちは泣かずには居られなかったのだ。


 香奈はその動物たちを見ると、はあああと深いため息をつき


「鹿と猪は離してやるのじゃ。さすがに見てて哀れな気持ちになってしまうのじゃ。すまんのう。うちの亭主は馬鹿なのじゃ。お前たちにも家族がおろうて。次は捕まらないようにするのじゃぞ?」


 熊さんが、あれ?僕はダメなの?と言う顔つきになるが


「熊の肝は妙薬となると言われているのじゃ。熊さんや、すまんのじゃ。わらわの命が少しでも長くもつように、犠牲になってほしいのじゃ」


「ガハハッ!香奈は優しいのでもうす。では、鹿と猪は家の裏山にでも離してくるのでもうす。熊公、悪いが夕飯になってもらうでもうす。なあに、痛みをともわないように一瞬で首の骨を折ってやるでもうす」


 熊さんは逃れえぬ死への運命に逆らおうとした。身体を縛っていた縄をその膂力で引きちぎり、自分を喰おうとする勝家かついえに対して、その獰猛な右手の爪を勝家かついえの左ほほに叩きつけようとしたのである。


「うむ。その意気や良し!筋肉120パーセント解放でもうす!」


 熊さんは見た。直径10センチメートルほどの木の幹なら1撃で叩き折れる自分の右手の一撃を、目の前の人間の左腕で、バーーーンッ!とはじかれたのを。


 さらに熊さんは弾かれた自分の右腕を見て、驚きを隠せない。なんと、右腕の肘から先が通常では有りえない方向に曲がっているのである。そして、それを認識すると共に熊さんは右腕に激痛を感じるのである。


 熊さんは想う。目の前の人間相手に最初から戦ってはいけないことに。縄を引きちぎった時点で、背中を見せて全速力で逃げておけば良かったのだと。


「さて。約束通り、一瞬で絶命させてやるでもうす。なあに、お前の肉は我輩と香奈が残らず食べてやるでもうす。ふんぬおらああああああ!」


 熊さんの眼にはスローモーションで、目の前の人間の右こぶしが飛んでくるのが映る。その何もかもを破壊せんとばかりの狂気をまとったそれが、自分のあごに突き刺さる。その瞬間、熊さんの視界は真っ暗になり、それ以上、何も痛みを感じなくなってしまうのであった。


「ふむ。熊如きが我輩に勝とうなど、100年早いでもうす。さあ、香奈よ。薬を飲むでもうす。我輩は夕飯の支度をしてくるゆえ、しばし、ゆっくり寝ているが良いのでもうす」


「鹿さんと猪さんを家の裏山に放してくるのも忘れてはならないのじゃ。彼らが繁殖すれば、後々、役に立つときがくるのじゃ」


 鹿さんと猪さんは、ひいいい!と言う顔付きになる。解放されたのちは、何が何でもこの土地から逃げのびてみせると獣ながらに心に誓うのであった。


 それから数時間後、出来立ての熊鍋を勝家かついえが担いで、香奈が眠る寝室へとやってくる。


「香奈、熊鍋が出来たでもうす。特におすすめは肝でもうす。起きてくれでもうす」


「おお、美味そうな匂いなのじゃ。しかし、噂には聞いていた曲直瀬まなせ殿の薬はよくよく効くのじゃ。熱がすっかり引いていってしまったのじゃ」


「ガハハッ!めちゃくちゃ高い薬でもうす。これで効かなかったら、曲直瀬まなせ殿を曲直瀬まなせ鍋にしなければならなかったでもうす。いやあ、残念極まりないでもうす」


「何を言っているのじゃ。曲直瀬まなせ殿に感謝すれども、曲直瀬まなせ鍋にする必要はないのじゃ」


「それがなでもうす。請求書を手渡されたのでもうすが、100貫と書かれていたのでもうす!薬ひとつで100貫でもうすぞ?大きな屋敷を建てることができるでもうす!」


 勝家かついえが愚痴を言いながら、お椀に熊の肝を煮たものと、野菜をいくつか盛っていく。そして、それを香奈に渡すと、彼女はハフハフと言いながら、食していくのである。


「うーん、美味い肝なのじゃ。これほどまでに美味い肝は中々に味わえないのじゃ。身体から力があふれ出すような感覚を覚えるのじゃ」


 香奈がパクパクと熊鍋を食べていく姿を見て、勝家かついえは、ほっと胸をなでおろす。


「香奈が倒れたと聞いた時は、もうダメでもうすかと想っておったでもうす。これは曲直瀬まなせ殿に何か贈り物をしておかなければならないでもうす」


「それなら、京の都へ戻る道すがら、生きの良い熊でも捕まえるといいのじゃ。きっと、曲直瀬まなせ殿も喜んでくれるのじゃ」


「おお、それは良い案でもうす。では、熊を3匹ほど生け捕りにして、曲直瀬まなせ殿の診療所に贈っておくのでもうす!」


 勝家かついえはガハハッと笑い、香奈はうふふっと笑い返すのであった。それから1カ月ほど、香奈の容態を見守ったあと、勝家かついえは京の都へと帰路に着こうとする。この頃にはすっかり、香奈も布団の中から出れるほどには体調も回復しており、勝家かついえを見送るために屋敷の外へと出るのであった。


「おお、香奈。無理をしてはいけないのでもうす。いくら、体調が良くなってきたからと言って、夏場の太陽の日差しは毒でもうす。さあ、見送りは良いから、屋敷の中へと入るのでもうす」


「何を言っておるのじゃ。わらわが日に日に元気になるにつれて、毎晩のようにわらわの身体を求めてきたのは一体、誰なのじゃ。ここ1週間は、お前さまの所為でまともに寝れなかったのじゃ」


 香奈の言いに、勝家かついえが、うぐぐっ!と唸ってしまう。


「そ、それは仕方ないのでもうす。香奈が元気になってきたと同時に、我輩のいちもつも元気になってしまったのでもうす。悪いのは熊の肝なのでもうす。あれは精力旺盛になってしまうのでもうす!」


 勝家かついえが慌て顔で言い訳をする。香奈が、はあああと深いため息をつき


「別にお前さまに求められるのは、嬉しい限りなのじゃ。でも、お前さまには畿内で果たさねばならない仕事があるのじゃ。そっちのほうに体力を残しておくべきなのじゃ」


「う、うむ。わかったのでもうす。浅井・朝倉の掃除が終わったら、またすぐに岐阜へと舞い戻るのでもうす。薬のほうは、随時、京の都から送るゆえ、無理をせぬようにでもうす」


「わかっておるのじゃ。さあ、早う行きなさいなのじゃ」


 香奈はそう言うと、手に持った火打石を勝家かついえの背中でカンッカンッと鳴らす。勝家かついえはその音を聞き、満足気な顔つきで


「正月には必ず、皆で岐阜に戻ってくるのでもうす。その時は大宴会となるはずでもうす。香奈にも参加してもらうゆえ、ちゃんと養生しておくでもうす。では、行ってくるでもうす!」


 勝家かついえは馬の鐙に足をかけて、よいしょっとばかりに馬に跨るのである。そして、別れを惜しむようにゆっくりと馬を前進させる。香奈は勝家かついえの背中を見つめながら、いってらっしゃいなのじゃ!と精一杯、声をあげる。


 勝家かついえは馬に跨ったまま、右腕を宙につきあげる。そして、足で馬の腹を軽く蹴り、ぱっかぱっかと馬を走らせるのであった。




「ガハハッ!お待たせしたでもうす。おかげで久しぶりに嫁の香奈とたっぷり愛しあったのでもうす。これは殿とのに礼を言っても言い足りないのでもうす!」


「ああ、勝家かついえくん、やっと戻ってきましたか。これでやっと、軍議を始められますね。勝家かついえくん、戻ってきてばかりで悪いのですが、その生け捕りにしてきた熊さんたちをどこか余所に持って行ってきれません?先生と勝家かついえくんはともかくとして、他の人たちが熊さんに喰われかねませんので」


「ガハハッ!感謝の気持ちを込めて、岐阜から京の都に戻ってくる最中に3匹ほど生け捕りにしてきたでもうす。一匹は曲直瀬まなせ殿の診療所に贈っておくでもうす!」


「それは曲直瀬まなせくんも喜びそうですね。熊さんの肝は良い薬になると聞いています。では、うちの台所に2匹、曲直瀬まなせくんのところに1匹ってところで配分しましょうか」


「おい、殿との勝家かついえ殿。盛り上がっていることろ申し訳ないんだけど、生きたまま、曲直瀬まなせ殿の診療所に熊さんを贈るのは、やばくないか?」


「ん?のぶもりもり。何を言っているのですか。生きている熊さんだからこそ、その生き肝が良い薬になるんですよ。死んだ熊さんの肝ではダメなのです。のぶもりもりこそ、勉強不足ですよ?」


「ああ、いや、まあ、そう言うたぐいの話は聞いたことはあるけど、曲直瀬まなせ殿だと、逆に熊さんに自分の生き肝を喰われちまう気がするんだけどなあ?」


「まあ、曲直瀬まなせ殿なら、何かしら手だては持っているはずなのじゃ。近頃は南蛮渡来の痺れ薬を使って、痛みをともわないように身体を刃物で切ったり、針と糸で縫ったりなどに挑戦しているようなのじゃ。熊の1匹や2匹、曲直瀬まなせ殿の手にかかれば、赤子の手をひねるようなものなのじゃ、多分」


 貞勝さだかつの多分と言う締めくくりに信盛のぶもりは激しくツッコミを入れたくなるが、まあ、我慢しておくことにする。勝家かついえ殿が京の都に戻ってきたことにより、織田の主戦力がほぼ揃ったと言って過言ではない状態だった。


 信長たちは否応なく、昂っていたのである。一度は手中に収めかけた天下を再び、この手に取り戻す。その戦いが佳境に入っていくのを肌で感じ取っていたのであった。

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