ー狂喜の章13- 山県昌景は遺言を守ろうと旅をする
武田四天王のひとり、山県昌景は4人のお供を連れて旅に出ていた。彼には亡き信玄から託された使命があった。その使命を果たすために単独、織田領に忍び込んでいたのである。
「明日、瀬田で旗を立てよ。明日、瀬田で旗を立てよで候」
山県はまるで念仏を唱えるかの如く、信玄最後の言葉をぶつぶつと呟いていた。忍んだ旅路と言えども、織田領にまたがる街道を抜ければ自分の正体がバレて拘束されるかも知れない。
そのため、町や村には山県自身はほとんど滞在せず、山や林、そして森に潜み、雨風を凌ぎながら、ゆっくりとゆっくりとであるが京の都へとひたすら歩を進めるのであった。
道中、猪に出くわし、久しぶりのご馳走だと喜んだ日もある。ああ、あの猪肉は美味かったの候。殿も猪肉が好物であったと山県は想い出す。
「ううう。胃がんだと気づかなかった我輩の眼は腐っていたので候。殿はいっぱい、腹いっぱいに美味いものを食べて、あの世へと旅立ちたかったはずで候。日に日に痩せていく殿を見ているのはつらかったので候!」
山県は焼いた猪肉にかぶりつきながら、両眼からハラハラと、ハラハラと涙を流すのである。そして、お供の者たちに亡き主君・信玄との思い出話をしながら、笑い、最後はいつもその死を悼んで泣くのであった。
山県が京の都の瀬田へ向けて旅立ってから、早3か月を過ぎようとしていた。甲斐の国から出立し、信濃、岐阜、そして南近江を大きく南周りに移動し、伊賀の地を越え、甲賀の地までたどり着いていた。
この甲賀の地は六角義賢がゲリラ活動の拠点としていると聞いていたので、事情を里の者に話せば、久しぶりに暖かい布団で今夜は眠れると想っていた。だが、山県の思惑は外れることとなる。
「おい。こいつ、織田家に逆らうつもりの奴らなんだば!こいつをこのまま生かしておけば、信長さまが約定違反だと怒って、里を焼くに決まっているんだば!」
「ひい、ひいいい!せっかく、信長さまがもう戦わなくても良いと言ってくれたのに、こいつは里に災いをもたらすやつなんだぎゃー!」
「とうちゃーん。とうちゃーん。もう戦うのは嫌だよーーー。義賢は追い出したんでしょー?こいつらも追い出してよーーー!」
山県一行は甲賀の里の者どもの反応に面喰らう。お前らは信長が憎くて、憎くて、長年、義賢を奉じて闘ってきたのでは無いのでないか候!と、そう叫ぶ。だが、それがいけなかった。ますます、甲賀の里の者たちは山県一行に対して拒否感をあらわにする。
「信長さまは優しい方なのだば!戦で荒れ果てた地では今年の冬を乗り越えられないであろうと、2年間の年貢を無しにしてくれなさったんだば!」
「そうだ、そうだ!俺たちは義賢に騙されていたんだぎゃ!義賢は信長がこの地にやって来れば全てを焼き払われると脅していたんだぎゃ。でも、実際に、信長さまがやってきたら、村々を焼き払うどころか、信長さまに逆らってきたことを一切、許してくれたのだぎゃ!」
「信長さまのおかげで、今日もたくさんごはんを食べれるんだー。とうちゃんも戦に無理やり駆り出されることもなくなったんだー!信長さまの悪口を言う奴なんて、こうだーーー!」
10歳にも満たない、子供が道端に転がっていたこぶし大の石を掴み、山県に対して、投げつける。
「お、おい。やめるで候!我輩を誰だと想っているで候!」
だが、ここで自分が武田家の重臣だと言ってしまえば、どうなるであろうかは明白であった。うぐぐっ!と山県は唸り、次に続けようと想っていた言葉を腹の中に飲みこむのである。
子供が石を投げたのをきっかけに甲賀の里の大人たちの罵声は一気に勢いづく。このままでは捕らえられ、すまきにされ、私刑に合う可能性が高いと判断した山県は甲賀の里から脱出を図る。
だが、甲賀の里の者は義賢がゲリラ活動の拠点としていた場所だ。森深き場所に山県一行が逃げ込んでも、執拗に追い回されることとなる。このまま、京の都へと向かうより、一旦、奈良で信長に反乱を起こした松永久秀が居城としている信貴山城へと進路を変更する山県一行であった。
「ふうふうふう。本当にしつこい奴らで候。三日三晩、まともに眠るどころかメシにありつくこともできなかったで候。松永久秀殿を頼って、今夜こそ、まともなメシとふかふかの布団で眠りたいので候」
山県は飢えと乾きと睡眠不足でよたよたと奈良の地を進んでいた。この丘を越えれば信貴山城が見える。そう、心に発破をかけながら、重い足取りに喝を入れる。
しかし、山県が見たのはまさに絶望であった。織田軍1万を超える兵で信貴山城は完全に包囲されており、アリの1匹すら城内に入り込む隙は無かったのである。
「ど、どういうことで候。信貴山城が完全包囲されているので候。しかも、織田軍は囲むだけ囲んで、まったく城攻めを行っているわけではなさそうで候!」
山県から見れば、信貴山城は攻められた形跡はほとんど見られない。織田軍はただただ包囲しているだけである。信貴山城はひのもとの国で最初の石作りの垣に天守閣を備えた城である。攻め落とすには3万以上の兵で一斉に攻める必要がある。そう山県に想わせるだけの貫禄をあの城は持っている。
だからこそ、織田軍は包囲だけしているのだ。だが、この包囲状態はいつから続いているのだろうか?ひょっとして春先からこの包囲は続いているのではなかろうか?そう想い、山県は道沿いの田園地帯を見る。その田園地帯が荒れ果てていることに山県はさらに心に絶望感が去来する。
「な、なんということで候!この田畑の荒れ方から見るに、去年の稲刈りもまともに行われている形跡が見えないので候!信長は奈良の地を地獄へと変えるつもりなのかで候か!」
山県は心が怒りの炎で染まっていくのを禁じ得ない。奈良の領主である松永久秀ひとりを苦しめるだけなら良い。だが、信長は逆らう奈良の民、全てに塗炭の苦しみを与えているようにしか見えないのである。
甲賀の里の者たちは信長の赦免や年貢の2年間の取りやめに感謝をしていた。だが、奈良の地は信長にとって敵対国である。ここまで、敵対する者たちに厳しいことは今は亡き信玄さまでもやってこなかったことだ。
山県はギギギと歯ぎしりしながら、信貴山城を包囲する織田軍の兵士を睨みつける。
「今に見ていろで候!勝頼さまが立派に信玄さまの跡を引き継ぎ、貴様たちの罪を罰してくれるので候!奈良の民たちよ。しばらくの間、我慢していてくれで候!きっと、勝頼さまがお前たちを苦しみから解放してくれるので候!」
「ん?なんだ、お前。見たところ、旅の浪人に見えるでござるが、こんなところに何用でござる?」
山県はギョッとして声のする方向へと振り返る。いつの間にか、自分の背の方に男が一人立っていたのである。いくら、考え事をしていたからと言って、気配も感じずに後ろを取られるのは山県にとっては初めての体験である。
山県は背中に冷や汗を感じずにはいられない。この男、できる!そう思わせるだけのものを目の前の男から発せられている気分になるのだ。
「拙者は織田方の将、山内一豊でござる。浪人と見られるお前は織田家への仕官でもしにきたでござるか?しかし、ここ奈良では戦の最中ゆえ、京の都の信長さまを訪ねてくれないかでござるよ?」
こいつ、的外れなことを言って、我輩の注意をそらし、その間に斬ってくるつもりで候!ここで武田四天王のひとりである自分を討ち取れば、織田家にとって、大きい槍働きとなるで候。そう、山県は想うのである。
「んん?険しい顔をしてどうしたのでござる?ああ!拙者、気付かなかったでござる。腹が痛いのでござるな?うーむ。生憎、ここは田畑しかないでござる。まあ、畑のこやしとばかりにその辺で野グソをすればいいでござる。紙なら持っているゆえ、これを使うと良いでござる」
そう山内が言うと、肩下げをごそごそとしだす。山県は咄嗟に顔を両腕で覆い、奇襲に備えて身構える。
「はははっ。何を驚いているでござる。何も目つぶしなどをしようとしているわけではないでござる。ほら、紙でござる。ゆっくり、その辺で野グソをしてくるでござる。では、拙者は戦働きをしなければならぬゆえ、ここでお別れでござる。次、会う時はそなたが織田家に仕えていてくれることを期待しているのでござる」
山内は身構える山県の右腕を掴み、その手に紙の束をバンッと手渡して、笑いながらその場を去っていく。
「な、なんだったので候?あの者、山内一豊と言っていたで候。武田家には名前など知られていないので候。しかし、あれほどの腕前の男が織田家にいながらも最前線でも無い奈良の地に信長は配属させているで候。なにか訳ありなのか?で候」
先年の戦では、信玄さまが織田方の滝川一益と佐久間信盛と言う、織田家を代表する将を打ち破っている。だが、あれらはほんの先鋒程度であり、まだまだ、隠し玉を持っているのかと戦々恐々(せんせんきょうきょう)となる山県であったのだ。