ー巨星の章20- 明日、瀬田に旗を立てよ!
信玄は鎧を着込み、兜の緒を山県の手により結わされることになる。信玄はふむとひとつ息をつき、自分の愛馬の鐙に左足をかける。だが、上手く自分の身に力が入らず、すっころぶことになる。
「あーはははは!馬から転げ落ちるとは、我ながら、もうろくしたのだわい。まるで、源頼朝のようだわい。これで、死んでいたら笑い話にもならないのだわい」
馬から転げ落ち、地面に大の字になっている信玄に武田四天王の面々が駆け寄ってくる。
「殿、だらしないので候。寝ていてばかりいたから、身体の筋力が衰えてしまったので候。さあ、手を貸すので立ってくださいなので候」
「すまぬのだわい、山県。わしはどれほど眠っていたのだわい。頭がしっかり働かないのだわい」
「1カ月余りほどなのでございます。信玄さまはちょっと、ひどい風邪を引いてしまったので、死の淵に片足をつっこんでいたのでございます。だから、うまく身体に力が入らないのだと想うのでございます」
「高坂、それは本当なのかださい?1カ月!1カ月余りも、わしは寝ていたのかだわい?それは、全身に力が入らないのも当然なのだわい。鎧が重くて重くてかなわぬのだわい。だれか、わしの大好物の野菜マシマシほうとう大盛りを持ってくるのだわい。腹が減っては戦ができぬのだわい!」
「殿。そう言われるかと想って、にんにく野菜マシマシほうとう特盛を用意しているのでごじゃる。ささ、たくさん食べて力をつけてほしいのでごじゃる」
「さすが内藤なのだわい。わしが大盛りと言えば、特盛を持ってくるとはできる男なのだわい。お前を重臣に取り立てたわしの眼には狂いがなかったのだわい。もちろん、椎茸はどけてあるのかだわい?」
「椎茸はもちろん、いれてあるのでごじゃる。好き嫌いはいけないのでごじゃる。ささ。味がたっぷり染み込んだ椎茸からまず食べるのでごじゃる」
信玄は浮き出た眼球でぎょろりと内藤を睨みつけるが、それにかまわず、内藤は次々と、信玄の口に、にんにく野菜マシマシほうとう特盛を放り込んでいく。信玄は文句のひとつでも言いたげな顔だが、もぐもぐとそれを喰って行くのである。
山県の眼には信じられないものが映っていた。あの、3日前から口にするもの全てを吐きだしていて、汁すら飲めぬ状態になっていた殿が、今、内藤から椀を取り上げ、箸を使い、バクバクとほうとうを喰っているのである。
「ふう。腹が膨れたのだわい。身体に力が湧き出てくる想いなのだわい。さあ、メシも喰ったことだし、いよいよ、岐阜城へと攻めたてるのだわい。ごふげほっがほっ!」
信玄は咳と共に今、食べたにんにく野菜マシマシほうとう特盛を豪快に吐き出すのである。そして、出す物出しきっても咳は止まらず、同時に大量に血を口から吐き出すのである。信玄は、あああああああああと叫び出す。
「そうか、そうだったのかだわい。わしは病気だったのだわい。今更、想い出したのだわい。ふふっふふっあーははあははははははっ!」
信玄は眼から大量に涙を流しだす。そして、浮き出た眼球で天を睨む。
「わしの野望はついに潰えるときがきたと言うことなのかだわい!ああ、全てが憎いのだわい。やっと、北条氏康が死に、後顧の憂いが無くなったと言うのに、天下を目の前にしながら逝ってしまうというのかだわい!」
「殿、落ち着いてほしいのでござる。本国に戻って養生すれば、すぐにでも体調は回復するのでございます。今年の刈り入れが終わったあとにでも、再起を果たせば良いのでござる!」
信玄はそう叫ぶ馬場の顔を見る。すでに眼は焦点定まらぬことになっていたが、馬場が涙を大量に流していることだけはわかる。その馬場の泣き顔を見て、自分の命はいくばくももたぬことを信玄は理解するのである。
「馬場、内藤、山県、そして高坂。わしの側にくるのだわい。わしの最後の言葉を伝えるのだわい」
信玄の力なき言葉に従い、4名は、横たわる信玄の元へと集まる。
「馬場よ。わしの死を3年、隠せなのだわい。決して、他国の大名たちに知られてはいけないのだわい。もし知られれば、武田家は四方から攻められるのだわい」
馬場は、ははあっ!と返事をする。
「内藤よ。わしの身体は諏訪湖に沈めてくれなのだわい。情勢が落ち着くまで葬儀を行うことはしてはいけないのだわい。喪に服することも禁じるのだわい」
内藤は、わかったのでごじゃる!と返事をする。
「高坂。わしの娘をやるのだわい。お前は武田家の外戚となり、勝頼を支えてやるのだわい。あいつは向こう見ずの馬鹿なのだわい。お前が勝頼の手綱をしっかり握るのだわい」
「しかと聞いたのでございます。信玄さまの娘たちの中で一番きれいどころを選ばせてもらうのでございます。たくさん、子供を産ませるのでございます!」
高坂の言いに信玄が少し、はははっと笑う。
「さて、山県。お前には重要な使命を任せるのだわい。武田家で1番の男だからこそ、任せるのだわい。しっかりと聞くのだわい」
山県は信玄の右手を自分の両手で握っていた。かつてはこの手で軍配を握り、あまたの戦で采配を振り続けていた。だが、今となっては、その右手からは肉がごっそり削げ落ち、ごつごつとした骨の感触しかなかった。
「必ず、必ず、殿から受けた使命を完遂するので候!殿、なんなりとご命令を!」
信玄は一度、まぶたを閉じ、再び、力強く眼を開ける。ぎりぎりと歯ぎしりをし、どんよりと曇る空を睨みつけて叫ぶ。
「明日、瀬田に旗を立てよ!」
信玄は最後の力を振り絞って叫ぶ。
「山県、京の都の入り口の瀬田に我が武田家の旗を立てよ!そして、天下は武田家が手中に収めたことを宣言するのだわい!」
山県はその言葉を聞いた瞬間、両眼から涙を溢れださせる。
「わかったので候!その命令、しかと承ったで候!明日、瀬田で旗を立てるで候!」
武田軍、全員が涙した。号泣した。馬場が泣いた。内藤が泣いた。高坂が泣いた。山県が泣いた。そして、その泣き声は天を振るわせた。分厚く雲が天を覆っていたが、一筋の切れ目が出来上がる。その切れ目から太陽の光が漏れ出した。
その太陽の光は地面に大の字になっていた信玄に当たる。
「ああっ。暖かいのだわい。やっと春が訪れたのだわい。信玄堤は今年も洪水から民を守ってくれるのかだわい。わしが領民にできたことはこれくらいなのだわい」
信玄は太陽の光を浴びていた。ああ、心がぽかぽかするのだわい。これほど心地よいのはいつ以来だろうなのだわい。もしかすると、母に抱かれていた時以来なのかだわい。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。さらばなのだわい。わしは浄土にて、武田家の栄達をみまもるのだ、わ、い」
1573年4月12日正午過ぎ。武田信玄は黄泉路の旅に出る。彼は甲府の地にて、のちに神として地元民に愛されることになる。信玄公の「公」は神と言う意味だ。
信玄は他国の大名たちにとっては恐怖の大王であった。だが、彼の治める領民たちは彼に感謝をしてもしきれない恩がある。信玄を非難する者など甲府の地には存在しないのであった。戦国時代の大名で現代においても、これほど愛される男などいるのだろうか?
毛利元就は信玄が没する3年ほど前に亡くなった。彼は周辺国の大名たちに謀神と恐れられた。元就自身も信玄と同じく、領民のための施策も行った。だが、元就を信奉する者は少ない。
信玄と元就の違いは何であろう?それは、信玄は領民を愛していた。だが、元就は領民を信じず、家臣すら信じていなかった。
そんな訳がないだろう、元就は「3本の矢」の教えを残しているといわれる方もいるだろう。だが、同時に元就は息子の隆景、元春に秘密の遺言を残している。その内容は「家臣の誰一人、自分を信じているものはいない。だから、お前たちも決して、家臣たちを信じるな」である。
裏切りによる裏切りで中国地方の覇王となった男・元就だけはある言葉だ。だが、彼は果たして幸せな人生であったのだろうか?信玄は重臣たちに惜しまれて、この世を去った。元就の最後はどうであったのだろうか?彼の死は惜しまれたのだろうか?
武田軍本隊は、信玄が亡くなったことにより、本国・甲斐に撤退することになる。春の苗付けを行わなければならかったことはもちろんとして、武田家の大黒柱であった信玄の死は、それだけで武田家の戦意を失墜させるには充分であった。
信玄の死後、1週間後、彼の遺言通り、亡骸は諏訪湖に沈められることになる。
「殿。本当のお別れでござる。最後までご立派な姿でござった。あとは、あなたの嫡男・勝頼さまが武田家を継いでくれるのでござる。拙者は殿の代わりに勝頼さまを立派な大名に育て上げてみせるのでござる!」
諏訪湖に沈んで行く信玄の亡骸を見送りながら、馬場は誓うのであった。
「馬場殿、ぼくちんも勝頼さまを徹底的に叩き上げてみせるのでごじゃる。殿が言っていた3年間を使って、勝頼様を殿よりすごい男にするのでごじゃる!」
内藤も馬場と同じ想いであった。彼ら2人は固い握手を結ぶ。殿の果たせなかった上洛の夢を勝頼さまに成し遂げてもらおうと願っていた。
「僕が信玄さまの娘を娶れば、僕は勝頼さまの外戚になるのでございます。馬場さまと内藤さまは外から武田家を強くしてくださいなのでございます。僕は内側から武田家を鍛えあげるのでございます!」
高坂もまた、2人と同じ想いであった。亡き殿の想いを引き継いでいこうと心に固く誓いを立てたのであった。
「3人とも済まないので候。我輩にはやらねばならぬ使命があるので候。瀬田に武田家の御旗を立ててくるで候。しばし、留守にするで候が、必ず戻ってくるゆえ、しばらく、武田家のことを任せたので候」
山県は、3人にそう言い残し、信玄の最後の願いを叶えるために、ひとり、京の都へと旅立つのであった。