ー巨星の章19- 野望は尽きぬ
駿府城から出発した信玄率いる2万4千の武田軍本隊は12月中頃に三方ヶ原の地で家康率いる1万2千の徳川軍を相手に大勝した。そして、西進を再開し、三河の野田城攻めを行うのであるが、ここで思わぬ苦戦に見舞われ、結局、2月半ばまで野田城ひとつ落とすのに時間を費やされてしまった。
そして、ここで運命の歯車は大きく回る。武田家の首領たる男、信玄は胃がんの急な進行により倒れる。その後、武田家の重臣たちは話し合いを続け、信玄最後の策である岩村城で武田軍本隊を集結させ、そこで信長危うしと宣伝しようとしたのである。
だが、3月に入ってからは、ますます、信玄の容態は悪化していく。布団の中に入っていても、寝返りをうつだけで、全身に激痛が起きるほどであり、信玄を運ぶことすら満足に行うことができないほどになっていくのである。
野田城から進軍を再開したものの、遅々として行軍速度は上がらない。まるで芋虫が進むかの如くなのである。
さらに時間は無情にも過ぎ去っていく。気付けば4月の最初になっていた。1カ月以上、まるまる使って北上した結果がちょうど、岩村城と野田城との中間部分である。この地にて、武田軍本隊は進退窮まることとなる。
「ううう。寒いでござる。もう、4月に入ったと言うのに、春の暖かさをまったく感じないのでござる。おい、内藤殿、もっとほうとうを寄越せでござる!」
「馬場殿、ほうとうも残り少なくなっているのでごじゃる。あまり大量に食べられては困るのでごじゃる。はーい、殿、ほうとうでごじゃるよ?たくさんあるから余らさずに食べるでごじゃるよ?」
「少なくなっているのか、たくさんあるのかどちらで候。そんながばがばなことをしているから、武田家の兵糧事情は毎回、略奪に頼ることになるので候」
「山県殿、そう言われても仕方ないのでごじゃる。殿が兵糧をけちって、ほうとうばっかり運び込ませているからなのでごじゃる。ほうとうに入れる野菜は現地調達なのだわい!とか言っている殿にこそ文句を言ってほしいのでごじゃる」
内藤はそう言いながらも、甲斐甲斐しく、布団の中で横たわる信玄の口の中に、ほうとうの汁を入れていく。だが、信玄にはすでにほうとうの汁を飲みこむ力も残っていないようであり、口の端からその汁がこぼれ落ちるのである。
内藤はその口からこぼれた汁を手ぬぐいで拭く。日に日に弱まっていく殿の姿を見ていると、内藤の眼に涙が溜まっていく。
「ほら、殿、しっかり食べるのでごじゃる。食べねば、本当に動けなくなってしまうのでごじゃる。うううっ」
内藤の姿を、信玄の姿を見て、馬場と山県はいたたまれない気持ちになるのである。武田軍本隊の雰囲気は信玄の病状が悪化するのと同じくして悪化していくばかりである。士気はすでにガタ落ちし、今、攻め込まれれば、いくら2万4千の兵がいるとしても一瞬の内に瓦解するであろう。
幸運だったことは、岩村城で秋山信友が織田軍相手に奮戦していることであった。武田家の力、ここに有りとばかりに何度も隣り合う鳥峰城を襲撃していた。その甲斐もあって、武田軍本隊に近寄ろうと言う者はいなかった。
「高坂昌信、戻ったのでございます。こちらの背後から徳川軍が襲ってくると言う様子は今のところ見当たらないのでございます。よっぽど、三方ヶ原の地での敗戦が響いているのか、再度、軍を起こすこともままならいのかもしれないのでございます」
「高坂、ご苦労なのでござる。本当は、お前が殿の側に居たいであろうでござるが、拙者、内藤殿、山県殿はこの本隊が瓦解しないことに努めるだけで精一杯でござる」
「良いのでございます。でも、さすがは信玄さまの近衛部隊なのでございます。誰ひとり文句も言わずに、周辺警護に汗を流してくれているのでございます」
信玄直属の近衛部隊。いついかなる時でも信玄を守るためだけの存在である。彼らは武田家の中でも選りすぐられた軍隊であり、数としては1000ほどであったが、武田家の唯一の常備軍と言って過言ではない存在であった。
この士気が落ちまくった武田軍本隊に置いて、今、まともに動ける隊は、この近衛部隊だけであった。それほどまでに武田軍は疲弊していたのである。
「ところで、4月に入ってしまいましたのでございますが、皆さん、どうするつもりでございます?そろそろ本国に帰還せねば、今年の苗付けに弊害が出てしまうのでございます」
高坂がそう、馬場、内藤、山県に言う。だが、3人は一様に暗い顔つきで
「どうするもこうするも、殿がこの状態では移動することすら困難なのでござる。殿の体力が回復するまで、ここで留まり続けるしかないのでござる」
「ああ、せめて、殿がほうとうを食べてくれれば良いのでごじゃるが、ここ3日、口に何か入れても全て吐きだしてしまうのでごじゃる。汁だけでもと想っても、喉を通すほどの力すら残っていないのでごじゃる」
「無念、無念で候。殿の最後の策すら実行するのは叶わぬとなってしまったで候。ああ、何故に天は殿を祝福してくれないので候。それほどまでに子の親殺しの罪は重かったとでも言いたいのかで候!」
3人は嘆き悲しむのである。だが、高坂だけは諦めていなかった。自分の愛する信玄さまの命がここで尽きるはずはないと心からそう信じていた。高坂がズンズンと歩き、信玄が横たわる布団の側に立つ。
「信玄さま!立ってくださいなのでございます。ここで信玄さまが亡くなってしまえば、信長包囲網は瓦解してしまうのでございます。立って、軍配をその手に握り、僕たちに指示をしてくださいなのでございます。信長を織田家を滅しろと命令をしてくださいなのでございます!」
高坂が吠える。高坂が泣く。わんわん泣く。叫びながら泣く。
「まったく、うるさいのだわい。これではおちおち寝ているわけにはいかなくなったのだわい。誰か、鎧を持ってくるのだわい。わしはまだ死ぬわけにはいかないのだわい」
「と、殿!無理をしてはいけないのでござる!寝ていてほしいのでござる!」
ゆっくりと上半身を起こす信玄に対して、驚いた顔つきで馬場がそう叫ぶ。信玄は身体を少し動かすだけで身体に激痛が走り、顔を苦痛で歪ませる。だが、それでも信玄は起き上がるのである。
「と、殿のご出陣でごじゃる!誰か、殿の鎧を持ってくるのでごじゃる。戦場にて鎧を身に着けぬなど、将として恥なのでごじゃる。はよう、殿に鎧を身につけさせるのでごじゃる!」
「内藤殿、何を言い出しているのでござるか!ご乱心めされたでござるか!殿に鎧を着けさせて、今更、どうすると言うのでござるか。そんなこともわからぬほど、お前は狂ってしまったのでござるか!」
内藤を馬場が叱責する。だが、内藤はただすがるような眼で信玄を見ている。馬場は、ぐっと唸る。無理やりにでも殿を布団の中に押し込めたいと想っている。だが、もう、殿は死の間際に居ることを馬場もわかっていたのだ。だからこそ、藁にもすがるような眼で殿を見つめる内藤を、泣き叫ぶ高坂を、無理を通して立ち上がる殿を止めることなど出来ないでいた。
「殿、鎧を持ってきたので候。ささ、手伝うゆえ、着替えようなので候。やはり、ひのもとの最強騎馬軍団を率いるお方で候。布団の中で寝ていては身体が腐ってしまうで候!」
山県はそう言いながらも、両眼からあふれるように涙を流していた。
「がははっ。お前たち、そろいもそろって何を泣いているのだわい。わしの天下取りへの第一歩がそれほどまでに嬉しいのかだわい。おい、勝頼はどうしたのだわい。松はどうしたのだわい。わしの出立を祝ってはくれぬのかだわい?」
「と、殿。一体、何を言っているのでござる?勝頼さまは甲斐の国で謙信からの侵攻がないようにと眼を見張らせているので」
とそこまで言って、馬場は、はっ!となる。もしや、殿は今、どこにいるのかもわからぬ状態になっているのではかと?
「甘利、板垣はどこにいったのだわい。それに勘助の姿も見えないのだわい。まったく、やつらといったらすぐに仕事をさぼりおるのだわい。おい、馬場。弟の信繁を呼んでくるのだわい。信濃にやってきた謙信に痛い眼を見せてやるのだわい!」
「と、殿。お気を確かにしてほしいのでござる。どのお方もすでに黄泉路へと旅立っているのでござる」
「ああ?何を言っているのだわい、馬場。おお、甘利、板垣、勘助、信繁、そこにいたのかだわい。やはりお前らがいなければ、武田家は天下を盗れぬのだわい。さて、全員、そろったことだし、駿河へ攻め込み、今川家を滅ぼしてやるのだわい!」
「殿、今川家はすでに滅びているのでごじゃる。今は、岩村城を経由して、織田は岐阜城へと攻め込もうとしているのでごじゃる」
内藤は泣いていた。すでに意識がもうろうとして、何を言っているのかわからない信玄を見てだ。
「内藤。それは本当なのかだわい?では、今すぐにでも岐阜城を落とすのだわい。山県、高坂、馬をもってくるのだわい。わし自ら、岐阜城へと一番乗りをしてやるのだわい!」
「ははあっ!誰か、殿の御馬をもってくるので候。殿のご出陣でござる!全員、出立準備を急げなので候!」
「山県殿、何を言い出しているのでござる!今、殿を馬に乗せるのは危険なのでござる。お前は、殿を殺す気なのでござるか!」
「そんなことは百も承知で候!でも、殿が、殿が、行くと言っているので候。それなら、最後まで付き従うのが忠臣なので候!」




