ー巨星の章18- 信玄、最後の策
「軍を北に向けるのだわい。このまま、動かずにいては、信長に怪しまれるのだわい。馬場、内藤。配下の者たちに指令を出すのだわい」
信玄が寝床に伏せたまま、そう、皆に告げるのである。
「と、殿!意識が戻られたのでござるか。しかし、殿の症状から考えるに、今は少しでも体力を回復させるほうを優先し、野田城に籠っていたほうがいいと思うのでござるが?」
「ならぬ、ならぬのだわい。北上し、岩村城から岐阜を狙う姿勢を見せるのだわい。そうすれば、織田家がついに危険がピンチだと言うことを世の中に指し示せるのだわい。それがひるがえって義昭さまの蜂起の手助けになるはずだわい」
「殿。ご無理をされてはいけないのでごじゃる。岩村城に急いで、結局、殿の体力が尽きれば、ここの武田軍は崩壊してしまうのでごじゃる。殿あっての武田軍でごじゃる!」
馬場と内藤が信玄の策に苦言を呈する。だが、信玄はその言葉を受け入れず、上半身を起こし
「良いからわしの言うことを聞くのだわい!信玄、最後の策なのだわい。頼むから、わしの命を最後の最後まで使わせてくれなのだわい!」
信玄は喉から絞り出すように声を出す。その姿が痛ましく、馬場と内藤は、ぐっと唸るのである。
「馬場さま、内藤さま。僕からもお願いなのでございます。信玄さまの言う通り、岩村城に急行しようなのでございます」
「い、良いのでござるか、高坂?殿の容態を考えれば、殿の寿命を縮める行為になるでござるぞ?お前の愛する、いや、皆が愛する殿が死んでしまうでござるぞ?」
「馬場さま、良いのでございます。信玄さまは戦馬鹿なのでございます。畳の上で大往生する気がないのでございます。どちらにしろ、ここ野田城に居ようが北の岩村城に向かおうが、信玄さまの余命はいくばくもないのでございます。ねえ、永田殿?」
いきなり高坂に話を振られた永田徳本が、う、うむと首を縦に振る。
「さきほども言いマシタガ、信玄さまが今、生きていること自体が奇跡と言って良いのデス。徳本にも実際のところ、信玄さまがいつまでもつかわからないのデス。医者から言わせれば、その状態でこの寒空の中を移動しろなど口がさけても言えないのデス」
永田が消え入りそうな声でそう高坂に告げる。高坂はその言いを受け入れ、こくりとひとつ頷くのである。
「馬場さま、内藤さま。北へ向かいましょうなのでございます。信玄さまの命を使った最後の策を実行するのでございます!」
「う、うむ。高坂がそこまで言うのであれば、わかったのでござる。山県殿、高坂殿と一緒に殿の護衛についてほしいのでござる。内藤殿、徳川家より背後を襲われぬよう、殿を務めてほしいのでござる」
「馬場殿、その命令、しかと受け取ったで候。殿はおぶってでも、岩村城に運ぶので候。なんたって、元・飯富家なだけにおぶって行くので候!」
山県のジョークに場が凍り付く。皆がしらけた顔で山県の顔を見つめる。いたたまれなくなった山県がこの空気に対して異議を唱える
「な、何か文句があるで候か!信玄さまが倒れて、陣中全体が暗い雰囲気なので候。それを吹き飛ばすのが武田四天王のリーダーの務めなので候!」
「おい、誰かこいつを陣幕からつまみ出せでござる。さすがに信玄さまの命がいくばくももたぬ状況でジョークを言うのは不謹慎すぎるのでござる」
「うーん?山県殿の気持ちもわからないのでごじゃる。でも、どう言い繕ったところで、時と場合と空気を読むべきだったと、ぼくちんは言いたいところなのでごじゃる」
「山県さまー。せっかく、武田家がめづらしくシリアスな雰囲気だと言うのにぶち壊すのはやめてほしいのでございます。山県さまはアレですか?シリアスな雰囲気だとぶち壊したくなる14歳がかかる病気か何かが発症してしまったのでございますか?永田殿、ちょっと、信玄さまよりも山県殿を診察してくれないでございます?」
「こんなの診察するまでもアリマセン。山県さまは南蛮で言うところのエア・クラッシャーと言う病状なのデス。ちなみにこちらも不治の病なのデス。高坂さま、申し訳ありマセン。東の医聖と呼ばれる徳本にも治せないのデス」
「と言うわけなので、誰か、山県さまをここからつまみだしてくださいでございます。あ、それだけじゃ罰にはならないのでございます。裸にひんむいて逆さ吊りにでもしておいてくださいなのでございます」
「ちょ、ちょっと待つで候!こんな寒空でふんどし一丁で逆さづりされたら、我輩、風邪を引いて、肺炎になって死んでしまうので候。今一度、チャンスをくれで候!」
山県の必死な弁明に信玄、馬場、内藤、高坂、そして永田までもがこそこそと話だし、山県の処遇について審議入りすることになる。5分後、審議を終えた5人はもう一度、山県にチャンスを与えることにする。
「あ、ありがたいで候。では、言うので候。んっんー。殿がこの寒空に体力が落ちぬように布団を山のように掛けるので候。山県なだけに山ほど布団を山のように積み上げるので候!」
「おい、馬場、内藤。こいつを諏訪湖に沈めてこいなのだわい。せっかくのチャンスを棒に振る奴など、生きている価値などないのだわい。わしの最後の頼みを聞いてくれなのだわい」
「ちょ、ちょっと待つで候!何をこっそり殿は最後の頼みを言っているので候。しかも、こんな真冬に諏訪湖なんて凍ってて、沈もうにも沈められないで候!」
「そこはわかさぎ釣りをしている猟師にでも頼んで、穴を大きくしてもらえば良いと思うのでごじゃる。殿の最後の頼み、しかと聞いたのでごじゃる。この内藤、任されたのでごじゃる!」
「とりあえず、山県さまを裸にひんむいて、逆さ吊りにするのでございます。岩村城に着くころにはいい塩梅になっているはずなのでございます」
「うむ。そうでござるな。ちょっと、縄無理之助を連れてくるでござる。奴は城門に縄をかけられなかったことで、それを恥に想い、古今東西の縄の締め付け方を身に着けたと豪語しているのでござる。その腕、山県を縛り上げるのに使わせてみるのでござる」
武田本陣内にて、山県の悲鳴が響き渡るのである。皆は山県を裸にひんむき、逆さ吊りにしたあと、信玄の容態を見つつ、野田城からはるか北に位置する岩村城へと進軍を開始するのであった。時は1573年2月も半ばを過ぎようとしていたのである。
「うーん。武田軍が野田城から西へ行かずに北へと向かったのですか。多分、行き先は岩村城ですね。野田城で時間を取られた以上、尾張を経由せずに一気に岐阜城へ進軍するつもりですか。報告、ありがとうございます、一益くん」
「ういっす。信長さまっち、それで俺っちと信盛殿っちはどうしたら良いっすか?尾張から岐阜へ戦力を集中させたほうが良いっすか?」
一益の問いに、信長がふむと息をつく。
「そうですね。尾張へ侵攻されることはこれで無くなったと言って、間違いはないでしょうね。では、一益くんの提案通り、岐阜城へと戦力を集中させましょう。でも、野戦で決着をつけるのはやめてくださいね?家康くんの二の舞は御免こうむりますよ?」
「ういっす。そこは重々、承知しているっす。野戦なんかしたら、ぼろ負けして岐阜城に逃げ帰ってウンコを漏らしてしまうことになるっす。それだけは人間の尊厳を守るためにも、信長さまっちの言うことを聞くっす」
「えっ?ちょっと、その話、本当なのですか?家康くん、三方ヶ原でぼろ負けして浜松城に逃げ帰ってウンコを漏らしてしまったのですか?」
信長の問いかけにあれ?っと言う顔つきになる一益である。
「信盛殿っちから聞いてないんっすか?確か、以前、おれらっちが武田軍に敗れた時に、増援を頼みにいったっすよね?信盛殿っちって。ついでに家康さまっちのことを言ったもんだとばかり思っていたっす」
「あの時、それについては聞いてない気がするんですけどねえ?記憶が確かなら、のぶもりもりが何か言った直後に腹パンしたような覚えがあるんですけど?」
信長の言いに一益がうえええと言う顔つきになる。
「信盛殿っちも災難っす。あれはどうしようもないっすよ?おれっちと信盛殿っちが生きて戦場から離脱できただけでも幸運だったっすもん」
「いやあ。虫の居所が悪かったんですよねえ。のぶもりもりは本当にタイミングが悪いんですよ。先生の機嫌が悪いときは、いつも、彼が近くにいますからねえ?運命を感じてしまうレベルです」
信長が腕を組みながら、うんうんとうなづく。これはツッコミを入れないほうが良いのだろうか逡巡する一益である。
「と、とにかく、家康さまっちのお尻の穴がしばらく機能不全に陥ったくらいっす。だから、皆に信長さまの言付けをしっかり伝えておくっす。武田軍本隊、いや、信玄とは絶対に野戦でやりあわないようにとっす」
「家康くん、以前からいろいろちびっていましたが、ついにウンコを漏らしてしまいましたか。いやあ、これはいじりがいごほんごほん。慰め甲斐ができましたね。武田軍が本国に戻ったら、慰労のためにお金とお米と替えのふんどしを用意しなければなりませんね。これは楽しみですよ!」
「追い討ちをしかけるのはやめておくっす。あっ、でも、意外と人間、守るものがなくなると何の心の呵責もなく、反撃に転ずるっすよね?信長さまっちは、慰労金への感謝の念で赤味噌を贈呈されるんじゃないっすか?」
「ちょっと、やめてくださいよ!味噌汁を飲めなくなるでしょ、そういうこと言われると!」