ー大乱の章 1ー 長島一向一揆
「信興さま、お逃げくだされ!この城はもうもちません」
1570年10月初め。伊勢長島から始まった一向宗たちの一揆は総勢2万に膨れ上がり、イナゴの如く、村や町を蹂躙していくのであった。それだけで飽き足らず、一向宗たちは城にまでも襲い掛かっていた。
信長の弟・信興が詰める小木江城は、長島のすぐ東に位置していた。信興はかつて、滝川一益と共に伊勢の攻略に努めていたが、ここ長島の地を手に入れてからは小木江城を築城し、この地に封じられていた。
信長は兄弟たちが、戦火に巻き込まれぬよう、尾張の地のような、安全地帯の城主に任命していたのだが、長島の一向宗たちによる一揆により、状況は一変したのである。
「この城を抜かれれば、一気に尾張の地まで蹂躙されるでござる。この城を手放すわけにはいかないでござる!」
「しかし、信興さまが一向宗に殺されれば、悲しむのは信長さまでございます。信興さまだけでもお逃げくだされ!」
「ならぬ、ならぬ。断じてならぬ!小木江城は断じて渡さぬ。我が築いた城をみすみす、土民たちに明け渡すことなどできぬ」
信興は頑として、家臣たちの声を耳に入れることはなかった。この城を渡せば、一向宗たちの拠点となり、尾張の地は蹂躙されるであろう。しかも、自らの手で造った城だ。渡すことなどできないと、信興は思う。
「皆の者、手に弓を持て!つべこべ言わずに、戦うのでござる」
信興は家臣たちに号令をかける。家臣たちも意を決し、信興と共に殉じようと思うのであった。
「わかりました、信興さま。死ぬときは私たちも同じです。さあ、一向宗どもに、痛い目を見せてやりましょうぞ!」
小木江城に籠る信興たちは、必死に一向宗たちの襲撃に耐えることになる。一益はその信興たちを救うために長島の西の城から出陣することになる。
「なんなんっすか、あの一向宗の数は!どこから湧いて出てきたっすか」
一益が驚くのも無理がない。5000の兵を引き連れてやってきたはいいが、一向宗はすでに3万にまでも膨れ上がっていたからだ。いくら一揆と言えども、この数は前代未聞である。まるで長島の民すべてが一向宗の信徒ではないのかと思うほどの数なのである。
「これは、小木江城の信興殿を助けるところじゃないっす。こちらも囲まれてしまうっす!」
あちらは一益の6倍の兵を有しているのである。しかも、この時代の農民は武器をもったことすらない非戦闘民ではない。男たちは戦では徴兵されて足軽として働かせられるのだ。一度も戦場に出たことがないと言うようなものはマレなのである。
しかも、昨年まで、一益自身がこの伊勢の者たちと戦ってきたのだ。当然、この地に住む民たちは戦に長けたものたちである。一益は直接の対決を避け、策謀で手にいれてきた土地なのである。
その土地の民が、一向宗が蜂起したのだ。すでに一揆と呼ぶには規模が大きすぎた。軍隊と呼んで差支えがないほどだ。
その一向宗軍隊が軍を二手に分けて、1万5千もの兵を一益に差し向けてきたのである。しかも、その総指揮官は石山本願寺から派遣された、下間頼廉、その人である。
下間頼廉。彼はただの僧侶ではない。本願寺が何故、石山御坊に本拠地を構えたか?それは、比叡山派の法華宗がそもそも、山科を拠点にしていた、本願寺を襲い、焼き討ちし、本願寺派のほぼすべての寺院を灰塵にさせたからだ。
本願寺は山科から京の都から追い出され、大坂の地に流れ着いた。そこで、2度と同じ轍を踏まないと意を固め、石山に城を構えたのである。そして、軍事力を高めるためにも、僧侶たちに軍人としての教育を施してきた。
そうして育てられてきた男が、下間頼廉である。彼は一流の将として育てられた男であり、そんじょそこらの凡将とは比較にならないほどである。その男が一益相手に出張ってきたのだ。
「さあ、一向宗たちよ。顕如さまの子たちよ。戦うのでございます。その血の一滴、命の全てを顕如さまに捧げるのでございます」
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ!」
一向宗軍隊1万5000は、一益率いる5000に押し寄せる。一益は善戦するが、いくら槍で叩こうが、刀で斬ろうが、弓で射ろうが、一向宗の兵たちはその歩みを止めることは無い。
「なんなんっすか。こいつら、命が惜しくないんっすか。いくら、傷を負おうがかまわず向かってくるっす。これは、信長さまっちでも苦戦するわけがわかるっす!」
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ!」
「一益殿。ここは一旦、退きましょう!このまま、戦っては不利でござる」
一益の部下である山内一豊がそう彼に進言する。
「でも、俺らっちが退けば、小木江城に籠る、信興殿が死んでしまうっす。それだけはできないっす!」
「信興殿の身は心配でござるが、こちらも長島に近づけば、全滅は必死でござる。ここは堪えてくだされでござる!」
一益はぎりぎりと歯がみする。一豊が信長さまの弟を見殺せと言うのである。しかし、5000で、総勢3万の一向宗軍隊を相手にするのは、無理だと言っていい。しかも、命尽きるまで決して退かぬ兵なのだ。もし、同数で戦ったとしても、織田家の兵では互角に戦えるのかすら怪しい。
「一豊っち。わかったす。ここは一度、退くっす。信興さま、すまないっす!」
一益は全軍に撤退指示を出す。北伊勢と南近江の国境の城まで下がることにした。だが、一向宗軍隊は勢いに任せて、一益の籠る城までも囲むことになったのだ。
1万5000もの一向宗軍隊に城を囲まれた、一益であったが、彼には運があった。鉄砲隊を300、信長から与えられていたからである。
籠城の際の鉄砲隊はすこぶる強い。雨による、鉄砲が使用不可になる心配が全く無くなるからである。一益は持てる弾と火薬を使い、城に迫る一向宗軍隊に撃って撃って、撃ちまくる。
「この城は落とさせないっすよ!皆の者、一斉に鉄砲を撃つっす。弾代はあとで、信長さまに請求しておくから、気にせず撃ちまくれっす」
さしものの1万5000を越える一向宗軍隊であっても、立て続けに城から飛んでくる鉄砲の弾の雨嵐の前には為すすべもなく、撃ちぬかれまくった。一益たちを囲む、一向宗軍隊は、城を落とすことは難しいと、一旦、長島に退くことになる。
そうこうしている間に、長島の東の守りである小木江城は、一向宗軍隊の猛攻を5日耐えたが、ついに城内に一向宗の兵たちが殺到したのである。
「皆の者、よく耐えてくれたのでござる。我は、一向宗たち土民に討ち取られる気はないのでござる。切腹するのでござる。誰か、介錯をお願いするでござる」
信興はそう、配下の者たちに宣言する。家臣たちは悔し涙に顔を濡らし、信興の切腹の介錯を行うのであった。
信興死す。その報は尾張の国中を激震させた。信興の死と同時に小木江城が落ちたことにより、尾張への防備が突破されたからである。
尾張の犬山城に詰めていた池田恒興は、尾張に残る、新兵たちをかき集め、総勢5000の兵で津島の町に陣取る。
木曽川を境に長島の一向宗軍隊と相対するのであった。木曽川は川幅が広く、渡るには船がいる。一向宗軍隊は小舟に乗り、次々と対岸に向けて進発する。だが、10月はまだ、ひのもとの国は台風シーズンであり、幸運にも雨により木曽川は増水しており、流れの勢いも強く、一向宗の兵は木曽川を上手く渡ることができないのであった。
「矢じりに火をつけよ!一向宗どもの舟、一隻たりとも、木曽川を渡らせるな」
池田恒興は新兵たちに号令する。新兵たちは、矢じりに油を塗り、火をつけ、次々と一向宗が乗り込む小舟に火をつけて行く。小舟はあっという間に、火の海と化し、一向宗の兵たちは火に包まれ、消火のためにと舟から飛び降りる者たちが続出した。
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ!」
一向宗の兵たちは念仏を唱えながら、木曽川に飛び込んでいく。しかし、神仏に祈ろうが、川の流れをゆるやかにすることは叶わず、次々と流されていくのであった。
下間頼廉はその兵たちを見て、叱咤激励する。
「たかだか、身体が燃えるくらいで、何を入水しているのでございますか。一心に念仏を唱え、木曽川を渡るのでございます」
一向宗の兵たちは、頼廉の命令を聞き、火だるまのまま、対岸に渡河しようとする。しかし、幾隻かが渡河には成功したものの、火で身体を焼かれ、満足には戦うことは出来ず、次々と、槍や矢で殺されていくばかりであった。
だが、それでも、一向宗の兵たちは止まらない。その異様な光景に恐怖するのは、一向宗側でなく、池田恒興が率いる新兵たちであった。
火に包まれようが、一向に構わず、突き進んでくる敵兵を恐怖の眼で見ないものなどこの世に存在するわけがない。数多く、一向宗どもを討ち倒しているのは、池田恒興の方であったが、今や、恐怖は伝播し、ちょっとしたきっかけでもあれば、尾張防衛軍は瓦解寸前にまで追いやられていたのであった。
「まずい。敵が尋常ではない。それに兵たちにも動揺が広がっている。このままでは、尾張を防衛することは叶わなくなってしまう!」
しかし、幸運が舞い降りたのは織田家側であった。三河から増援がやってきたのである。尾張の新兵たちとは違い、三河の兵は古強者の集まりである。一向宗の兵たちの尋常さに恐れおののくことはなかったのであった。
「池田殿。お待たせしたのでござる。徳川家康が家臣、服部半蔵、推参でござる」