ー反逆の章17- 天下の行方
果たして、そんな常識が通じる男であろうか、義兄・信長は。奴の治める領地の寺社で、検地と関所撤廃の政令に逆らった場合、焼き払ってきた経緯がある。しかし、比叡山は護国鎮護の総本山だ。まさか、他の寺社同様、逆らえば焼き払うことはしないとは思うが、万が一の場合もある。
「何を悩んでいるのでごじゃるか。ここで迷えば、浅井家は天下を牛耳る機会を失ってしまうのでごじゃる」
「天下。天下か。はははっ、その通りなのだぞ。俺は天下を欲しているのだぞ。願慈位殿、そなたの申し出、ありがたく受けるのだぞ!」
願慈位はうんうんと、頷く。さっそく、長政は朝倉義景と相談する。義景としては、ここで越前に退くよりは、比叡山に入ることを承諾する。
「世の中の全ての者が、信長に逆らう意思を示しているので候。願慈位の申し出も天のお告げで候。ありがたく、比叡山で陣を構え、信長を苦しめてやるので候」
「では、さっそく、比叡山に向かうのだぞ。義兄・信長よ、戦いは始まったばかりなのだぞ!」
浅井・朝倉3万の兵は大津から一気に北上し、宇佐山城を横目に比叡山に入る。そして、そこの麓である志賀の地で陣を構築するのであった。
この比叡山の浅井・朝倉の肩入れに激怒したのは、信長である。
「護国鎮護の総本山である、比叡山が大名の軍を招き入れるとは何事ですか!前代未聞の事件です。比叡山は、自分の利益のために、護国鎮守と言う役目を捨てたと言って、過言ではありません」
信長は怒りの余り、陣幕の刀立てや、弓立て、さらには、椅子や机を蹴飛ばし、破壊しまくる。それでも気が収まらぬと鞘から太刀を引き抜き、机や椅子の残骸にその刃を何度も突き立てる。
「と、殿。落ち着いてくれよ。怖くて、声がかけづらいよ」
信盛は恐る恐る、信長に進言する。信長は、はあはあと息を荒げながら、さらに陣幕の布を刀でめった斬りにしていく。それほどまでに信長の怒りは頂点に達していたのだった。
「比叡山を火の海にしたいのはやまやまですが、何も言わずに比叡山を攻めたてれば、先生たちの立場がますます危うくなります。あちらがその気ならばいいでしょう。一旦、手を引きます」
「でも、このままにしておくわけにはいかないだろう?どうする気なんだ?殿は」
「最終的には焼きます」
結局、焼くことには変わらないのかよと、つっこみを入れたくなるが信盛は黙っておく。ここで、いらぬことを言えば、殿に首級を斬られるのは火を見るより明らかだからだ。
「貞勝くんに伝言を。比叡山に対して、検地で奪い取った土地すべてを返上する旨を書状にしたためさせてください」
「え?どう言うことだよ?殿が理念を変えるってのは、よほどのことすぎるぜ」
「のぶもりもり、良いですか?先生はこれから、比叡山に対して、最大限の譲歩をします。そして、どの大名家に対しても比叡山が中立を保つよう促します。しかし、同時に、この最大限の譲歩を蹴ると言うのであれば、比叡山を焼くと国中に宣伝します」
信盛はごくりと唾を飲みこむ。
「本当に焼くのか?護国鎮守の総本山である、比叡山を。時の帝ですら、手を出せなかった、比叡山を」
「焼きます。この信長に例外は存在しません」
きっぱりと信長は言い放つ。その眼には地獄の業火が宿っていた。
「しかし、ひとつ言っておきますが」
と、信長が前置きをする。
「焼くのは、比叡山の僧兵であり、その武力です。比叡山に信仰を捨てろと言っているわけではありません。そこのところを間違わないでください」
「ああ、わかったぜ。殿がもしも、信仰もろとも灰塵に帰せと言うのならば、俺は命を賭けてでも、殿を諫めないといけないなって思ってた。怒りで物に当たっている割には、頭のどこかはいつもの殿で良かったぜ」
殿の怒り度合は、殿のマゲのイキリ度でわかる。今、殿のマゲはびっきびきになり、細かくばいぶれーしょんを起こしており、金ヶ崎の戦いで、長政が裏切ったときよりも、激しく鳴動している。
だが、本当にキレたときは、マゲを結っている紐がブチ切れ、全ての髪の毛が天を衝くくらいになる。その姿を見たのは、殿に仕えてから1度切りである。まだ、殿には冷静さが保たれていると、信盛にはわかっていた。
しかし、信盛が心の中で少し、安堵していたところに、伝令の者が、本陣の陣幕に駆けこんできたのであった。
「大変です!伊勢長島で一向一揆が起こっております。滝川一益さまが救援に向かわれましたが、約2万の一向宗どもが大暴れしているそうです」
なんて報せを持って来やがる。そう恨み事を言いたくなる信盛である。しかも、また別の伝令が本陣の陣幕に駆け込んでくる。
「北近江の一向宗どもが、岐阜と南近江の国境にて、一揆を起こしました!これでは、我らは岐阜に戻ることも叶いません」
立て続けの報告である。織田家の各地で一斉に、一向宗が蜂起を起こしたのだ。これでは、さすがの殿でも、マゲが進化してしまう。慌てて、信盛は信長の方に振り向き、彼のマゲに注視することになる。
ぼおおおおおん!
なんと、信長のマゲがけたたましい音とともに、天上へと飛び立ったのである。これにはさすがに信盛も腰をぬかす。
「あっ、先生のマゲが飛んで行ってしまいました。これはいけませんね」
信長から分離したマゲがポトリと地面に落ちてくる。その滞空時間は約10秒と、信長の生涯の中ではベストタイムとなった。地面に転がるマゲを信長が拾い、頭頂部のやや後方につけ直す。
「と、殿。それ、着脱可能だったの?」
「ん?のぶもりもり、どうしたんですか?ああ、これですか。万が一の時に、マゲを切り離して逃げるために使えるかと思い、仕込んで置いたのですよ。ですが、怒りのあまりに暴発してしまったようですね。これは改良の余地ありです」
殿はトカゲか何かかよと思わず、つっこみを入れたくなるが、信盛は止めておく。
「たしかに、敵は驚くと思うが、味方も驚くから、そんな仕込はやめたほうがいいと思うぞ?」
信盛がそう言う。信長はふむと息をつき
「そうですね。もっと効果的になるように、マゲが飛び立つときは、煙幕がぼわわわと出るようにしましょうか。それならば、その煙に紛れて、逃げおおせる確率が上がりますしね」
「いや、止めてくれ。混戦状態にそんなことされたら、こっちが殿を見失って、危ないだろうが」
「うーん。ダメですか。しょうがありませんね。煙がダメなら、刺激臭がする何かを仕込みましょうか。眼と鼻から水が止まらないれべるのを」
「そんなことしたら、一番被害を受けるのは殿じゃねえか。だから、そういう仕込をやめろって言ってるだろうが」
信長は信盛に言われて、はっと言う顔付きになる。
「それもそうじゃないですか。先生が被害を受けるものばかりじゃないですか。のぶもりもり、きみのマゲに仕込んでくださいよ!」
「嫌だよ!なんで、俺が被害を受けなきゃダメなんだよ。親衛隊の河尻殿に仕込んどけよ」
信長はまたしても、はっと言う顔付きになる。
「のぶもりもり、きみ、天才ですね。さっそく河尻くんのマゲに仕込みましょう。誰か河尻くんを呼んできてください」
信長がそう言い、小姓になにか言付けをする。本当に殿は河尻殿のマゲに何かを仕込む気かよと信盛は飽きれるばかりである。
「殿。何か御用か?黒母衣衆筆頭を呼んだからには、重大な件であるな?」
河尻が小姓に呼ばれて、本陣に参上する。信長が河尻にこれまでの経緯をかくかくしかじかと説明している。河尻はふむふむと頷き
「なかなか面白い策であるな。また時間があるときにでも、自分のマゲに仕込をお願いするでござる」
「ちょっと待て、河尻殿。何を納得してんだよ!自分、そんなきゃらだったっけ?」
信盛の言いに、河尻がうん?と言った顔つきである。
「信盛殿こそ、何を言っているのだ。黒母衣衆は殿をお守りすることこそが最優先であるぞ。その殿を守るための策とあれば、奇策と言えども採用するに決まっておろうが」
信盛は、開いた口が塞がらない。河尻殿は真面目な奴だと思っていたが、こんなとこまで真面目に対応するものかと。
「な、なあ。河尻殿?そんなに真っ当に殿の言うことを聞いてたら、心労で倒れちまうぞ?」
「信盛殿こそ、何を言っておるか。殿は、いつでも正しきことを言っておる。長年、殿にお仕えしてきておいて、それがわからん貴殿こそ、どうかしているのでござる」
あっれーーーー?なんで、俺のほうが文句言われてるんだろう?と思う、信盛である。
「うん、まあ、これ以上、この件について何か言っていても、話が進まないから、本題に戻ろうぜ?殿、各地で起きてる、一向宗の一揆にどう対処するつもりだ?このまま手をこまねいていたら、やばいだろ。まずは、長島一向一揆の件をどうにかしようぜ」
「ダメです」
「へ?何を言ってるんだ、殿。長島は尾張の隣だぞ。あそこの地を荒らされたら、俺たちの故郷が次に荒らされちまう!」
「ダメなものはダメです」
「おい、殿!尾張の地を見捨てるって言うのかよ」
「今は尾張の地よりも、京の都を敵の手に渡してはいけません。例え、尾張の地を蹂躙されようが、この京の都を手放すことはできません」
「京の都のことよりも、故郷を守ることのほうが最優先だろ!京の都はあとで取り返せばなんとかなる。だが、尾張を失えば、俺たちには帰る場所がなくなっちまう」
信盛は信長に食い下がる。だが、信長は頑なに
「先生が京の都を手放すと言うことは、天下を手放すと同義です。それはすなわち、ひのもとの国に住む、民すべてが不幸になると言っていいでしょう。のぶもりもり、最優先は尾張ではありません。織田家が真に滅びる時は、ここ京の都を手放したときです」
信長には、わかっていた。この決断がさらに多くの領民の血が流れることを。だが、信長にはやらねばならない使命が自分にあると、心の奥底から信じていたのであった。