ー反逆の章16- 浅井・朝倉の進撃
宇佐山城の戦いが始まって9日が過ぎた。ついに宇佐山城に信長本隊からの増援である、秀吉・光秀の先発隊6000が到着する。しかし、彼らに待っていたのは、森可成、織田・信治が討ち取られたという訃報であった。
秀吉は可成の訃報に涙を流すことになる。
「森さま。逝ってしまうとは何事なの、ですか。あなたから受けた恩は、まだ返しきっていないの、です」
「ふひっ。秀吉殿。涙を拭いてくださいでございます。泣いている暇などないのでございます」
光秀は、涙を流し、泣いている秀吉に対して、手ぬぐいを渡す。
「森さまには、織田家に仕官したときから、随分と可愛がってもらい、ました。初めて隊を任されたときには、我が事のように喜んでください、ました」
「惜しい方を亡くしたのでございますな。ですが、秀吉殿。可成殿のためにも、宇佐山城を守り切らなくてはならないのでございます」
落ち込む秀吉を叱咤激励する光秀である。恩人の死に対して、涙を流すのは人間として当然の権利だ。だが、ここは未だ戦場である。落ち込んでいられる時間など、皆無なのだ。
「ひでよしさま。悲しいのは俺も同じだ。だが、ひでよしさまは、森さまに代わって、この宇佐山城を守らなきゃならないんだろ?それなら、いつも通り、俺たちをこき使ってくれよ!」
秀吉の配下である、飯村彦助が秀吉に声をかける。
「ひでよしさま。悲しいのは僕も同じなんだぶひい。森さまには随分、面倒を見てもらったぶひいからね。彦助の言う通り、僕たちに早く指示を出してくれなんだぶひい」
「オウ。弥助はとっても悲しいのデス。森さまと一緒に遊女とイチャイチャしていた日々が忘れられないのデス。偉くなったら、3人同時に遊女とイチャイチャしようと言う約束を果たすことができなくなってしまったのデス」
田中と弥助も可成が亡くなってしまったことに悲しんでいた。
「ひでよしくん。はよ、わいらに指示を出してくれやで。憎き、浅井・朝倉を殲滅しろと、命令してくれやで!」
四さんが怒りに身体をわなわなと震えさせている。秀吉の配下の誰もが、可成に対して、大なり小なり、思うところがあるのであった。
「彦助殿、田中殿、弥助殿、そして四殿。情けない姿を見せてしまって、すいま、せん。全軍に通達、です!勝家さまが到着後、浅井・朝倉を討つために城から討って出ます。各々、準備を怠らないようにお願い、します」
「んっんー。私が何か言う出番がなくなってしまいました。やはり、落ち込んでいるときは、厳しい言葉よりも、昔ながらの友達の声のほうが心に届きやすいものですね」
竹中半兵衛が秀吉の下へとやってきて、そう告げる。
「あ、半兵衛殿。ご心配かけて、すいま、せん。で、浅井・朝倉の方はどうで、しょうか?」
「んっんー。あちらはざっと見た感じ、総勢3万と言ったところでしょかね?勝家さまが到着されても、こちらは1万5千です。厳しい戦いになることは、変わらないでしょう」
「そう、ですか。ですが、森さまのためにも一矢報いてやりたい気持ちで一杯なの、です。何か策はありま、せんか?」
秀吉の眼には炎が宿っていた。復讐に燃える危険な色である。それほどまでに森さまの死は、主君である秀吉さまに影響が大きかったことが、竹中に覗える。
「しょうがありません。あまり使いたくない手ではあるのですが」
そう、竹中が前置きする。
「今、下坂本の町は、浅井・朝倉の兵たちにより、蹂躙されています。町の方々は、ここ宇佐山城に避難を開始していますが、いくらか被害が出ています」
「民を救いに行きま、しょう!このまま、放っておくわけにはいきま、せん」
「秀吉さま。住民を助けるのは良いのですが、同時に下坂本の町に火をつけてくれませんか?そうすれば、町深くに入り込んだ、浅井・朝倉の兵は火に焼かれ、大混乱に陥ることでしょう」
竹中の進言に、秀吉は驚愕の色を顔に映す。
「町に火をつけるの、ですか?それでは、逃げ惑う民たちも一緒に焼くことになるの、です!そんな策、認めるわけにはいきま、せん」
「しかし、そうしなければ、民の逃げ場所である宇佐山城が浅井・朝倉3万の兵に囲まれることになりますよ?少数の犠牲で大多数の命が助かります。秀吉さま、どうされますか?」
竹中の言いに秀吉は歯がみする。守るべき民と共に、敵を焼けと言う策だ。とてもじゃないが受け入れることはできない。
「民を救うのに、他の民を犠牲にすることはできま、せん!半兵衛殿。私は皆を救いたいの、です」
「皆を救いたいと言う気持ちは、わかります。ですが、それにより、より多くの民が犠牲になる可能性が高いのです」
しかしと、秀吉が食い下がる。その秀吉と竹中の話に割って入るように、光秀が言う。
「ふひっ、秀吉殿。あなたができないと言うのであれば、僕がやるのでございます。民に恨まれるのは仕方ありませんが、僕はより多くの命を救えるほうに賭けるのでございます」
それにと、光秀が付け加える。
「秀吉殿は、森さまの死により、正常な判断をくだせない状態なのでございます。より多くの民を救うために、浅井・朝倉を押し返すことこそが肝要なのでございます」
「しかし、しかし、私は反対なの、です。半兵衛殿、他の策を示してくだ、さい!」
竹中は、優しさが抜けぬ秀吉さまを誇らしくも思いながら、それではいけないとも思う。そう。秀吉さまが迷えば迷うほど、犠牲者は増えるのである。
「わかりました。秀吉さま。他の策を考えますので少々おまちください」
そう竹中は秀吉に告げるのであった。だが、秀吉たちが迷っている間に浅井・朝倉の軍は動く。宇佐山城に援軍が入ったと聞き、宇佐山城攻略を止めて、一気に南下し、大津から伏見へと京の都への経路を変更するのであった。
秀吉は逡巡するあまりに、浅井・朝倉の南進を許してしまうことになる。
「はははっ。義兄・信長が大事に育てた大津と伏見を焼くのだぞ!そして、奪え、奪い尽くしてしまうのだぞ」
浅井長政は兵たちに略奪の許可を出し、大津の町を蹂躙する。勝家はその報を聞き、宇佐山城行きを変更し、急ぎ、大津へと転進することになる。
浅井・朝倉は大津の略奪を行ったあと、さらに南西へ軍を進めようとしたが、勝家の軍と接敵することになる。
「宇佐山の城下を荒らすだけでは飽き足らず、大津にまで魔の手を伸ばすとは、言語道断でもうす。勝家の怒りを知るが良いでもうす!」
大津の町を焼かれ、勝家は怒りのあまりに全身の筋肉が膨張していく。配下の騎馬隊1000と共に浅井・朝倉の軍に突っ込んでいくのであった。
「なんたる騎馬隊の強さで候。敵の旗印から見るに、あれは織田家の勝家で候。こちらの数が多いと言えども、油断できない相手で候」
朝倉義景は、金ヶ崎の戦いの折に、撤退する織田軍の一部をびわこ西岸の田中城で戦ったわけだが、そのときに籠城で指揮を執っていた勝家を遂に潰すことはできなかった。その痛い思いが蘇る。
「長政殿、どうするので候。ここ大津で、奴と出会った以上、こちらも損害は大きくなってしまうので候」
「少し、坂本、大津で略奪に熱を上げ過ぎてしまったのだぞ。せっかく、京の都への道が開けたと言うのに、惜しいことなのだぞ」
敵国に攻め込んだ際に、兵士たちに略奪許可を出すのは、戦国時代では常識である。織田・徳川家以外では、恩給など兵士たちに出していないのだ。士気を高める意味を含めて、略奪許可は絶対に不可欠と言って良い。
だが、その略奪行為により、浅井・朝倉の進軍速度は遅かったのである。そのため、簡単に勝家に京の都への道を閉ざされてしまった。
浅井・朝倉は3万ちかくの軍を擁していて、略奪により、兵たちの士気も高かった。だが、勝家の勢いに対抗するのが精いっぱいである。
「くっ。どうしたものなのだぞ。大津まできたと言うのに、このまま、また、小谷城まで帰ってしまえば、京の都への影響力をみすみす手放してしまうのだぞ!」
長政は歯がみする。途上にある田中城は小城であり、浅井・朝倉約3万を収容するには手狭であるし京の都から少し遠い。どこかに陣を構えれる場所があるかと言われれば、宇佐山城が適任の地であった。だが、そこの攻略を放棄し、大津に来てしまったのだ。
「三好三人衆がもう少し、粘ってくれていれば、結果は違ったと言うのに、口惜しいのだぞ!」
長政は三好三人衆のふがいなさに怨嗟の声を上げる。
「長政さま、大変です。伏見より信長本隊がこちらに向かっていると言う情報が入りました。このまま、大津にとどまれば、宇佐山からと、伏見からの敵に囲まれてしまいます!」
物見からの報告である。長政はこれまでかと思い、兵を小谷城まで下げる決断を兵たちにくだそうとしていた。まさにその時である。
「長政殿。お困りの様子でごじゃるな」
「む。願慈位殿。浅井の本陣に何用なのだぞ。俺は今、すこぶる機嫌が悪いのだぞ。比叡山の高僧と言えども、愚弄するようなことを言えば、その首級、叩き落としてやるのだぞ」
願慈位は長政に睨まれながらも、どこ吹く風の如く、ほっほっほと笑う。
「長政殿の困っていることはわかっているのでごじゃる。退くにしても、小谷城まで下がらなければならないとお思いなのでごじゃろう?」
「そのとおりなのだぞ。そんなわかりきったことを言いに来たのかだぞ」
願慈位は剃り上げた頭をぽんぽんと2度、右手の手のひらで叩き、告げる。
「長政殿に良い撤退場所があるのでごじゃる。比叡山で陣を敷いてくれればいいのでごじゃる」
願慈位の言いに、長政が眼を丸くする。
「な、何を言っているのだぞ。俺らを比叡山に入れると言う進言はありがたいのだが、そんなことをすれば、義兄・信長に比叡山が敵になると言うことを明確化することになるのだぞ!」
「ほっほっほ。仏敵・信長に尻尾を振るのはもう嫌なのでごじゃる。それに、いくら信長と言えども、護国鎮護の総本山、比叡山に攻め込むようなことはできないのでごじゃる。時の帝ですら攻めることはできなかった比叡山を信長のような身分のものが手を出せるわけがないのでごじゃる」
しかし、願慈位の言を聞いても、ううむと唸る長政であった。