ー反逆の章 7- 姉川の合戦 その7
時刻はすでに夕暮れになっていた。大地に沈みかけていた太陽が赤々と大地を照らし、全てが紅く染め上がっていく。その中でも姉川の水はさらに朱くなっている。
忠勝は直隆の振るう太郎太刀をまともに受けて、左腕と肋骨の何本かを骨折していた。はあはあと荒い呼吸をそのままに、地面に転がる太郎太刀を右手で掴み、高々とそれを赤くそまる空に向かって突き出す。
「朝倉の将、真柄直隆を、徳川が本多忠勝が討ち取ったなのだ!」
忠勝は朝倉の兵たちに向けて、徳川の兵に向けて宣言する。徳川の兵たちは、うおおおおお!と鬨の声を上げる。満身創痍の背中を徳川の兵たちの喝采がひしひしと当たる。
忠勝はただただ、気分が良い。骨折で痛み、熱を帯びる左腕もその徳川の兵たちの歓喜の声にうずうずとうずきだす。
忠勝の周りを囲む、直隆の率いていた兵たちは、我先にと槍や弓を放り投げ、散っていくのであった。だが、その中で2人、残っている者たちがいる。
「ああ、兄さん。直隆兄さん。負けてしまったのでござるか」
「立派であったぞ、直隆よ。父としても誉れ高いのでござる」
残った2人の顔を見ると、真柄直隆と似ている顔である。忠勝はその2人が直隆の親族であることをうかがい知ることなる。
「兄さん。僕も兄さんの後を追います。武士として立派な最後を兄さんと共に飾って見せます」
直隆の弟らしき男は、太刀を鞘から抜き、忠勝に対して中段構えで相対する。
「待て。拙者も手を貸そう。直隆を討ち取ったほどの男、お前ごときでは手も足も出まい」
そして、直隆の父親らしき男もまた、槍を手に持ち、上段構えで直隆の弟の左側に立つ。
忠勝は折れた蜻蛉切を右手に持ち、穂先をその2人に向ける。満身創痍の忠勝には、さすがに大の男2人に勝つ術は残されていなかった。鎧ははじけ飛んだ。左腕は折れている。これ以上、無理をすれば、折れたあばらの骨が肺に突き刺さるかも知れない。
だが、忠勝に退く道は残されてはいない。ただ勝つ。それが自分の道であると、そう思うのであった。
「む!何奴。我らの戦いを邪魔するでござるか。名を名乗れでござる」
「自分の名は榊原康政だぎゃ。真柄直隆の親族と見るが、その仇の忠勝はもう戦えぬ身だぎゃ。代わりに俺が戦うのだぎゃ」
榊原康政がいつの間にか、馬にのり、忠勝の後ろにやってきたのであった。忠勝は、ふっと息をつき
「康政殿。彼らは、おいらに向かってきているなのだ。彼らの想いを無下にしてはいけないなのだ」
「何を言っているのだぎゃ。左腕は折れ、自慢の蜻蛉切まで真っ二つだぎゃ。それで2人を相手に立ちまわろうと言うほうが頭がおかしいのだぎゃ。お前はどこの源平時代の武士だぎゃ」
康政はやれやれと言った顔つきである。そう言われ、むっとする忠勝である。
「康政の言う通りでござるぞ、忠勝。大体、一騎打ちをすること自体が、何をしているのだと叱責したい気持ちでやまやまでござる。時代錯誤もほどほどにするでござる」
もう1人の騎馬武者が忠勝の左側にやってくる。忠勝はその声を聞き、これは困ったものだと言う顔付きになる。
「忠次殿までやってきて、何用なのだ。小言を言いにきたのなのだ?」
忠次は、ははっ短く笑い
「お前と真柄の戦いを見ていたら、年甲斐もなく、血が騒いだでござる。たまには拙者の瓶抜きにも血を吸わせてやりたくなってなでござる」
酒井忠次がそう言う。彼が持つ槍は瓶抜きと言う愛称であり、賊が城に忍び込んで、瓶の後ろに隠れていたのを、その瓶ごと、賊を突き貫いたことから呼ばれるようになったのだ。
「貴殿らも怪我人を襲うよりは、気が晴れるであろうでござる。忠勝に代わり、酒井忠次がお相手いたすでござる」
「ちょっと待つだぎゃ。最後にやってきて、おいしいとこだけ持っていこうとするのは、忠次殿の悪い癖なのだぎゃ。自分にも手柄を取らせるのだぎゃ!」
口喧嘩を始める目の前の2将の前にどうしたものかと、真柄親子が戸惑うことになる。
「では、ひとりずつで分け合おうでござる。さあ、待たせたな、拙者は酒井忠次。瓶抜きの錆にしてくれようぞ!」
「むむ。仕方ないだぎゃ。自分は榊原康政だぎゃ。その首級、かっ斬ってくれようなのだぎゃ!」
忠次と康政は馬の腹に蹴りを入れる。そして、馬を駆けさせ、真柄親子に詰め寄っていく。忠次は直隆の父の方へ、康政は直隆の弟のほうへ向かって行く。
直隆の父は槍を上段構えから馬に乗る忠次へまっすぐ振り下ろす。忠次は瓶抜きをその振り下ろされる槍の柄に向かって突き刺す。驚くのは直隆の父であった。
「なんと!こんなか細い槍を貫くというのか」
忠次は瓶抜きを右へ振りぬく。その勢いで直隆の父が持つ槍は持っていかれ、彼は大きく左へ体勢を崩される。だが、手にした槍をもっていかれてたまるものかと踏ん張ると、すぽっと瓶抜きが槍から抜ける。それによって、力の逃げ場が変な方向に流され、さらに直隆の父は体勢を崩してしまった。
「くっ、ぬかったわ!」
それが彼の最後の言葉であった。忠次の右手に持つ、瓶抜きが真っ直ぐに彼の眉間に吸い込まれたのだ。その父親の最後を見た、直隆の弟が叫ぶ
「父上、父上ーーーーー!きさま、よくも父上をーーーー」
「どこを見ているのだぎゃ。一騎打ちの最中によそ見をしてはいけないのだぎゃ!」
よそ見をしていた直隆の弟は、康政が操る馬に真正面からぶち当たる。彼の鎧は衝撃でへし曲がり、彼は身体のあちこちの骨を粉砕されてしまう。直隆の弟は地面につっぷし、口から血をぐはっと吐き出す。
康政は馬から飛び降り、ゆっくりと直隆の弟に近づいていく。そして、地面に寝ころぶ彼の横に立ち、手に持つ太刀を両手に握り直し、上段構えで問う。
「何か最後に言い残すことはないのかだぎゃ?」
「あ、あ、朝倉家に栄光あれ!義景さま、必ず、織田と徳川を滅ぼしてくだされ」
その最後の言葉を聞き、康政は彼の首筋に手に持った太刀を振り下ろす。直隆の弟の首級はごろりと、転がり、胴体と切り分けられたのであった。
殿軍の真柄隊が崩壊したことにより、朝倉義景の軍は予定の地点よりさらに5キロメートル離れた山まで押し返されることになる。小谷城より北西、約10キロメートルと言ったところだ。これでは、もう、小谷城への援軍もままならぬ状態となる。
朝倉が大きくさがったことに安心した信長は、小谷城の包囲を完成させる。浅井は7000で小谷城に籠城し、必死の抵抗を続けることになる。さすがは天下に名高き山城だ。姉川周辺の戦いから1週間経った今でも、織田1万5千の兵では落とせそうにはなかった。
業を煮やした信長は、次の手に出る。
「小谷城周辺の村々にも火をつけなさい!北近江の民に、浅井長政は救いの手を差し伸べないことをその身に焼き付けるのです」
信盛、勝家は、ははあっ!と返事をし、配下の兵たちに、松明を持たせ、次々と村々に火を付けてまわる。火をつけられ逃げ惑う農民たちは必死に家財を持ち出そうと悪戦苦闘していた。
「おい、お前ら、そんなことをしていたら、火にまかれちまうぞ。家財なんかほっといて、逃げな!」
「ガハハッ!本来なら、斬って捨ててやりたい気持ちであるが、今回だけは許してやるでもうす。さあ、さっさと逃げろでもうす!」
本当なら、金ケ崎で無様な敗北を喫した原因である、長政の民たちを斬り捨てたい気持ちで一杯の信盛と勝家であったが、そんなことをしている余裕もなく、長政を城から出陣させるために火をつけてまわることを最優先としたのであった。
また、農民たちを斬らないのにも他に理由があった。火をつけられて、村から追い出された農民たちの向かう先はどこか?そう、それは長政が籠る小谷城である。焼け出された農民たちは小谷城に殺到する。その数、5000以上に達し、黒い人だかりは小谷城の門前に集まるのであった。
「お殿さまああああ!いれてくんろおおおお。オラたちを助けてくんろおおおお」
農民たちは小谷城門前で必死に声を上げる。長政はどうしたものかと逡巡する。民を助けなければいけないと言う心と、しかし、この民を城に受け入れれば、城の兵糧を喰い尽くされてしまう。そうなれば、城内は人が人を喰いあう地獄となる。
「くっ、どうすればいいのだぞ!民を見捨てることはできぬ。しかし、民を受け入れれば、俺は戦わずして自壊するのだぞ」
「殿。ここで民を見捨てることは下策でござる。例え、飢え死にするかもしれませぬが、民をこれ以上、犠牲にしてはいけないのでござる!」
海北綱親が長政に進言する。その進言により、長政は腹が決まる。北近江の民たちを城にて囲むことに決めた。民たちは喜び、次々と小谷城の中に入っていく。それにより、民を合わせて、1万5千を超える者たちが小谷城に集まることになったのであった。
民たちは長政の行いに歓喜したが、長政は対照的に心が沈む想いである。城には1万の兵を3か月は喰わせる量の兵糧が、このままでは1カ月ほどで全て、喰い尽くしてしまうことになる。いよいよ持って、長政は追い詰められることになる。
「長政くん。きみが北近江の民を救おうと言う心は正しい。ですが、それがきみを大いに苦しめることになるとは皮肉ですね」
信長がひとり、ぽつりと言う。
「さあ、この戦いの総仕上げです!皆さん、1兵たりとも、小谷の城から逃げ出さないように包囲をしてください」
朝倉の援軍も望めず、民を見捨てることもできない。長政はついに進退、極まるのであった。