ー大誤算の章14- 信長の怒り
「ふははっ。信長さまは怖いでござるな。本当に北近江の民、すべてを切り伏せるが如くでござる」
松永久秀が信長に対して、軽口を叩く。だが、信長はじろりと久秀を見
「久秀くん。なんだか余裕しゃくしゃくと言った感じですね?今の先生に冗談の類を言うと、その首級と胴体が永遠におさらばすることになりますよ?」
久秀はどきりとする。信長に睨みつけられ、背中や額に冷や汗がにじみ出るのを感じる。その額の冷や汗を右手でぬぐいながら
「い、いや、何でもござらぬ。わしゃは、一足先に奈良のほうに戻らせて頂くのでござる。浅井に呼応し、三好が何かしでかすかも知れぬでござるからな」
久秀の言いに、信長がこくりとひとつ頷き
「久秀くんは事態の深刻さを少しはわかっているようですね。長政くんの反逆を契機に、三好が動き出すことは間違いないでしょう。久秀くん、畿内の南のほうをよくよく注意して、治めてください。動乱が起きそうなら、早めに芽を潰してください」
「ふははっ。わかったのでござる。この久秀にお任せくだされでござる」
久秀は冷や汗が噴き出るのを抑えきれぬまま、信長に頭を下げる。逆らうものは、身内の家臣と言えども、斬り捨てるばかりだと言うような信長の顔付きである。まともに、信長と目を合わせることすら、困難を感じてしまうのである。
「さて、利家くん、佐々くん。そして、家康くん。京周辺の警護をお願いします。北近江からの賊が、京を狙ってくるかもしれません。賊のひとりたりとも、京に入れないよう、留意してください」
「わ、わかったッス。京の皆の安全は俺に任せてほしいッス。吉報を待っていてほしいッス」
利家は怒りの表情を浮かべる信長に、戦々恐々(せんせんきょうきょう)となる。もし、京を守る任務に失敗すれば、必ず罰を受けること間違いなしだと思えてくる。
「ん…。信長さま、全力を持って、事に当たらせていただきます。もし、失敗したら、全ての責は家康さまに負わせてください」
「ちょっとまってくれでござる。何故、失敗したら、俺の全責任でござるか!皆はひとりのため、ひとりは皆のためでござる」
「家康くーん?京の都を守りきる自信がないのですか?先生は非常に心苦しい気分です」
やばい。信長殿が思いっきり俺を凝視しているでござる。この威圧感は勝家殿に匹敵するでござる。おしっこちびってしまいそうでござる。
「ひとり、賊を京の都に入れるたびに、先生、直々につっぱりを喰らわせるつもりなので、利家くん、佐々くん、家康くん。決して手を抜かないように任務に努めてください」
「あの2年前の相撲大会で、光秀殿がぶっとばされた、天手力男神に匹敵すると言われる、信長殿のつっぱりを喰らうと言うのでござるか!あんなの、3発も喰らえば、顔の原型がわからなくなってしまうでござるよ」
信長は、ふんっと言い、部屋の壁に向かって、つっぱりをかます。壁が悲鳴を上げて亀裂が走り、次の瞬間には壁が破片と化し、弾け飛び、隣の部屋との通り道が出来てしまった。
「2年前の先生と比べないでください。原型がわからなくなるどころではありません。3発も喰らわせれば兜くらいなら、粉砕することくらいできます」
家康はぞぞおっと寒気が背中に走る思いである。あ、今、ちょろっと少し漏れたでござる。あとでふんどしを代えないといけないでござる。
「の、信長さま?賊をひとりたりとも、京の都に入れる気はないから、つっぱりは止めてほしいッス。あと、壁の弁償代は信長さまが出してくださいッス」
「ああ、やってしまいましたね。つい、怒りが籠ってしまったため、きれいに壁を粉砕できませんでした。先生もまだまだ修行が足りませんね。いつもなら、音も立てずに崩れ落ちるのですが」
「うっほん。殿、壁の修繕の請求書をあとで送らせてもらうのじゃ。しかし、怒りを物にぶつけるのは感心できない態度なのじゃ。怒りに眼が曇っては、事を仕損じるのじゃ」
貞勝が信長をたしなめている。さすがは織田家の重鎮。言うことはしっかり言うものだと、家康は感心する。
信長は、水が入ったやかんを両手で持ち上げ、頭からその中身をぶちまける。しゅーしゅーと頭から湯気が立ち上っているのが目に見えてわかる。てか、水蒸気で部屋が曇ってしまったのである。
「ちょ、ちょっと、どれほど怒っているでござるか。目の前が真っ白でござる。しかも、部屋中、むわっとしているでござる。居心地が悪いでござる」
秀吉が急いで、襖を開けて、部屋に充満した水蒸気を逃がす。光秀が扇子を両手にひとつずつ持って、ぱたぱたと仰ぎ、部屋の空気を浄化させる。
「ふひっ。すごい蒸気でございます。信長さまの怒りのほどがわかるのでございます」
「けほっけほっ。信長さま、怒る気持ちはわかり、ますが、落ち着いて、ください。このままでは、部屋が崩壊してしまい、ます」
秀吉と光秀が心配そうに信長を見ている。家康は会合で部屋が破壊されつくされるって一体、なんだろうと思う。椅子は破壊され、壁には穴が空き、すごい湿気が部屋を襲っている。会合の場の惨状に恐怖を感じてしまう。
「殿。俺はどうすればいい?怪我がまだ治ってない身だが、やれることはやるぜ?」
信盛は、いまだ取れぬ包帯の身でありながら、信長に言う。
「のぶもりもり、今は怪我を完治させてください。それと、秀吉くんと光秀くんもです。兵の編成が終われば浅井を滅ぼしにいきますので、万全の体勢を作っておいてください」
くっと信盛は唸る。満足に動けぬ身に歯がみするのである。越前でやられた以上、きっちりとやり返さねばと闘志を燃やすのであった。
「さて、大体、先生からは言いたいことは言いました。きみたちから先生に言いたいことはありますか?」
信長はじろりと諸将たちの顔を見る。信長の怒りが伝播したのか、皆、一様に険しい顔付きになってきている。信長はその顔を見て、ふむと息をつく。
「殿。浅井との1戦では、我輩を先鋒に任せてくれでもうす。必ずや、長政の首級を取って見せるでもうす」
勝家が信長に対して宣言する。その形相は鬼のようである。
「俺もだ、殿!怪我はしっかり治しておくから、俺も先鋒を任せてくれよ。あいつら全員、ぎったんぎったんにしてやるぜ」
信盛もたまらず声を上げる。殿に歯向かいしこと、その身で償わせてやるぜとばかりにいきり立っている。
「信長さまっち、俺っちを忘れてもらったら困るっすよ。この一益が一番槍をもらうっす」
滝川一益が声を上げる。彼にしては珍しく、怒りの表情を顔に浮かべている。
信長は3将たちの顔を見、満足そうな顔になる。
「わかりました。勝家くん、のぶもりもり、一益くん。きみたちの力、存分に発揮してもらいます。その時が来るまで、その怒り、胸に秘め、事にあたりなさい」
「信長さま。俺も長政に仕返ししたいッス。俺にも活躍の場が欲しいッス!」
「ん…。自分も長政には痛い目を見せてやりたい。信長さまが受けた痛みを10倍返ししたい」
利家、佐々が声を上げる。信長はうんうんと頷き
「もちろん、きみたち2人を遊ばせる気はありませんよ?浅井との1戦で連れていきますので、準備を万端にしておいてくださいね?」
「長政の抵抗、激しいものだと予想される。殿の御身は俺が身を挺して守ってみせよう」
河尻が鼻息を荒くしながら、信長に進言する。
「河尻くん。頼みましたよ。先生、怒りに身を任せて暴走してしまうかもしれませんので、しっかり抑えてください」
承知!と河尻が信長に応える。
「信長さま。私にも任務を与えて、ください!撤退戦では、皆さんを守るだけでしたが、私にも槍働きを期待して、ください」
「ふひっ。僕の刀が血に飢えているのでございます。僕に1万の兵を預けてくれれば、小谷の城を落としてみせるのでございます!」
秀吉、光秀が威を昂らせて、信長に言う。
「秀吉くん、光秀くん。きみたちには浅井の支城を潰す任務を与えたいと思っています。彼らの一兵たりとも逃すことは許しません」
「支城攻略ですか。本当なら、小谷攻めに加わりたいの、です。ですが、支城攻略も大事な任務に変わりま、せんね。力いっぱい、務めさせてもらい、ます!」
「ふひっ。浅井の支城すべて、業火に包んでみせるのでございます。この世に産まれたことを後悔させてやるのでございます」
信長はうんうんとうなずく。諸将たちの士気が高まっていくのを身に感じる。信長は心地よい気分になって行くのを感じる。
「では、1か月後、浅井との決着をつけます!各々、怒りに身を焦がしなさい。その怒りの炎で長政の全てを焼き尽くしなさい」
諸将たちは、ははあ!と言い、頭を下げる。そして、諸将たちはそれぞれの任務をこなすため、会合の部屋から飛び出していくのであった。
しかし、1人、会合に残った男がいる。その男は家康であった。
「信長殿。俺には何も命じてくれないのでござるか?俺にも何かできることはないのでござるか?」
「家康くん。長政くんが裏切ってしまいました。彼はいい義弟と思っていましたが、そうではありませんでした」
「信長殿?何を言っているのでござる?俺が聞きたいことはそういうことではないでござるよ?」
家康は信長の顔が般若のような顔から、いつもの顔に戻っている。いや、悲しみの色さえ浮かべている。
「天下というのは、一緒に並び立つことができないものなのでしょうか?先生は、家康くん同様に、長政くんも共に手を携えて、ひのもとの国を平和に導けると思い描いていました」
「信長殿。長政は裏切ったのです。裏切り者には制裁を与えねば、示しがつかないのでござる」
「家康くんは強いですね。先生は未だに長政くんが裏切ったことを信じ切れていない部分があります。もし、長政くんが頭を下げ、許しを乞うてくるなら、何事もなく、また共に手を携えて、天下に挑みたく思ってしまうのです」
「信長殿!しっかりしてくだされ。その考えはいけないのでござる。天下を治めるものは非情にならなければいけない時があるのでござる。それを教えてくれたのは信長殿ご自身ではありませぬかでござる」