ー大誤算の章13- 正義と正義
勝家の死の抱擁を喰らい、失神してしまった信長は3日後、ようやく布団の中から出れる程度までには回復をしていた。
「殿。まだ、動いてはいけないのじゃ。もう少し、養生をするのじゃ」
村井貞勝が起き上がろうとする信長を静止させようとする。しかし、信長は貞勝の手をどかし
「いいえ、これ以上、休んでいる時間はありません。一刻も早く、反逆者・長政を討たなければ大変な事態を招きます」
信長が越前から京に戻ってきてから、早1週間が経とうとしていた。織田領と浅井領の国境では、未だに浅井領の民が収奪を繰り返している。細川藤孝が奮戦しているようだが、旗色が悪いとの報告が来ていた。
信長は床に臥せながら歯がみしながら、逐一、伝令からの報告を耳にしてきていた。信長は布団の中から出て、会合を開くと貞勝に言い、屋敷に諸将たちを集めることにする。その集められた面子の中には家康の姿もあった。
「信長殿。お加減は良いのでござるか?このような事態になったとは言え、信長殿の身に何かあれば、織田家は大変なことになってしまうでござる。ゆっくり養生するのも悪いことではないでござる」
「いいえ、それはできません。事態は今や、織田家か浅井家、どちらが天下の主かを世の中に指し示さなければならない事態なのです」
「そんな、大げさなのでござる。たかだか、浅井1国が天下人・信長殿に反逆をしたと言うだけのことではないのでござるか?万全の体勢を整え、浅井家を潰せば、終わる話でござる」
「ことはそんな簡単なことじゃないのですよ。天下人が天下人である所以は、逆らう者を容赦なく迅速に裁くことです。それが出来なければ、先生の築き上げた威信は地に堕ちます」
「しかしでござる。信長殿が傷ついた身であることは、皆、わかっているのでござる。ここで無茶をする必要があるのかと言いたいのでござる」
信長は、ふうううと長く息を吐く。
「かつて、楠木正成が幕府10万の兵をたった1千でやり合いました。彼が1日生き残るたびに、鎌倉の幕府の威信は目に見えるように地に堕ちていったのです。反逆者を潰せぬ天下人など、存在価値は無いと見なし、正義は楠木正成にあると、民は見るのです」
信長の言いにごくりと唾を飲みこむ、家康である。
「要は、長政殿はかつての楠木正成であり、信長殿は正義の男・長政殿を潰そうと言う、悪者と言うことになると言いたいのでござるか?さすがにそれはおかしな話なのでござる」
「民衆の心はうつろいやすいものです。それに、長政くんに義昭が加担していることを宣伝されれば、反逆者は先生たちになるのです。そうならないためにも、先生は長政くんに天誅を喰らわさなければなりません。それも一刻も早くです」
「殿が危惧されていたように、義昭の身は、二条の城から出れないようにしてあるのじゃ。もし、ここで、義昭めを浅井家に保護されれば、織田家は終わりなのじゃ」
「貞勝くん、先生に代わり、役目を果たしてくれて、ありがとうございます。絶対に、義昭を二条の城より出さないよう、これからも注意してください。情報は統制していますが、義昭のことです。今頃、織田家の異変を嗅ぎつけていることでしょう」
信長の直観通り、義昭は越前から、織田家がなんの成果もなく、京に逃げ帰ってきたことは察していた。そして、自分の策が功を成したのであろうと、ほくそ笑むのである。
「義昭の奴は普段通りなのじゃ。何喰わぬ顔で、信長殿は越前から帰ってきたようでおじゃるが、流れ矢でもあたったのでおじゃるか?まろは心配なのでおじゃると言っていたのじゃ。顔面を殴ってやろうかと思ったのだが、踏みとどまっておいたのじゃ」
「それはまた、むかつく話ですね。将軍さまの晩ごはんのお寿司にたっぷりと山葵を仕込んでおいてください。こちらから手を出せないと分かっているのでしょう。ですが、いやがらせの数々はできると示しておきましょうかね」
「では、義昭のご飯は、米ではなく、粟や稗に変えておくのじゃ。誰のおかげで喰えていけるのか、思い知らせてやるのじゃ」
信長と貞勝の言いに、家康が、なんだか子供じみた仕返しでござるなあと思う。
「あのう。俺が言うのも何かと思うのでござるが、もっと何か違った方向で信長ありきを示したほうがいいと思うのでござるが」
「家康くんは、ひょっとして、山葵大盛りの寿司のすごさをわからないのですか?誰か、山葵大盛りの寿司を家康くんに持ってきてください」
「ん…。わかった。寿司のネタからはみ出すくらいの山葵を仕込む。家康さま、ちょっと待っていて」
「ちょっと、やめてくれでござる。なんで、俺が山葵山盛りの寿司を食べることになっているでござるか!話が変な方向に行っているのでござる」
「なにごとも経験ですよ。家康くんの晩ごはんにはお寿司を用意させますので、たっぷり味わってくださいね?さて、話を戻しまして」
俺が山葵たっぷりの寿司をご馳走させられるのは確定事項なのかと家康は思うが、まあ、信長殿のいつもの冗談であろうと、これ以上、つっこみを入れるのをやめた。これがのちに家康を後悔させることになるのだった。
「勝家くん。越前に向かわせた3万の内、2万5000は今すぐ動かせるでしょうか?」
信長が勝家に兵の状況を尋ねる。勝家はううむと唸り
「動かせることは動かせるでもうす。だが、浅井と1戦交えるとなると、兵糧が足りないでもうす。越前で捨ててきたでもうすから、それが影響しているでもうす」
勝家の言いに、信長がふむと息をつく。
「丹羽くん。2万5000人分の兵糧を集めるのにどれくらいかかるのでしょうか?なるべく早く準備してほしいのですが」
「兵糧ですか?うーん、長政さまが裏切った以上、美濃から京へ運んでくるルートは封じられていると言って、間違いないのです。伊勢から運んでくるか、堺で買い付けるかになるので、時間がかかるのです。早くて3週間と行ったところだと思うのです」
信長があごに右手をあて、考え込む。
「では、まずは残った兵糧を5000人にあてがってください。北近江と南近江の国境で暴れる、浅井の民をなんとかしましょう。あの暴徒どもをこれ以上、放っておくことはできません」
「とっ捕まえて、ふんじばっておけばいいのでもうす?一応、敵国と言えども、民は民でもうすからな」
「いいえ、斬り捨ててください。織田家に害を為すと言うことは死に値すると言うことをその身に刻んでやりましょう」
勝家は驚く。なるべく民を傷つけぬよう、配慮してきた殿が民を殺せとの指示を出すことに思わず面喰らってしまう。
「いいのでもうすか?それでは民の怒りを買ってしまうのでもうすぞ?」
「事、ここに至って、のんびりと捕らえて何かする余裕なんて、織田家には無いのですよ。厳命します。南近江で暴れる浅井の民を斬り捨てなさい」
勝家は、ううむと唸り、納得しかねると言った表情を浮かべる。その顔を見た信長が、手に持つ扇子を机に叩きつけ、へし折るのである。
「勝家くん。事態をわかっていないようですね?浅井長政は反逆者です。しかし、彼は一歩間違えれば正義の軍となりうるのです。どちがら正義なのかを示さねばなりません!甘ったれたその考えを捨てなさい」
信長は激昂する。勝家は、ごくりと唾を飲み、冷や汗が背中に噴き出るのを感じる。殿がそれほど怒りに身を焼いているのかと、驚くばかりである。
「勝家くんが民を斬り捨てることができないと言うのなら、違うものに命じます。誰か、勝家くんの代わりに南近江の国境沿いに行ってくれるひとはいますか?」
信長は諸将たちの顔を見渡す。しかし、誰もが、民を斬り捨てることに逡巡とした顔つきである。その顔を見て、ますます、信長は頭の熱が上がる思いになる。
「誰一人、織田家が置かれている状況がわかっていないようですね?わかりました。先生が出向きます。秀吉くん。竹中くんを貸してください。彼なら、迷うことなく、浅井の民を全て斬り捨てる策を考え付くでしょうね」
「は、半兵衛殿をお預けしたいのはやまやまなの、ですが、彼は先日の殿での傷が癒えていま、せん。まだ、床に臥せて、います」
秀吉の言いに、信長が怒りの表情を浮かべ、椅子を蹴っ飛ばす。その椅子は部屋の壁にぶち当たり、粉々に砕け散るのであった。
「信長さま、落ち着いてほしいのです。丹羽ちゃんが浅井の民への拷問をぷろでゅーすするので任せてくださいなのです」
「いいんですか?丹羽くん。あなたには兵糧をかき集める仕事があるのですよ?そちらをおろそかにしてもらってはいけませんよ?」
「はい、大丈夫なのです。兵糧を集めるくらい片手間でもできるのです。それに、他の皆さんは少なからず、先日の撤退戦で疲れ切っているのです。たまには丹羽ちゃんにも槍働きをさせてほしいくらいなのです」
「では、丹羽くんに命じます。浅井の民を斬って斬って斬り捨てなさい。一人残らずです。織田家に逆らいしこと、後悔させなさい!」
「はい、わかりましたのです!煮えた油のお風呂で、人間の天麩羅を作ってくるのです。びわこの魚の餌にしてやるのです」
丹羽の言いに信長は、ふむと息をつく。
「勝家くん、河尻くん。残りの兵の訓練と編成をお願いします。浅井の兵をことごとく斬り捨てる心構えを叩きこみなさい。甘いことを言うような兵がいれば、折檻をして構いません」
「わかりましたでもうす。殿の意思を兵どもに叩きこんでおくでもうす。一カ月、くだされでもうす。見事、仕上げてみせるでもうす」
勝家は心の中で、甘さを捨てろと、自分に言い聞かせる。浅井長政は反逆者だ。殿の天下にツバを吐いた、許されざる男だ。あの男を許してはならない。
勝家は目を閉じ、念を込める。怒りに心を染めていく。そして、再び、目を開くとき、そこには鬼の形相をした勝家がいた。