ー大誤算の章11- 金ケ崎の撤退 その11
「なにゆえに殿が田中城におらぬのでもうすか!殿はすでに討ち取られたのではないか?」
そう叫ぶは勝家である。勝家、一益、丹羽が率いる織田軍本隊は、4月30日の夜にさしかかろうと言うときに、越前・金ケ崎城と京の都の中間地点である、びわこの西岸、田中城に入城したのであった。
逃亡当初、勝家、一益、丹羽の3人は、信長さまが田中城にて、織田軍本隊を待っているとの予測を立てていた。だが、実際は違った。田中城の兵士に尋ねたところ、信長さまはここにはやってきていないと言う、返事のみである。
勝家は最悪の事態が起こったのでないかと焦るばかりである。
殿に付き従った者たちは、信盛、久秀、前田慶次と、腕に覚えがあるものばかりである。わずか10騎と言えども、一騎当千の彼らが農民たちに討ち取られるとは考えにくい。
「むう。まさか、山中に身を隠し、それを知らずに我輩たちは、殿を置いて、先に田中城に来てしまったとでも言うのでもうすか?」
そう考える勝家である。
「んー。丹羽ちゃんが思うに、信長さまは丹羽ちゃんたちとは全く別の経路を使って逃げたと思ったほうが正しいような気がするのです。悪知恵の働く久秀を連れて行った以上、予測もつかないところを通って、京の都へ向かったのではと思うのです」
「うーん。丹羽っちの言う通りかも知れないっすね。いくら精鋭の10騎と言えども、びわこ沿岸を抜くのは難しいっす。沿岸を通らずに、山道を通って逃げたと思ったほうが、妥当かと思うっす」
「そうでもうすな。やはり常道を好まぬ殿でござるから、そのほうが話としてはしっくりくるでもうす。しかし、殿が今どこにいるかわからぬ以上、ここ、田中城を目指している可能性も捨てきれないでもうす」
「1日、待ってみると言うのはどうですか?ここは、浅井領と隣り合わせですけど、ここで守りを固めれば、浅井・朝倉の軍にも対抗できるのです」
「しかし、戦おうにも兵糧はどうする気でもうすか。あらかたの兵糧は金ケ崎城で捨ててきたでもうすよな?」
勝家の言いに丹羽は、はっとした顔つきになる。
「そうだったのです。丹羽ちゃん、うっかりしていましたのです。戦おうにも戦えるだけの兵糧が残っていないのです。これでは、ここに居残っても、浅井・朝倉に蹂躙されるだけなのです」
うつむき加減になる丹羽の肩を一益がポンと右手を乗せる。
「1日だけ、待ってみるっすよ。それで、信長さまがやってこないってことは、違う経路を進んでいるって言う証拠にもなるっす。例え、ここにやってくるのが遅れていたとしても、1日もの時間があれば、追いついてくることは可能なはずっす」
一益の言いに、勝家は、ううむと唸る。
「では、1日だけ待とうなのでもうす。殿に何かあったかにしろ、ここで、織田軍本隊を消耗させることはできないでもうすからな。この3万の兵を無事に京に送り届けることこそが、我輩たちの任務であるからな」
そう3人は結論付けて、今夜は田中城で1泊することにする。まだ、浅井・朝倉の軍は迫って来ていない。それほど、殿の秀吉、光秀の2000の軍が粘っていると言うことであろう。
彼らの奮闘に応えるためにも、今は眠ろう。そう思う、勝家たちであった。
明けて4月31日 午前9時、利家、佐々、河尻の母衣衆に守られながら、家康と三河の兵3000が田中城に到着する。
「やっと追いついたッス。いやあ、本当に、三河の兵は足が遅くて困ったもんだったッス。危うく、浅井・朝倉の軍に尻を掘られるところだったッス」
「ん…。本当、お尻の操の危機だった。家康さまは三河の兵を鍛え直す必要がある」
「面目ないばかりでござる。ここまで足を引っ張るものだとは予想もしていなかったのでござる。しかし、足が遅いからと言って、再三、曲直瀬殿の薬を勧めてくるのは止めてほしかったのでござる」
「足が3倍、早くなって、尻から赤い何かを噴き出すくらい、どうにか我慢してほしいとこッス。尻を掘られるか、尻から噴き出すかの2択くらい、すんなり選んでほしいッス」
「ん…。自分ならどちらも選ばないけど、家康さまなら仕方がない」
「いやでござるよ。俺も、どちらも選ばない権利が欲しいのでござる」
家康のわがままに、利家と佐々は、やれやれと言った表情を作る。悪いのは俺かと尋ねたくなる家康である。
「ところで、信長殿はどちらでござる?多分、田中城に先に入っていると思って、やってきたのでござるが、肝心の信長殿の姿が見えないようでござるが。先に京へ向かってしまわれたのでござるか?」
話題を変えるべく、家康が、先に到着していた勝家に問う。
「それが殿は行方知らずなのでもうす。ここ田中城に入城した形跡がないのでもうす。一体、今、どうしているのかわかっていないのでもうす」
「なんと!信長殿は、まだ田中城に到着していないのでござるか。ううむ、これは困ったことになったのでござる。これでは退こうにも退けなくなってしまったのでござる」
「しかし、ここで待とうにも戦うための兵糧もないときたところでもうす。手詰まりとはまさにこのことでもうす」
勝家が柄にもなく肩を落としているところに利家がけろっとした顔で
「信長さまなら大丈夫じゃないッスか?根拠はないッスが無事に京へ逃げきっている予感がするッス。俺の勘は当たるから間違いないッス。大体、信長さまは尻を掘られたところで死なないような人ッスからね」
「むう。確かに殿なら無事だと思うのでござるが、何もわからぬ、この状況下、どのように動くべきか、迷うところでもうす」
「勝家さまらしくないッスよ。信長さま、信盛さまが居ない今こそ、勝家さまが総大将ッス。その総大将が迷っているようだと、皆が困ってしまうッス」
利家の言いに勝家がううむと唸る。そして、ふぬぬぬと身体に力を込め、瓶に入ったプロティンを飲み干す。そして、意を決し
「我輩の腹は決まったでもうす。ここ田中城で殿を待つことにするでもうす。殿あってこその織田家。ここで殿を失うわけにはいかないでもうす」
「勝家さまがそう言うのなら、丹羽ちゃんも従うのです。兵糧は乏しいですが、ぎりぎりまで耐えれるように、配分を見直すのです」
「勝家さまっち。俺っちも勝家さまに従うっす。このまま、おめおめと京へ逃げ帰るには手柄が足りないっすからね」
「申し出はありがたく思うのでもうす。だが、一益。お前はここにいる兵の2万を京に運んでくれでもうす。全軍、とどまることは逆に危険でもうす」
「ええ?うーん、しょうがないっすね。勝家さまに従うと言っちゃった以上、2万は、先に京へ運んでおくっす。勝家さま、無茶はくれぐれも禁物っすよ?」
「ガハハッ。ここで死ぬ気はないでもうすよ。殿の身柄を確保したら、一目散に逃げさせてもらうでもうす。さあ、行った行ったでもうす」
「ん…。勝家さま。自分たちはどうすればいい?」
「佐々よ。お前たちは当初よりの任務を遂行するでもうす。家康さまを京へ送り届けるでもうす。河尻殿。家康さまをよろしくお願いするでもうす」
「あい。わかった。だが、くれぐれもこんなところで死ぬではないぞ。殿と信盛殿の行方がわからぬ以上、総大将は勝家殿であるからな」
「なあに、心配する必要はないでもうす。しかし、誰かがここに残らなければならないのも事実でもうす。あとからやってくる、秀吉、光秀を出迎えてやらなきゃいけないでもうすからな」
勝家は、ガハハッと笑う。対照的にやれやれと言った顔つきの河尻である。
「勝家殿。俺は未だに、勝家殿から相撲で1勝もとれていないでござる。勝ち逃げは許さないからでござるからな!」
「おう、家康さま。我輩の眼の黒いうちは、負けるつもりはないでもうすよ?しかし、京に無事、辿り着けば、1番、死合いをしようではないか」
「約束でござるよ!絶対に、信長殿を連れて、京に帰ってきてくれでござるよ」
家康は瞳に涙が溜まっていくのを感じる。今生の別れになってしまうのではないかと言う予感が胸によぎるからである。
「ガハハッ。何を泣きだしそうな顔をしているのでもうすか。そんなので、我輩に相撲で勝てるとは思わぬことでもうすよ。さあ、行ってくれでもうす」
家康は服の袖で瞳に溜まった涙をぬぐう。そして、踵を返し、田中城を後にしようととする。
「約束でござるぞ、勝家殿。お互い、生きて京の都にて会おうでござる」
織田軍本隊は田中城から出立し、3時間後、正午を回ろうかと言うときに、秀吉・光秀の殿軍は田中城に到着する。そこで、勝家や丹羽と合流することになる。
秀吉・光秀が率いる兵はそこかしこに傷を作り、歩くのもやっとだとばかりに槍を杖代わりに後退してきたのだ。
勝家は秀吉、光秀に殿が田中城に入場していないこと、ここで、殿の到着を待つことを告げる。
秀吉、光秀は、勝家の言を聞き、自分たちは殿軍だ。共に、田中城に居残ることを決意する。
そして、浅井・朝倉はついに織田軍本隊を急襲することは叶わず、田中城の手前2キロメートルの地点で、進軍を停止する。
そのまま、居残りの織田側5000と浅井・朝倉2万は、田中城にて、にらみ合いを続けることになるのであった。
しかし、織田軍側は兵糧の残りが厳しく、大多数は京に返したものの、田中城の兵糧はあと5日分くらいしか残っていない状態であった。このまま対峙を続ければ、瓦解するのは勝家、丹羽、秀吉、光秀の方であった。
両者、にらみ合いのまま、夕暮れが近づいてくる。そこに織田軍にとって、吉報がもたらせれることになった。