ー大誤算の章 9- 金ケ崎の撤退 その9
「うひゃひゃひゃー!米じゃ、金じゃ、牛を盗むんじゃあ」
「長政さまから分捕り放題の令がでたぞおおお!織田家が貯めこんだ金銀財宝を手中におさめるんじゃあああ」
「ふひひ。あいつらのせいで北近江は不景気だったんじゃあ。散々に奪い尽くしてやるんじゃあああ」
北近江の民たちが、我先にと国境を越え、南近江の織田領に分捕りへと侵攻していく。その者たちはイナゴの群れの如く、織田領を荒らしまくるのであった。
「おい、どういうことだよ。なんで長政さまのとこの民たちが俺たちを襲うんだ!長政さまと信長さまは同盟しているんじゃねえのか」
「ひい!そんなことより、あなた、逃げるわよ。このままじゃ、私たちまでさらわれてしまいますわよ」
浅井長政が織田家との同盟破棄と同時に、自分の民たちに織田領への略奪を許可したのだ。北近江の民たちは歓喜し、国境を侵していく。そして村々で略奪を繰り返し、家々に火をつけ、やりたい放題であった。
信長の主将たちは朝倉攻めで不在であり、残った兵士たちが、浅井領の民たちの暴挙を抑えるために奮戦することになる。だが、指揮官不在の影響は大きく、浅井領の民たちの略奪を止めるには力が足らなかったのである。
「くっそ。何がおきたかはわからないが、これは明らかな盟約違反だ!皆の者。民を守ることを優先して動け」
「隊長!城の周りまで浅井の民たちが押し寄せてくる勢いです。このままでは私たちまで危険になります」
「俺たちのことなど、どうでもいい!今は、一人でも民を守れ。城に民たちを入れるのだ」
残された織田家の兵士たちは必死に民を救済するために動く。暴動が起こる村々に出向き、民のために命を危険にさらす。自らの命を盾に使い、村々の民を逃がすために死力を尽くすのであった。
「うひゃああああ!織田家の兵隊さんのお出ましだべ。あいつらの装備をはぎとって、金に換えるんだべええ」
「貴様らの暴虐、許すことは出来ん!弓隊、構えろ。あいつらを射殺せ」
まさに、浅井領と織田領の国境は地獄と化す。
しかし、信長や、織田軍本隊は、そのような惨状を知ることもなく、北近江から京へ向けて必死に逃げている最中であった。
金ケ崎の撤退が始まって、1日後の4月30日 明朝、朽木砦で1泊した信長たちは、京へ向けて出発する。朽木元網から、新たな馬を借り入れ、それに比叡山近くまで道案内を朽木の部下がしてくれることになる。
「朽木くん。お世話になりました。このご恩には絶対に報いますので楽しみにしていてくださいね?」
「いえ、良いのでございます。信長さまこそ、京へ無事に辿り着いてくださいなのでございます。部下の者が道案内をしますので、比叡山までは無事だと思いますが、ゆめゆめ、油断なさらないようにございます」
「ふははっ。さすが大親友の朽木殿でござるな。いやあ、後で、わしゃの秘本を贈らせていただくのでござる。1冊10貫のところを今回は無料で10冊、贈るのでござる」
「あまりうれしいとは思えないでございますが、無料でもらえるのならもらっておくのでございます。さあ、急いでくだされ。もしも、浅井長政が信長さまの位置を特定すれば、ここも危ないのでございます。さあ、早く、行ってくだされ」
朽木に促され、信長一行は馬にまたがり走り出す。朽木は手を振り見送ってくれたが、振りむいて手を振り返す時間すら惜しいと、信長は前を向き、ひた走っていく。
信長は今回の長政の裏切りに歯がみする。手綱を握る手に知らず知らずに力が込められていく。顔つきは段々、険しくなり、鬼のような形相へと変貌していき、マゲも天を突かんとばかりにぶるぶるといきり立つのであった。
信長の隣を並走する信盛は、ちらりと信長の方を向く。そして、思わず、ぎょっとしてしまう。こんな殿の表情、若かりし時から織田家に仕えてきたが、一度も見たこともない鬼の形相だったからだ。
「と、殿。大丈夫か?あんまり思い詰めるんじゃねえぞ?」
信盛に声をかけられた信長が、ぎょろりとその般若にも似た顔を信盛の方に向ける。信盛は思わず、ひいと声を上げてしまう。
「なんですか?今、話しかけないでください。長政くんをどのように八つ裂きにするか考えているところですから」
「お、おう。すまねえ。ちなみにどうやるつもりなんだ?」
「逆さづりにして、市中引き回しにし、両手両足に縄を結び、牛四頭にその縄の先を結び付け、牛裂きにしようかと思っていたところです。しかし、この程度の罰では、この信長の気が収まりません。古今東西の拷問の数々を試したくなる気分ですよ」
やべえ。こんなにキレている殿なんて、本当に見たことがない。京に戻ったとしても、本当の地獄はその後に起きるのではないのかと内心、冷や冷やになる信盛である。
だが、殿が怒り狂うのも当然だ。織田家の天下取りに水を差したのは、長政さまだからだ。このまま、順調に事が運び、天下は平和になろうとしていのだ。それを崩した張本人が奴なのだ。
「この借りは絶対に返さないとな」
信盛はそう呟くのであった。
「やばいんだぶひい!敵の勢いが強すぎるんだぶひい。ひでよしさま、どうするんだぶひい」
「皆さん、持ちこたえてくだ、さい!あと1時間は、ここから下がることはできま、せん」
「そうは言っても、もう火薬がないぜ?鉄砲も使えないぞ」
「ふひっ、鉄砲の火薬が尽きたと言うのなら、石を投げればいいのでございます。さあ、腕がちぎれんばかりに投石をするのでございます!」
「さすがは、光秀さまなのデス。さあ、弥助の剛腕を思い知るがいいのデス!」
「んっんー。いっそ、槍も投げてしまいましょうか。これほどの長槍ですから、威力がすごいことになります。2,3人まとめて、串刺しにできるでしょうね」
「槍を投げちゃったら、わいたち、残るは素手になってしまうやんか!それはお断りやで」
殿の秀吉、光秀2000の軍は、追ってくる浅井・朝倉2万を相手に善戦していた。弓を射、鉄砲を撃ち、石を投げ、出来る限り、敵の威勢を削いでいたのである。
「なぜ、2000程度の敵を蹴散らせないのだぞ!海赤雨3将よ、何をしておるのだぞ。浅井の名に泥を塗るつもりかぞ」
長政はいらだっていた。目の前の織田方2000を追いかけ、山中や林の間道を抜けてきたが、ところどころに点在する砦で、いちいち相手に粘られる。すぐに打ち破り、織田軍本隊3万を尻から食い破る予定が、大幅に狂ったのだ。
今の時刻は4月30日の昼を回っていた。このまま、目の前の2000に手こずれば、織田軍本隊に追いつかず、織田領へ逃げられることは必定である。
「しかしながら、殿。いたずらに攻めれば、けが人が増えるのは、こちらの方でござる。こちらは勝ち戦でござる。無理をせぬともいいのではないですかでござる」
「綱親!貴様は、義兄・信長のことをわかっていないのだぞ。ここで、逃せば、怒り狂い、全力で浅井に反攻してくるのは目に見えているのだぞ。少々のけが人なぞ、どうと言うのだぞ。必ず、織田軍本隊を叩けるだけ、叩かなければいけないのだぞ」
けが人を大勢出してでも攻めよと言う、長政の命に綱親は、ううむと唸る。
「ですが、殿。ここで兵に無理をさせれば、農作業に影響が出るのでござる。ただでさえ、農繁期に民を駆り出し、戦わせているのでござる。その民が傷つけば、浅井は戦わずして滅びるのでござる」
綱親の進言に、長政が手に持つ軍配をぎりぎりとへし曲げ、ばきっと折る。
「くっ。ならば、どうしろと言うのだぞ。敵が背を向けていると言うのに、手を出すなというのかだぞ」
「朝倉さまを前に出しましょうでござる。そうすれば、浅井のけが人は減るのでござる。朝倉さまも、此度の越前攻めに腹を立てていることでござる」
「ならば、義景殿に伝令を送るのだぞ。浅井は負傷者多く、一旦、下がると。代わりに前に出てほしいと伝えるのだぞ」
長政は伝令を義景に飛ばす。義景は快諾し、浅井軍と入れ替わり、前線に出る。
「長政の奴はふがいないで候。どれ、一向宗を散々に打ち破ってきた越前の兵の強さを知るがよいで候」
朝倉軍は意気揚々に砦に籠る織田の殿2000に向けて進発する。あっさりと砦の柵を打ち破り、その砦内に侵入することに成功したのであった。
「何をこんな砦相手に手こずっていたので候。北近江の兵は少々、軟弱すぎるのではないかで候」
義景は自分の兵の精強さにほくそ笑む。信長の首級を取る栄誉は、この朝倉義景がもらったので候。
と、義景が思った瞬間、目の前の砦で大爆発が起きる。砦に侵入していた兵はもちろん、周りを囲んでいた兵も四肢をばらばらにし、宙に吹き飛ばされたのである。
「な、何が起こったので候!なぜ、敵の砦が爆発したので候。敵は、私を巻き込んで死ぬつもりだったのかで候」
義景は狼狽する。一歩、間違えれば、自分があの爆発に巻き込まれ、絶命していたに違いないからだ。砦の爆発に巻き込まれた自兵が火だるまになり、転げまわっている。
その姿を見て、義景は長政がこうなることを知っていて、自分を前線に出したのではないかとさえ疑うのであった。
「一旦、さがるので候!これ以上、兵を無駄に消耗する必要はないので候。ええい、長政め。兵を惜しんで、私に損害を被らせるとは許せないので候」
義景は歯がみする。そして、抗議のために、長政に伝令を送るのであった。
「たかだか兵が100ほど吹き飛んだくらいで、何を怒り狂っているのだぞ。兵を犠牲にせずに、勝利をもぎ取ることなぞ出来ぬのだぞ。何を甘ったれているのだぞ」
逆に、朝倉からやってきた伝令を叱りつける長政である。100くらいとはどういうことだと、伝令が食い下がるが、砦と一緒に殿も吹き飛んだのだぞ、さっさと織田軍を攻めろと伝える、長政であった。