ー大誤算の章 8- 金ケ崎の撤退 その8
信長一行が夕食を楽しんでいると、襖が開き、歳の頃、20歳を過ぎたばかりの青年が部屋にやってくる。見るからにここの屋敷の主であることは想像に難くはなかった。
「敵地かもわからぬようなところで、風呂に入り、メシを疑いなくも食べる、あなたたちの豪胆振りには脱帽でございますよ。やはり、義昭さまを傀儡化するような御人は、通常の者とは違うのでございますかな?」
屋敷の主である、朽木元網が嫌味を込めて、信長たちにそう言うのである。
「ふははっ。この豪胆振りが信長さまでござる。大親友である朽木殿にわかってもらえると良いのでござるがなあ」
そう久秀が言いながら、たくあんをぼりぼりと音を立てながら食べるのであった。その姿を見ながら、朽木元網はふうと嘆息をするばかりである。
「で、信長さまは、どなたでござる?なにやら朝倉攻めの凱旋で、ここ、朽木砦に来てくれたと言われていたそうでございますが」
「ん?先生のことをお探しですか?信長は今、焼肉に舌鼓を打っています。話があるなら、食べ終わってからにしてもらいます?」
信長はそう言うと、朽木のお側付きの者に、ご飯のおかわりを要求している。お側付きのものは、怪訝な顔付きになりながらも、受け取った茶碗にご飯を山盛りにして、信長に返すのであった。
大層、よく喰う奴だなと朽木は思いながら、うっほんと咳をつく。
「ああ、食べながらでも良いので聞いてくださいでございます。朝倉攻めの凱旋など、嘘だと言うことは、貴殿たちがやってきた格好を部下から聞けば、嘘だとわかるのでございます。して、この砦には、本当は何用で来たのでございますかな?」
「はふはふ。ん?先生は朝倉攻めの凱旋だとかそんなことは一言も言ってませんよ?言ったのは、そこの久秀くんです。彼が朽木くんと大親友だと言うので、1泊させてもらおうと思って、寄っただけですよ?」
大親友?自分がこの中の誰と、いつ大親友になったのだろうかと、朽木は記憶を辿ってみる。
「ふははっ。朽木殿が2歳の時に、大親友になったのでござる。まだ、幼かったゆえ、覚えておらぬでござるかな?松永久秀でござるよ」
朽木は久秀の顔をじっくり見ながら1分ほど考えこみ
「記憶になくて申し訳なく思うのでございます。2歳の折に、貴殿と大親友になっていたとは、失念していて、すまないのでございます」
朽木が深々と頭を久秀に向かって下げる。
「ふははっ。そんなにかしこまらなくても良いでござる。嘘に決まっているでござるよ」
そう言い、笑う久秀を目を丸くし、朽木は見つめるのであった。
「うっほん。嘘をつくのは止めてほしいのでございます。うっかり、騙されるところだったのでございます」
「ふははっ。すまないことをしたのでござる。なんせ、こうでも言わないと、門番たちが通してくれなさそうだったのでござるからなあ」
久秀は笑いながら、禿げ上がった頭を右手で撫でる。その仕草を見ながら、朽木は、またもや、ふうと嘆息するのであった。
朽木は意を直し、改めて、先ほど、自分が信長であると言っている男の方を見る。その男は、またもや茶碗を自分のお側つきのものに突き出し、おかわりを催促しているではないか。豪胆振りもここまでくると、あきれてしまうばかりである。
「松永殿。こう言っては悪いのでございますが、あちらの方は本当に信長殿でございますか?それまで嘘とはさすがに言わないでほしいのでございますが」
「もぎゅもぎゅ、ごっくん、ぷはあ。え?先生のことを言ってます?先生は正真正銘、織田信長ですよ。その点は安心してください」
「何を見て、安心すればいいのかわからないでございますが、聞き及んでいるところ、信長さまは苛烈な性格の持ち主だと。よもや、本物だと自称するものが居れば、信長さまは、そいつを斬ってしまうかもしれないでございますな」
「んー。いまいち、信用されてないみたですね。久秀くん、きみの所為ですよ?嘘八百を並び立てるから、先生まで疑われているじゃないですか」
「い、いや。別に松永殿の嘘がどうとかでございません。何と言うか、噂で聞いている信長さまと、今、目の前にいる信長さまがどうしても結びつかないのでございましてな」
目の前に、焼肉とご飯をめいいっぱい、口の中に突っ込みながら、もごもごとしゃべっている男が、六角家を滅ぼし、三好家を蹴散らし、足利義昭さまを将軍につけ、その将軍を傀儡化したとは、朽木にはどうしても結びつかないのである。
「ん?うちの殿って、こんな言っちゃ悪いが田舎だと、どんな風に伝わってるわけ?なんか、興味が湧くんだけど」
信盛がそう、朽木に尋ねる。朽木は言っていいのかどうか逡巡しながら応える
「ううん、そうでございますね。身の丈2メートルの大男で、まともに目を合わせれば、男は絶命し、女は股を開くと言われているのでございます」
「なんだよ、その化け物。大体、男は絶命するのに、女性は抱いて!ってどう言うことだよ」
信盛はおかしそうにゲラゲラと笑う。うっほんと朽木は咳払いをし、話を続ける
「他には相撲の神と自称し、組する相手のまわしすべてをはがし、そのまわしを自分の身体に999本、まきつけ、1000本まであと1本まできているとかでござるかな」
「んー、確かに殿は、対戦相手のほとんどをすっぽんぽんにしてきているけど、その後のは何よ?武蔵坊弁慶か何かかよ」
「先生にまわしを集める趣味はありませんよ?すっぽんぽんにするのは礼儀だと思ってやっていますが」
「そんな相撲の礼儀、聞いたことねえよ!てか、殿、いい加減にすっぽんぽんにするのやめてくれないか?いちいち衆目にいちもつを晒すのは、嫌なんだよ」
「そんなこと言われても、天手力男神さまが先生に命じるのですから、それを止めることは、先生の意思では無理です」
信長が信盛にきっぱりと言う。信盛はやれやれと言いながら
「こんなんだが、殿は正真正銘、信長であることは間違いないぜ?嘘だったら、久秀に腹でも切らせるから信用してもらえると嬉しいんだけどな」
「ううむ、そこまで言われるのなら、貴殿のこと、信用しようでございます。さて、朽木砦に来た本当の理由を教えてほしいところでございます」
朽木に問われ、信盛は、ううんと唸る。本当のことを言えば、この男は俺たちを捕まえて、浅井に売り渡すのではないかと考えてしまう。
「先生たちは、同盟国の浅井長政に裏切られて、朝倉攻めを断念し、京へ逃げ帰っている最中なのですよ。それで、びわこ西岸を通ろうと思っていたのですが、農村で襲ってくるやからが多いため、進路を変更し、ここにやってきたわけです。あ、おかわりお願いします」
「ちょっと、待て、殿。正直に話してどうするよ!朽木殿が俺らを捕らえたら、どうする気だよ」
「もぐもぐ、ん、ごきゅん。ここで嘘を言えば、事態は丸く収まるとでも言うのですか?それに、先生の見た目では、朽木くんは窮鳥を捕らえるような人物には見えません」
殿の人物評は、おおむね正しい場合が多い。それゆえ、殿がそう言うのであれば安全なのだろうが、それは確かと言うわけでもない。まあ、何か事が起きれば、ここの砦の奴ら全員を斬り殺して、殿を逃がすまでだ。そう思う、信盛である。
「正直に話していただき、ありがたいことだと思うのでございます。そもそも、朽木家は代々、足利家の家臣の家であり、浅井家とは関係ないのでございます」
「じゃあ、俺たちを浅井に売ろうって気はないわけか?念のため言っておくが、もし殿をどうにかしようと言うのなら、俺たちは抵抗させてもらうからな?」
信盛は脅すように朽木に対して言う。
「先ほども言いましたように、朽木家は浅井家に恩などないのでございます。それどころか、浅井家は朽木家に対して、臣下の礼を取れと言ってきていて、目障りだと思っていたのでございます」
ほうと信盛は呟く。
「若いにしてはなかなか剛毅な男じゃねえか、朽木殿は。どうだ?織田家の庇護に入る気はないか?こんな浅井家との領地の境だ。織田家が朽木家を庇護すれば、浅井家だって、そうそう手を出せないだろ。なあ、いいだろ、殿?」
「ん?朽木家を織田家の傘下に入れるって話ですか?そうですね。一宿一飯の恩もありますし、悪いようにはしないですよ?むしろ、褒賞を約束させてもらいますよ」
信盛と信長の言いに、朽木は、ううんと考え込む。話の通り、浅井家が織田家との同盟を破棄し、両家が対立すれば、最前線となるのは、この朽木家である。どちらかを選ばなければならない時が来たのだと悟る。
織田家は将軍・足利家を奉戴している家だ。対して、それに反旗をひるがえすは浅井家である。見た目、反逆者は浅井家ではあるが、浅井家1国が、尾張、岐阜、南近江、京を支配する強大な織田家に対して戦いを起こすものであろうか?
なにか裏の事情があるのではないかと、疑う、朽木である。
だがしかし、朽木は思う。なにかしらあろうが、少々のことで織田家は盤石なのは変わりないようにも思える。ここで恩を売っておけば、朽木家は将来に渡って安定だ、いや、治める領地を増やしてもらえるかも知れない。
朽木は3分ほど考え込む。そして、腕組みした状態で首を縦に2回振り、信長の方を向き直し、うやうやしく頭を下げる。
「信長さま。朽木の腹は決まったのでございます。信長さまを無事に京へ送らせていただきたいと思うのでございます」
「ふははっ。祝着至極でござる。朽木殿は聡明な御仁でござるな。よく正しい判断を下してくれたのでござる」
久秀は大げさに両腕を大きく広げ、ぱんぱんと手を叩く。わざとらしいなあと信盛はその姿を見ながらも、自分もこんなへき地で味方ができたことに喜びを隠せないでいる。
「よおし、話も決まったことだし、これで美味しくご飯を食べれるな!焼肉のおかわりを頼む」
「先生も焼肉のおかわりをください。いやあ、1日中、馬を飛ばしてきたので、お腹がすいてたまりませんよ」
朽木は、やれやれと思いながら、手をぱんぱん叩き、信長たちに焼肉のおかわりを部下に命じるのであった。