ー大誤算の章 4- 金ヶ崎の撤退 その4
「おい、殿!このまま、びわこ沿岸を通ったんじゃ、キリがねえぞ。農民どもが俺らを狙ってやがって、まともに前に進むことができないぜ」
信盛は追ってくる農民たちに馬上から矢を数本、放ちながら信長に向かって叫ぶ。
1570年4月29日、朝から昼にかけての時間である。信長、信盛含める10名のものが、びわこ沿岸を通る農村ごとに農民から襲撃を受けていたのだ。
皆、矢筒に入っていた矢の残りの数も段々、少なくなり、このまま、京へびわこ沿岸を抜くのは難しい情勢となっていたのだ。
「自分も、かなり厳しくなってきたんだぜ!このまま戦ってたんじゃ、馬の前に俺らがつぶれちまうんだぜ」
「のぶもりもり、慶次くん。今はそんなことを言っているときではありません!この村を抜けることを第一と考えてください」
この時代の農民は戦で駆り出され、誰でも一度は武器を持って殺し合いを経験しているのである。農民と兵士に差は無いのである。田んぼの水の取り合いで、隣村同士で殺し合いするくらいの奴らだ。
数人の賊が村に入ってきたところで、簡単に返り討ちにできるくらいには、村々は武装をしているのである。彼らはむしり取られるだけの存在ではなく、1個の武装集団なのだ
いくら、腕の覚えのある前田慶次と言えども、その者たちを長く相手にすれば、疲弊して当然である。
「わしゃに良い考えがあるのでござる。びわこ沿岸を避け、山に入るのでござる。ここより北の山道にはいり、南西に進めば、山奥に朽木峠があるのでござる。そこの道を通るのよいと思うのでござる」
そう、馬上で弓を構える松永久秀が信長に進言する。
「確かに、その経路を通れば、浅井の支配が及ばない豪族たちがたむろしています。ですが、領主の支配を良しとしない彼らが、果たして、私たちをすんなり通らせてくれるものですかね?」
このまま、山中に進路を変えるのは信長としても賛成だ。だが、この辺りの道に明るいわけではない。いちかばちかの賭けになる可能性が高い。しかし、進まねばならない。退路はすでに無く、京へ進むしか道がないのである。
「わしゃの知り合いが朽木峠に居るのでござるよ。なあに、その者をこちらに味方させれば、京への道は開けたも同然でござる」
「久秀くんは、奈良の出ですよね?こんな北近江の山奥に知り合いなんて、本当にいるんですか?」
「ふははっ。今まさに知り合いになったのでござる。いや?知り合いではアレでございますな。友と呼んだ方がしっくりくるのでござるな」
「絶対に、それ、知り合いどころか、赤の他人でしょ?こんな状況だと言うのに、よくもまあ、大言壮語を吐けますね。先生は、久秀くんの豪胆さに驚きですよ」
「しかしだ、殿。このまま、びわこ沿岸を行くより、久秀の知り合い?ってやつに頼み込んだほうが良くないか?可能性がより高いほうを選んだ方が得策だと思うぜ?」
信長は、ふうとひとつ嘆息する。
「しょうがありませんね。この際、久秀くんを信じましょうか。もし何かあれば、久秀くんの知り合いに、久秀くん自身の首級を差し上げれば、なんとかなるかもしれませんしね」
「ふははっ。友に首級を取られる人生も悪くはないでござるな。さて、方針も決まったことですし、北へ向かおうでござる」
信長たち一行は、びわこ沿岸を通ることを諦め、北に進路を変え、北近江の山道を通り、朽木峠を越えることにする。村の追手を振り切り、林の中を突っ切り、ひた走っていくのであった。
信長たち一行を追って、南西に向けて進行していた織田本隊は、そうとも知らずに、びわこ沿岸を通るルートを選択しており、勝家、一益、丹羽は信長たち一行がどこに行ったのかを完全に見失っていた。
「信長さまは多分、びわこ沿岸をつっきり、途上の田中城に入り、そこで丹羽ちゃんたち本隊を待っていると思うのです。そこで信長さまと合流して、京へ向かうとお考えだと思うのです」
「しかし、丹羽よ。我輩が思うに、殿は10騎しか連れていないのでもうす。道中の村々を抜け、果たして、無事に田中城までたどりつけるものでもうすか?」
「んー?そう言われれば、そうなのです。でも、近隣で織田家の領地と言えば、田中城しかないのです。多少の回り道はしているかもしれないですけど、田中城に入るのが自然な流れだと思うのです」
「俺っちも丹羽っちの言う通りだと思うっす。金ケ崎城から京までの道で、ちょうど半分と言ったところに田中城があるっす。普通ならば、そこの城に入ると思うっすよ」
「ううむ。普通の者なら、そう考えるでもうす。だが、殿でござるぞ?殿が普通のことをすると思うか?お前らは」
勝家にそう言われ、ううんと唸る、丹羽と一益である。
「もしかして、びわこ沿岸を通るってのは嘘で、本隊を囮に実は、若狭のほうに向かった可能性があるとみていいんっすかね?」
「信長さまなら、丹羽ちゃんが思いつかないような奇想天外な経路を通っている可能性があるのですね。勝家さまの発想の豊かさに、丹羽ちゃんは嫉妬を覚えるのです」
「まあ、殿がどこを通ったか、わからぬこちらとしては、常道の田中城に向かってみるしかないでもうすな。そこに居なかった場合は、どうするかが問題でもうす」
「わからないことを心配しても、どうにもならないってことは変わりないっす。信長さまっちが田中城に無事に入城していることを願うばかりっす」
簡単な打ち合わせを行った3人は、再び、びわこ沿岸を南西に向かって、軍を進発させる。殿が生きていることを信じて、京へ向かうのであった。
織田軍本隊から遅れること2kmの地点で、利家、佐々、河尻の5000の軍は、三河の兵3000を守りながら進んでいた。織田軍と比較して、三河の兵の進行速度は若干、遅いものであり、織田軍本隊からじりじりと距離が空いていくのであった。
前方に織田軍本隊2万3千が道を切り開いているので、無用な戦闘は避けられているものの、このまま、距離が開き続ければ、三河の兵3000は北近江で孤立する可能性もでてきているのであった。
「うーん。やばいッスね。どうしても、三河の兵を守りながらだと、軍の進行速度が落ちてしまうッス」
「泣き言を言っている場合ではないぞ。殿からの命令である。家康さまたちを京へ無事に送り届けなければならぬ」
「ん…。浅井が金ケ崎城に向かわず、自分たちのほうへ来たら、三河の兵を守りながら戦うことになる。そうなれば、自分たちは死地に追い込まれる」
利家、河尻、佐々が、これからの進路について簡単な打ち合わせを行っていたのである。そこに、家康がやってきて
「すまないのでござる。ああ、こんなことなら、普段から白いご飯をたっぷり、兵たちに食べさせておけばよかったでござる。これほどまでに、織田家の軍との進行速度が変わるとは、思ってもみなかったのでござる」
「去年の夏の南伊勢の攻略のときに、信長さまが、家康さまに米を送ったはずッスけど、あれはどうしたんッスか?結構な量だったことを覚えているッスけど」
北畠家攻略の褒賞として、信長は、家康に金と米を贈っていた。その米をどうしたのかと、利家は家康に問うているのだ。
「あのとき、もらった米は、飢えた遠江の民たちに配ったのでござる。戦火に巻き込まれた民たちは、着るものもなく、今日食べるごはんにも困っていたのでござる。その者たちを放っておいて、自分たちだけが米を喰うことなどできないのでござる」
「ん…。家康さまはお優しい。そう言う善政を行える大名はなかなかにいない」
「ううむ。民を安んじる、家康さまの行いは立派なのでござる。だが、それで三河の兵がごはんを食べれないようでは、本末転倒な気もするが、致し方なしであるな」
「金で米を買えばすむ話だと思うッスけど、ああ、でも、織田家で4万以上の兵士を雇っている以上、米が流れる先は織田家の領地になるんッスか」
「そういうことでござる。織田家が好景気なおかげで、同盟国である三河も金の面では潤っているではござるが、米は、織田家で大量消費してしまうため、なかなか、こちらにまで流れてこないのでござる。結局は三河と遠江で取れる米でやっていかなければならないでござるが、先年、遠江を手中に収めたばかりでござるゆえにな」
「ん…。遠江での本格的な収穫は、今年の秋と言うこと。それまでは遠江は三河で支えなければダメってこと」
「なかなかに大変なのでござる。しかも、その大変な時期に、浅井の離反でござる。遠江の経営は本多正信に任せていると言っても、俺がいないとなるとどうなることやらと、今から心配なのでござる」
「そんな心配よりも、まずは無事に京へ逃げることを第一優先と考えるべきだ。いらぬことに心を預けるよりも、1分1秒でも早く、歩を進めることに重きを置くのでござる」
家康は、河尻から叱責を受ける。そうだ、まずは北近江から京へ逃げることを完遂しなければ、ならなかったのでござる。先のことなど考えている余裕はなかったのでござる。そう思う、家康である。
「さて、小休止を終えて、また、軍を動かすッス。いくら、秀吉と光秀が殿を務めていくれていると言っても、油断は大敵ッス」
「しかし、織田軍本隊はどこへ向かっているのでござるか?浅井領を突っ切るのは、少々、無謀かと思うのでござるが」
「たぶん、浅井領と織田領の境の田中城へ向かっていると思うッス。直線距離的には、あの城が一番、ここから近いッスからね。信長さまも、多分、そこに行くと思うッス」
「ん…。信長さま、無事かな?農民たちに襲われていないかな?」
「一番先に殿が京へ向かわれたが、なあに、心配することはなかろう。あの殿だ。きっと、何かしらの策を用いて、先々の農村を抜けて行っているはずだ」
河尻にも実際には、信長が今どうなっているかなど、わからない。だが、皆が不安になることがないよう、言葉に気を付けて発言しているだけだ。
「それもそうッスね。信長さまなら、汚い手を使ってでも、生き延びていると思うッス。心配はあるけれど、俺は俺の仕事をするまでッス」
「ん…。家康さまを守り切ろう。そして、田中城で信長さまと合流しよう」
利家、佐々、河尻が、打ち合わせを終え、解散する。それぞれの隊を率いるため、各々、配置につく。そして、本隊になるべく遅れないよう、びわこ沿岸を南西に突き進むのであった。