ー大誤算の章 1ー 金ヶ崎の撤退 その1
「浅井長政が約1万の兵を率い、ここ、金ヶ崎城へと向かっています!」
1570年4月28日 午前10時を回ろうかとしたとき、滝川一益が放った、隠密が信長やその諸将が集まる陣幕に飛び込んできて、大声でそう告げる。
信長はガタッと座っていた椅子を跳ね飛ばし、立ち上がる。そして、かぶっていた南蛮制兜を脱ぎ、それを右手で地面に叩きつけ、告げる。
「秀吉くん、光秀くん、きみたち2人には申し訳ないですが、ここで死ぬ覚悟はできていますか?」
「ここで、死ぬつもりはないの、です!」
「ふひっ、僭越ながら、僕も死ぬ気はないのでございます」
秀吉、光秀はそう、信長に応える。信長はふうと一息吐き
「では、全力を持って、生き延びなさい。殿は任せました。織田家の命運は、きみたち2人にかかっていると言って間違いはありません」
「ちょっと待ってくれ、殿。殿なら退き佐久間こと、俺に任せてくれよ!」
信盛が殿の任を買って出る。だが、信長は立ち上がった状態から、すでに陣幕の外に向け、歩き始めていた。
「のぶもりもり。きみは、今や織田軍の支柱のひとつなのです。ここで、きみが死んでもらっては困るのですよ」
「しかしだ!前途有望な秀吉と、光秀を殿の任務につけるほうが間違っているぜ。こいつらは俺なんかより、才は遥かに上だ」
陣幕からまさに出ようとしていた信長が歩を止め、身体の向きを皆のほうに向ける。そして、淡々と信長は言う。
「のぶもりもりがそこまで期待を込める2人にだからこそ、殿を任せるのです。言っている意味はわかりますね?」
信盛は、まだ何か言いたい気持ちがあったのだが、それをぐっと堪える。
「のぶもりもり、久秀くん。ここから一気に逃げます!お供をしなさい」
松永久秀が、ははぁと応える。そして、椅子から立ち上がり、陣幕から飛び出していく。信盛も慌てて、久秀のあとを追うように陣幕から飛び出していくのであった。
「勝家くん、丹羽くん、一益くん。兵を率いて、できるだけ急いで京に戻ってきてください!」
矢継ぎ早に信長は諸将たちに命令を与えていく。
「利家くん、佐々くん、河尻くん。家康くんを護衛しなさい!決して、家康くんを討たせてはなりませんよ」
「信長殿!俺も、殿に加わるのでござる。三河の兵3000を使ってくだされ」
家康がそう、信長に進言するが
「ダメです。三河の兵をいたずらに消耗させること、なりません。ここを無事に逃げきれば、浅井との一大決戦が待ち構えているのです。そこで、家康くんを欠くことになれば、織田家と徳川家は滅亡しかねません!」
家康は、うぐっと口ごもり、それ以上、信長に対して何も言えなくなる。
「すまないのでござる。秀吉殿、光秀殿。俺は生きねばならないのでござる。そなたらの命、無駄にはせぬと約束させてもらうのでござる」
「さきほども言いましたが、私は死ぬ気はないの、です。生きて、京にて会いま、しょう」
「ふひっ。家康殿とは、まだまだ相撲をとり足らないのでございます。京に戻りましたら、1番、取り組みをしようでございます」
肩を落とす、家康に向かって、秀吉と光秀がそう告げる。生きて帰ってくると、そう告げているのだ。
「秀吉くん、光秀くんには悪いのですが、兵は1000ずつしか出せません。しかし、それでもなお、きみたちは戦い、皆を京まで送り届け、さらに生きねばなりません」
「1000も預けてくれるだけ、うれしいと思い、ます。信長さま、いえ、皆さまの命、この秀吉が身命を賭けて、守って見せ、ます!」
「ふひっ。合せて2000も殿に使うのはどうかと思うのでございます。僕には500でも構わないのでございますよ?」
そう、光秀が軽口を叩く。
「じゃあ、光秀くんだけ、300にしましょうか。よほどの自信なので、きっと、殿を全うしてくれるのでしょうね?」
「ふ、ふひっ!冗談なのでございます。1000です。1000でお願いするのでございます」
慌てふためく光秀を見て、家康は、つい、ふふっと笑いが込み上がってくる。
「ん?家康くん。余りにもの危機のために、頭がおかしくなったのですか?曲直瀬くんからもらった新薬があるので、処方しましょうか?」
「ちょっと、やめてくれでござる!おしっこ噴水のように吹きだしたのでは、逃げることができなくなるでござるよ」
「いやだなあ。疲労が飛ぶ薬のほうではありませんよ。足が3倍速くなるだけです。処方するのは」
「おお、それは逃げるときに役立ちそうな薬でござるな。曲直瀬殿にしては、まともな薬を作ったのでござるな」
「ただし、尻から赤い何かが噴き出ます。なあに、足が3倍速くなるのですから、これくらい当然と言ったところでしょうかね?」
「尻から赤い何かってなんなのでござるか?おしっこ噴水のように吹きだすほうがまだましではないのではござるか?」
「たぶん、赤味噌が飛び出すんじゃないんでしょうかね?」
「私も赤味噌が尻から噴き出すと思っていましたが、どうなんで、しょうか?」
「ふひっ。是非とも、家康さまにその薬の副作用を体験してほしいのでございます」
物騒なことを言っている、信長、秀吉、光秀である。
「殿!逃げる準備が整ったぜ。さっさと行くぞ」
信盛が陣幕に飛び込んできて、そう信長に告げる。信長は踵を返し、陣幕から出ていくのであった。
残された諸将たちも、それぞれの任務を全うするために、次々と陣幕を出ていく。その中、丹羽がぽつりとつぶやく。
「鮒寿司で始まり、鮒寿司で終わる関係っだのです。長政さま。信長さまは強いですよ?」
「ふはははっ!信長殿。腕に覚えのあるもの数名と馬を30頭、連れてきたのでござる。京への道は若狭を通らず、びわこの西の沿岸を通り、ただ真っ直ぐと駆け抜けるがいいでござる」
松永久秀が、赤母衣衆から選んだ屈強な戦士たちと、乗り換え用の馬を準備していた。
「おい、お前ら、しっかり信長さまを護衛するッス。特に、慶次、お前はがたいがでかいから、矢がとんできたら、信長さまの盾になるッスよ!」
久秀が選んだ戦士たちは、前田利家率いる、赤母衣衆から借りたのであった。かの部隊は信長の有する軍にしては珍しく、馬に乗れるものが多い。
目的は信長を無事に京に送り届けることだ。お供をするものたちは馬に乗れなければ話にならないのである。
「へいへい。織田家に再仕官をゆるされたんだ。オジキ、信長さまの命は俺に預けてくれだぜ」
前田慶次が、馬にまたがりながら、返事をする。いつもなら傾いた格好の鎧姿であるが、今は、鎧を脱ぎ捨て、鎧の下に着る服のみとなっている。
「ああ、慶次くん。きみが護衛をしてくれるのですか。これは安心できる人選ですね。さすがは久秀くんです」
信長も馬にまたがり、皆の前に現れる。だが、南蛮製の甲冑と兜をぬぎ、お気に入りのびろーどのマントすら身に着けていない。薄い服1枚を着ている状態だ。
「信長さままで、そんな恰好だと、流れ矢が心配なんッス。信長さまだけでも、甲冑をつけとくッスよ」
「それはできません。それでは、速度が落ちてしまいます。先生は何がなんでも生き延びなければならないですからね」
信長、久秀、信盛、慶次含めて10人で、一足先に京へ逃げる算段である。
「おい、殿。のんきにしゃべってる暇なんかないぞ!逃げるなら、さっさと行くぞ」
「ちょっと待ってくださいなのです。おむすびと兵糧丸と水筒をかき集めてきたので、持っていくのです」
丹羽とその部下たちが信長の元に駆け寄ってくる。荷だけ積んだ馬をさらに10頭連れてきたのだ。
「1日ではさすがに京へは戻れないと思いますので、毛布も一緒にくくりつけておいたのです。荷馬もいっしょに連れて行くのです」
「丹羽くん、ありがとうございます。すっかり食事のことなどを忘れていましたよ」
「逃げるのも大事ですけど、ちゃんと食べてくださいなのです。では、信長さま、いってらっしゃいなのです。あとで京で会いましょうなのです」
そう、丹羽が信長と別れを告げる。もしかすると、今生の別れになる可能性はあるが、丁寧にあいさつを交わす時間すら惜しいのである。丹羽は簡素に言葉を切り、信長に逃げるよう催促する。
「では、皆さん、申し訳ないですが、先生は先に京へ戻ります!皆さん、必ず生きて、京の地で会いましょう」
そう、信長は兵たちに言い、馬の腹を蹴り、馬を走りださせる。次いでお供の久秀、信盛、慶次、他数名が馬に乗り、付き従うのであった。
今まさに、歴史に名高い【金ヶ崎の撤退】が始まったのであった。
信長を含む10名の者たちは馬で駆けに駆ける。
「おい!あの馬に乗っている集団。もしかして、織田家のお偉いさんじゃねえのか?討ち取れ!そうすれば、お殿さまから金がもらえるだ」
通過しようとする村では、すでに浅井長政による、織田軍追討令が発せられていた。将を討ち取ったものには、褒賞に金一封と年貢の1年免除を言い渡されていた。
眼の色を変えた村民たちが、それが信長とは知らずに、手に槍や斧をもち、信長一行の前をふさぐように踊り出るのである。
「へへへっ。鎧は着ていないが、顔を見る限り、栄養たっぷり食べているって顔をしているのだぎゃ。絶対に、名のある将に違いないのだぎゃ」
「討ち取るんだべ!金品を奪い取って、その金で牛を買うんだべ」
信長一行の前に躍り出た農民のひとりが斧を振りかざし、信長一行に襲い掛かる。だが、その斧が信長に届く前に宙へ弾きとばされる。
「いでえ!いでえ!おらの腕がー、おらの腕がー」
斧を持っていた農民の右腕があらぬ方向を向いていた。
「はっ!農民どもが何いきがってやがるんだぜ。俺の槍を馳走してほしいやつは前に出ろって言うんだぜ」
斧を持った農民を撃退したのは、慶次である。彼は通常の槍の2倍近くの太さもあろうかという、朱く染めた槍を豪快に馬上から振り回す。
「ひ、ひい!なんだべ、あの化け物は。あんなぶっとい槍を平然と振り回してるべ」
「ええい、何を怖気づいてるんだぎゃ。囲んでしまえば、いくら勇壮な将と言えども、おしまいだぎゃ!」
農民の中でもひと際、大きな声で皆に号令をかけている男が、信長一行を囲むように指示をする。だが、その男の声が苦痛の色に様変わりする。
信盛が馬上から弓を構え、そのうるさい男の胸に矢を射かけたのだ。
うぎいいいいいと悲鳴を上げたのち、のたうちまわり、その号令をかけていた男は絶命する。号令をかけていた男が死んだことにより、農民たちは自分たちの身の危険を察し、信長一行を包囲するどころか、後ずさりを始めていた。
「ふはははっ、なかなかの弓の腕前なのでござるな、信盛殿」
「いやあ、こんな近距離で外すようだったら、俺、将を辞めなくちゃならんでしょ」
そう言いながら、信盛は矢継ぎ早に、次々と農民たちを射抜いていく。相手の命を奪うために急所に向けて、矢を放っていく。あるものは腹に、あるものは胸に、そしてあるものは頭に矢が突き刺さっていく。
農民たちの命を奪うことに対して、信盛に迷いはない。今や、北近江の民すべてが敵だとすら思っている。いつもなら、敵と言えども、怪我程度で済ませる場合も多いが、今は違う。
命を奪わなければ、奪われるのは、殿の命なのだ。それだけは、絶対に阻止しなければならない。信長一行は修羅と化す。向かってきた農民をことごとく、切り伏せ、射かけ、絶命させていくのであった。